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「違いは強みであり、弱さではない」から学ぶ


TVレスなため、東京パラリンピックの開会式もラジオとYouTubeで聴き耳とググりをたてることになった。

参加者1名のアフリカのある国(どこだったかな?たしか、アフリカ大陸から少し離れた離島だったような)が選手入場で紹介される。

コロナ渦の中、遠い国から1人で頑張ってはるばる日本にきた人がいる。どれだけの挑戦だっただろう、箸を置き急に何かが込み上げてきた。母はすでに涙目だったが、この点については、半年ぶりくらい?飲んだ缶ビール1本によるものだと思われる。聞き進めると1名の参加国は結構あるようだった。一方で中国は2千人以上、練り歩く姿をみたいとYouTubeでググるもまだUPされていなかった。

ラジオのいいところは、つけっぱなしにできること、聞きたくなればいつでもきけるところだが、時に混乱するときもある。開会式の挨拶が始まった。家事をしながらのリスニングになっていく。日本語なのにリスニング、何か変かもしれないが、じっくり聞かないと聞きそびれてしまう。

blutooth接続していない、スマホ音は、家事にかかわる電子音や水の音なんかで、4年に1度の記念すべき声音にもかかわらず、案の定、雑音化さえして聞こえない聞こえない。

家事が終わる頃には開会式のことは忘れていた。ふと落ち着いたとき、ラジオからの雑音は音となり声となりみるみるイメージされていく。

違いは強みであり、弱さではない

何か大きな荷がおりたと同時に、物凄い勇気をもらった気がして、荒れ狂う高鳴る鼓動や感動をおさえることが出来なかった。自他ともに、どうしても譲れない感覚のちがい(ちっぽけ!!!)を積極的に認めていこう。そう思える目から鱗もので、オバマ大統領の広島訪問のスピーチを思わせ、それを上回る感動だった。

「強み」「弱み」VS「強さ」「弱さ」

「名詞+み」は、その人に備わっている属性の1部な気がする。「名詞+さ」は、単体で存在する概念としての名詞だろうか。名詞専門店で「弱さ」を注文して、自分に取り入れた瞬間、それが「弱み」という肉や血になる、みたいな。

文豪太宰治の「弱さとは優しさのことではないかしら?(「斜陽」より)」の有名句、ずっとぼんやりとした感覚で捉えていた、というより、意味が分かるようでわからない。具体的には、弱さイコール優しさだと強引に感覚でそう思っていて、何となく違和感もあったが、今回の感動スピーチで考えるきっかけとなり、自分なりの解釈をしてみたらこうなった。文学に正解はないと言われているので解釈も自由だろう、自由であってほしいとこのように勝手に解釈してみた。

優しさとは、多種多様な選択肢があるなかで、あえて弱さを選択すること。

そう考えると、優しいなぁとなる。名詞マーケット(なにこれ的なスーパーマーケット的風景?)には、弱さと正反対の「強さ」にはじまり、無敵の無数の「〇〇さ」なるものが存在しているのに、あえてその中で「弱さ」をチョイスするわけですから。で、「弱さ」って何?「優しさ」って何?ってなっていくわけで、そんなの一概には言えないじゃんよー、わかんないじゃーん(ベートーベン)となるわけです。なぜなら、流動的であまりにも抽象的すぎて、その人のその時の状況で変化していくものではないかしら?と思うからです。一方で、「〇〇さ」にはじまり、すべての言葉には、その人独自の経験からくる「理想」「推測」があり、辞書に書いてある正確な意味とは一致はしないけれど、ニュアンス的に合ってるでしょ、より的を得ているでしょ的に使うことは多いし、新語もここからうまれている。一方で、これらは経験から学んでいるので、辞書を読んで知るのと同じく、伝聞による語彙獲得や辞書以外の活字からの習得もまた真と思うし、ほとんどそうだなと。

