自己啓発本⇔自己肯定?

今日のお題:自己啓発本を読んでも自己肯定感が高まらない根本原因は何でしょうか?

自己啓発本を多読しても、なかなか自己肯定感が高まらないとのことでした。私も暇があれば自己啓発本と呼ばれる種類の書棚にいつのまにか辿りついていることがよくあります。

「”子供のときに、母親から『どんな事があってもあなたの味方」と言って育てられている人は自己肯定感が強い。”とチカケイ秀夫さんがツイートされていました。noteでは原体験は何をするにも大切だともおっしゃっています。

自己啓発本を多読しても自己肯定感が高まる場合もあります。それは、自己啓発本を実践し、達成感を得られた場合ではないでしょうか。

読んで知っているのと自意識に取り込むのとは似て非なるものです。書いてあったことが”あるある”になった時、自意識に取り込まれたに近いものがあるのではないかと最近気づきました。”あるある”ということは、その対象を実感できたり経験できたりする感覚なんだなと。

自己啓発本読破後、自己肯定感が高まらないのは、自己啓発本を単なる事象だと認知し、どこか思考にあてはまらないなと脳が無意識か意識的であるかは分かりませんが拒絶しているからだと思います。例えば自分に合わない自己啓発本だったりした場合もそういうことが起こる気がします。

自分に合わない自己啓発本については、内容が難しいこともありますが、自分が求めていた内容と違ったなど多岐にわたります。じゃあ、自分に合う自己啓発本を探すことが出来ればいいのだということになりますが、それはなかなか難しいものです。

しかし、自分に合う自己啓発本を探そうとすれば、まずは自分が何を求めて自己啓発本を探しているのかという問いにぶつかることになりますが、この点が一番大切なんじゃないかと。普段はあまりそこまで深く考えることがないからです。自己啓発本で自分が何を求めているのかを知る手がかりに使うことはできそうですが、それだと何冊読めばいいのかという気持ちになりませんか?しかし、多くの自己啓発本の効果はその人が何を求めているのか気付かせてくれるのではないでしょうか。これじゃない、あれじゃない、実はこうなんじゃないかという思考プロセスで問題点や求めていることの輪郭が見えてくるみたいな。

そう考えると、自己啓発本に限らず、小説、詩、短歌、俳句、コラムや本以外の何かでも発見出来ることがあるのでは?寺山修司の名言で『書を捨てよ、山へ出よう』という本のタイトル、目から鱗でした。

自己啓発本→自己の目的探し→本や他のこと→目的とか知りたいことについての枠ぐくり→それについての本→自己の目的探し→本や他のこと→さらに絞っていく→繰り返し・・・

こういうことで、自己の目的みたいなものに近くなった時、それをもし、実現出来れば、たとえ原体験で自己肯定が得られなかったとしても、自己啓発本からの達成感による自己肯定感の引き上げみたいなことは出来るのではないでしょうか。」

今、自己肯定感が上がっているのかどうか分からないという場合もあります。しかし、本を読むことで速読が可能になったり、無意識の領域で何かとして功を奏する要素として温存されています。そして、ある時、ふと、ああ、そうか!あの時のあの本のあのフレーズはこういうことを言っていたんだと、数年後とか?来週かもしれませんが、ふと気付けることがあります。そうなる時は、自己啓発本を超えた自分になっている気がします。自己啓発本で自己肯定感が上がらない場合、私の場合、たいてい自己肯定本に自分が追い付いていないからだったんだと、今回のお題で学んだ次第です。

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