経験による概念と、辞書による意味とのズレみたいなものに興味を抱き、数年前から暇時間に辞書で感覚の正解度みたいなものをチェックしていた時期があった。「か行」の「き」あたりにポストイットnow。

weblioによると、

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なるほどである。ほにゃら、どしたら優しくなれるか~い的?????自問自答。で、対象ではなく、個として捉えたときに優しくなれるのではないかと。つまり、感情移入する、自分ごと化するに近いかと(わかってんじゃん!!)、あえてまとめてみました(それ必要?)。だから大人数学級は先生が大変だし、生徒も寂しいきっと。優しくしたつもりでも、弱さを捉え違えてしまっていることで、優しくないとなることもある。正しく弱さを捉えられるか、捉えられているかという疑問もでてきた。ふと昔テレビでみていた戦隊ものシリーズのヒーローや昔話シリーズが思い浮かんだ。怪獣とヒーロー、鬼と桃太郎、はっきりしていてわかりやすいし、ヒーローは必ず助けてくれる。だけど、こんな風に割りきれて実践できるはずないよなと苦笑。そしてヒーローも変身前はただの人でヒーローとは正反対なことも多い。ちなみに、のび太はドラえもんがいつもそばにいることで、変身せずにヒーローになれているんじゃないかと。優しいはヒーローで、ヒーローは優しいのなら優しくなれている時はヒーローになれていることになる?さあ?弱いとか優しいとかって、主観的な言葉なんだなと改めて思うし、やっぱりまた太宰治の言葉がわかんないぜとイガイガっとイガグリするんだろう。

アーティストの平沢進さんの曲(最後にきいてみてください、よかったら)に、「ああ、今夜君になろう」とありますが、こちらも、最初はドッペルゲンガーみたいなもの?な感じだったり、恋愛の唄なのかなと思ったりでしたが、ストンと違和感なく、相手への理解をしめしている言葉(歌詞)なんだなと。(歌詞にも正解ないはず)平沢進さんと最後の曲の電気グルーブさんは「フジロックフェスティバル」にもアスリート、でなくアーティストとして出演されています!どちらもYouTubeみるようになって知ることができたのですが、ボカロのボブマーリーではないかと。とにかくボカロの先駆的音楽でもあるとも言われているそうです。ボカロもさまざまな音楽のいいところを響かせてくれている感ありますが、2大アーティストも音楽の玉手箱ならぬ宝石箱みたいで、クラシック、ジャス、ワールドミュージック、アジアンミュージック、タンゴ、サンバ、pop、演歌、民謡などさまざまな音楽要素があいまじっている感あります。洋楽からボカロ好きになった(これまたYouTube!)方でまだきいていないならぜひおすすめです。というのは、マイケルジャクソン、ガンズから洋楽入りして、80年、70年代ときいていき、ビートルズ、ボブマーリー、に出会いボカロにであえたあの感動と同じだったからです。では。

「弱さ」を「強み」にするって?

こんにちは。パーソンズ会長の「違いは強みであり、弱さではない」に秘められた思いって何でだろう(タカ&トシ)ではなく、何だろ?っ?てなるわけです。「違い」と認識することにくわえて、「自分以外の人はそうでない」と認識してしまうことで、より強く違いを認識することになり、孤独感につながり、孤独感が深まります。

でもね、思ったわけです。

違いは違いのままだ。

自分以外の誰かと違うなと思ったとき、それを弱さだと捉えがちです。パーソンズ会長は、それを強みだと??ん~???

違いは違いのままなのに、違いを弱さだと思ってしまっているのに、それを強みに変えちゃえってのはあまりにも違和感ありすぎ楽観視しすぎ?こんな疑問、フツフツと湧きたちます。

パーソンズ会長は、違いだと思ったことについて、「指標」を変えてみると「強み」になるとおっしゃっているのかもしれないなと推測。

たとえば、努力してもどうしても、〇〇ができないと思ったとします。ここまでなら、違いこそ感じますが、それを弱さだと認識しません。問題はここからです。

〇〇する、しない、できる、できないについて、「一般的に〇〇ができるほうが好ましい」とされているとします。そうなると、「〇〇できない」ことがたちまち「弱さ」と認識しがちとなります。

ポイントは、「一般的に〇〇できるほうが好ましい」の指標について、自分の中で「〇〇できなくてもいい」「〇〇できなくても関係ない」と思うようになるのが理想です。そのためには、「〇〇できることによるすごい、すごくないの考え方(指標)をとりはらう必要がでてきますが、違いは違いのままです。

そこで、「すごい、すごくないは、〇〇できるかできないかではない。」と、「〇〇できない」について、自分以外の人が思う価値観、つまり指標の部分、「〇〇できることが、△△の点においては好ましいとされている」、「できないことは、△△にどう影響するか」の「△△にどう影響するか」や「△△の点においては好ましいとされている」の、〇〇できないことによる影響の部分に視点をうつしていきます。

そうすると、すごい、すごくない(○○できることによる)に代わる、すごいは何か?それができればいいのではないか?と考えていきますが、きっと「〇〇できることが一番よしとされている」ので、代替案はないに等しいことが多いです。

そうなれば、「〇〇できるできない」による「すごい、すごくない」は通り過ぎて(超えて、視点を変えて)、単独で「すごい、すごくないは何か?」の疑問に到達します。

パーソンズ会長は、違いからはじまる、「自分にとっての、すごい」の疑問にきりかえて、見つけられたのなら、それが、(違いを弱さだと意識したことがはじまりとなる)強みになるとおっしゃっているのではないでしょうか。

さらにいえば、「違いを認識したあと、そのことについて、弱みだと思う気持ち」をAとします。「〇〇できないことで、△△を満たせない」となったとき〇〇できない違いを、弱みだと誤認してしまいますが、問題は、△△を満たせないからであり、考えるべきは△△の部分ではないかと。

そして△△について、代替の〇〇できるがみつかればいいけれど、それができない、しない場合で、「違いからはじまる、自分だけのすごいを発見できた。そのことについて、強みだと思える気持ちをB」とします。

B>A

こうなったとき、「違いは弱さではなく、強みになる」のではないでしょうか。

アスリートが持つ力~4つの価値

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※IPC発表の英語表記は「Equality」でありその一般的な和訳は「平等」ですが、「平等」な状況を生むには、多様な価値感や個性に即した「公平」な機会の担保が不可欠です。そしてそのことを気づかせてくれるのがパラリンピックやパラアスリートの力である、という点を強調するため、IPC承認の下、あえて「公平」としています。

パラリンピックでは、「勇気」「強い意志」「インスピレーション」「公平」を価値と定められていました。

平等と公平は大きく違う?

最近も平等だけど公平じゃないよねと思うこと、あります。例えば、夏のエアコン代です。所得税などの税金では、収入やその人の状況によって税率が変化します。一方で、エアコンや暖房費は所得が考慮されることがないので、低所得層であるほど負担が大きくなります。様々な制度で所得の公平は守られているという意見を読ませていただいたこともありますが、特に6月くらいから10月末くらいまでエアコンが必要な日もある年が続くと、デモねと思わざるおえません。

・誰がつかっても同じ電気代⇒平等
・所得に応じた冷暖房代でないこと⇒公平ではない→所得に応じた冷暖房費になれば⇒公平

こんなイメージです。

共感や想像力の欠如からうまれてしまうものもある?

アイデアの新奇さや目を引く表現に引きずられ、それによって傷つく人がいるという想像力が欠けてしまっていると思います。また、デジタル広告に関して言えば、過激な表現ほどクリック数が伸び、収益に結びつきやすくなる可能性が高いという構造も原因の一つだと思います。
突然、革命が起きて、世界が変わることはありませんよね。みんなの日々の取り組みが、世界を少しずつ前に進めていく。
開発途上国の中には経済力が弱く、環境問題への対策まで手が回らず、開発を優先して汚染を招く活動を政策的に後押ししてしまっているような状況もあります。一方で先進国の人々は、海の向こうの飢餓や貧困を「自分ごと」として捉えづらく、また自分とのつながりも見えづらい。先進国と途上国、企業と生活者など、さまざまな面で分断があります。
先進国の生活者が企業の作った製品を購入すると「風が吹けば桶屋が儲かる」のように途上国の何かが良くなるという仕掛けをもっと作れれば、企業や途上国とのつながりを感じ取れるかもしれません。

SDG’s、ローマは1日にしてならずならば、毎日少しずつやっていこうよと。それならわかります、今やってることかしこのこと、がんばってこうって思います。

ラジオのデメリット的なもの(人による!?)

感動を隠せずに独り言のようにリピートしかけていた私に、母は言った。「橋本聖子さんも、いいこと言ってたよ~ん。」
「だけどバッハ会長のスピーチ、すごいよまったく!!」
「そうだった?」

この地点で二人の間で、感動スピーチの主はバッハ会長のスピーチであると最大級の誤認化が進んでいた。こういうのを思い込みというか、ラジオの弊害ともいうのだろうか。そういえば更なる珍事件なるものがあった。

熊本豪雨が連日放送された時期があった、いつも「くまむら」「くまむらが」など耳にしない日が無いくらいだった。そして思い浮かべるのはいつも熊本県の「熊村」でなぜか同時にクマモンも連想している顛末。

豪雨災害ニュースから数か月経過し、ふと熊村は本当に熊村なのだろうか?と疑問が起こり、コワゴワGoogle。やっぱり「球磨村」だった!!!どうなんだろう?と母に確認してみたら、案の定やっぱりである。二人で馬鹿さ加減に大笑いするも、初めてきく地名は辞書を引こうと思ったし、改めてニュースはTVも取り入れようとか、新聞や本の活字の重要性というか、ツールにもバランスが必要なことに気付いた。疲れているときなどは、漢字変換しなかったり、しても間違えて変換していたり。まるで日本地図について、地図で確認していないためにおこるのとそっくりだ。

パラリンピックが楽しいと思う理由

ちなみに、パラリンピックは楽しさを超えた何かを目標にしている。パラリンピックの開会式、なぜだろう、オリンピックの開会式の時より豊かな気持ちになれたのは。幅跳び金メダリストで義足アスリートの山本篤さんの開催前インタビューで、練習はしていない、大会が練習だからの放送を聴いたからだろうか、それもあるけれど、多分それだけじゃない。きっと会場全体が勝敗を超えたオープンマインドだからだと思っている。そして、アスリートの方々や開催に手を取り合った方々は、こちらはバッハ会長もおっしゃられているように、パフォーマー(選手)を超えた、平和のアンバサダー、広告塔、を超えたpeace of worldの伝道師に1人1人がそう思えてならない。

違いは強みであって弱さではない。ポストコロナの世界は全ての人に機会が開かれる社会でなければならない。大会が延期された去年、パラリンピックアスリートの打たれ強さは多くの人に力を与えた。今こそ世界に皆さんの技、力、強い意志を示すとき。変化はスポーツから始まる。

そして、noteを書きながらの脅威の発見!?開会式の入場行進から、ずいぶん経ったあとに聞き始めたあの、感動のスピーチ、バッハ会長でなくIPC(国際パラリンピック委員会)のパーソンズ会長でした(えっ!?)!!

違いは強みであり、弱さではない by パーソンズ会長

違いは強みであって弱さではない。ポストコロナの世界は全ての人に機会が開かれる社会でなければならない。大会が延期された去年、パラリンピックアスリートの打たれ強さは多くの人に力を与えた。今こそ世界に皆さんの技、力、強い意志を示すとき。変化はスポーツから始まる。

発信することって大事なんだな、アウトプットするんだから。アウトプットすることで脳内整理されて、再確認もできるんだなと(発信のメリット)。

何を基準にするかで変わる価値

パラリンピックはオリンピックの二次的なものとしてどうしてもとらえられがちになる。なぜか?それはタイム、高さ、距離、勝敗などにオリンピックが勝ちと価値を置いているからです。ここでもパーソンズ会長の言葉を思いだします。勝手にエンブレム配置してみた。ら?

タイム、高さ、距離、勝敗など基準の場合のイメージ

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台風の中心はオリンピックかなと。

楽しむ・平和基準の場合のイメージ

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何に重きをおいているのかなと思ったとき、観客ふくめ選手の方向性みたいな、外野席から見た感じです。

身近さの点では?

その人によりけりですが、初めての感覚だったので少し筆記中。新型コロナウィルスが蔓延する前のオリンピックは、人々はヒーローを求める傾向が強かった、そのため、オリンピックがメインで身近に感じる人が多かったし、私もそのひとりでした。しかし、2021はどうでしょうか?私はオリンピックは素晴らしいと思う反面、少し違和感も感じまして、それは身近ではないという傍観者的感覚でした。そして、パラリンピックの開会式が始まってからは、選手一丸となって応援することに関して、自分ごととしてオリンピックを身近にとらえることが出来ています。それは、気持ち、spritの麺でなくて、面で一致しているからなんだと。それは、今までのいたわりの気持ちが強い共感ではなく、共創させてもらっているという新しい感覚です。

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世界のデジタル革命の進化を垣間見れる・楽しめる基準なら?

デジタルの世界には、大きな可能性と大きな課題があります。責任を持って管理しなければ、デジタル化が社会の既存の分断を深める危険性があります。私たちに与えられたチャンスは、私たちが持っている大きなプラスの可能性を活用し、私たちの統一されたオリンピックの価値を人々に直接伝えることです。デジタルエンゲージメント戦略とは、より多くの人々とより頻繁に関わり、私たちのメッセージと価値観を新しい方法で広め、人々とアスリート、そして私たちの価値観を直接結びつけることです。(バッハ会長スピーチより引用)

バーチャルスポーツとは?

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バーチャル・スポーツ、自分がバーチャル選手になり東京見物的に走る爽快感と一緒に体感できるスポーツなんだなと。リオやロンドンのときはなかったよね、それだけデジ化は進んでるってことなんだなぁと感慨にふけるのは誰?

2021年5月13日から6月23日まで開催された「olympic Virtual Series」

デジタル化がすでに私たちの生活、仕事、スポーツのやり方を変えつつあります。コロナウイルス感染後の世界を私たちの価値観で形成するために、私たちはデジタル技術を使って人々とより直接的に接し、若者と関わり、オリンピックの価値観を広めていきます。その一例として、バーチャルスポーツへの取り組みがあり、初開催のオリンピックバーチャルシリーズは大きな成功を収めました。

バッハ会長のスピーチが長い問題について、パラリンピックそのものに焦点をあてた祝辞でもよかったのかなの一方、バッハ会長は、オリンピックとパラリンピックを融合させたために、より強い平和へのメッセージとなったのだと見受けられ、バッハ会長はオリンピックもパラリンピックも同じなんだ、助け、気遣い、分かち合いが連帯であり、連帯こそ平和に欠かせないアイテムなんだと。

連帯感とデジタル化は、私たちが学んだ教訓のほんの一例であり、オリンピック・アジェンダ2020+5で実行に移しています。連帯感は、私たちが行うすべてのことの中心にあります。連帯感は、スポーツを通じて世界をより良い場所にするという私たちのミッションを後押しします。なぜなら、私たちは連帯してこそ、より速く、より高く、より強くなれるからです。 連帯感を強めることは、スポーツを通じて平和に貢献するという3,000年の歴史を持つ私たちの使命を果たすことにもつながります。連帯感がなければ、平和はありません。

13分ほどの熱演、olympic Virtual Sreiesの開催を知らなかった私にとっては、融合型かつおさらいスピーチは勉強になったなと(長すぎると言われているようですが)。


総論:Happyなアメンボになった気分

日々、こういうシーンはありますが、今回は格別でした。パーソンズ会長は、開会式のスピーチで選手達へ大きな賞賛の意を表明しました。そしたらまた山本篤さんのラジオでの一言を思いだす顛末。

”練習はしていません”

え!?ここでいう練習は、いわゆる苦手を克服するための取り組みのようなものだろうか、コツコツすることだろうかと妄想がふくらんだ。聴き終わり直後は、練習していないなんて、何てキザなの!何てかっこいいの!!と思っていましたが(言い方があまりにも明るかったので)、パーソンズ会長のスピーチ通訳をきいてハッ!!と後悔となります。

「練習を練習にしないこと」から学ぶ

圧倒的に強い人や〇〇な人をみると反射的にそう思うのでしょうか、自分忍耐が足りないことをaware、大自然の中にそびえる6000メートル級の登山から帰ってきたらこんな感動と気づきの混じった気持ちになるのでしょうか。

”ここまでくるのに、どれだけの困難を乗り越えられたことでしょう!”

うる覚えですが、パーソンズ会長スピーチの一部、こんなニュアンスだったと思います。

練習は当然、もしくはオリンピック選手と同じくらい、それ以上に頑張っているはず。それなのに、本当に練習していないと思っていたのでした。でもやっぱり、本当に練習していないのかもとさえ思う顛末、それくらいラジオ、説得力ありまして。パラリンピックにくるまでにどれくらいの困難を乗り越えてきたかに指標を変えた瞬間こうなりました。(まだ続いていた!)

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ラジオの山本篤さん、絶えず明るく、今が一番いい、パラリンピックに出会えたから義足になってよかったとさえおっしゃっていました。練習にかかわる困難とは別の、種類が違うというかさらに深く考えさせられる想像を絶するきっと困難を乗り越えてこられたんだ、だから人を勇気付けられるし、余裕さえ感じるし、聴く人を明るい気持ちにさせてくれる?いや、持って生まれたもの?それとも磨いたもの?そして、聴いた放送はアーカイブでして。

スポーツは平和のためにあるのだから

タイム、距離や高さを競うことは、指標が統計であることを意味します。スポーツの目的、オリンピック、パラリンピックの指標は平和だとすると、タイムを超えた平和を願う気持ち、これは世界の人々共通感覚で尊いものです。パラリンピック、オリンピックをみたら平和につなげようと思える強い気持ちを持ち続けて行くことが祭典の目的なら、すべての人が目的に向かっていけるんだと、そして統計的指標でさえ過程なんだと。一方で、人体への強い関心をもつことは、タイムなどの指標にも強い関心があることで当然ですし、記録が更新されれば新大陸を発見したかと同じくらいの驚きが有ったり、愛国心が高まりますし。

人々の関心というか、オリンピックをみる指標がタイムなどの統計から、平和へ移行している感じがしました。頑張ってる選手をみるだけで平和が願える。それだけ、時代とともに見る側の想像力も進化してきているというか、オリンピック、パラリンピックには人智を超えた感動の魔物がいるんだと。

アスリート達1人1人のストーリー化でつながる共感、連帯、平和

バッハ会長のメッセージには連帯感の重要性が込められています。

アスリートたちの感動的なパーソナルストーリーや、オリンピックのさまざまなヒューマンモーメントに焦点を当てています。これらのストーリーを、私たちのすべてのデジタルプラットフォームで世界中の人々と共有することで、私たちが学んだ連帯の教訓を強調し、スポーツにおいても、人生における多くの課題においても、私たちは常に共に強くなるという、オリンピックの統一メッセージを広めています。 連帯感とデジタル化は、私たちが学んだ教訓のほんの一例であり、オリンピック・アジェンダ2020+5で実行に移しています。連帯感は、私たちが行うすべてのことの中心にあります。連帯感は、スポーツを通じて世界をより良い場所にするという私たちのミッションを後押しします。

総論2:橋本聖子さんのスピーチから学ぶ

ここまで、パーソンズ会長のスピーチの「違いを強みに」について、クローズアップしてきました。橋本聖子会長のスピーチ、全てを包括、違いを違うと思う人が悩み、強みに変えなくていい理想的な社会がみえてくるような、希望にあふれた心あたたまるスピーチでした。

パラリンピックを迎える準備を始めてから、私たちの社会は、ユニバーサルデザインのまちづくりや心のバリアフリーを目指してきました。一歩一歩、少しずつ、しかし、確実に社会は変わり始めています。
 大会を契機に、互いの違いを認め合い、支え合い、いかなる差別も障壁もなく、誰もが生きやすい共生社会を築いていきたい。アスリートとスポーツの力で世界と未来を変える、これが私たちの使命です。半世紀の時を経て、今、社会が変革するときが来ました。
 アスリートの皆さん。コロナ禍というさらなる困難にあっても、ひたすら努力を続け、東京に来ていただき、ありがとうございます。すべてを受け入れ、時に諦めざるを得ない状況から生まれた、真の力強さと覚悟を持つ、世界のすべてのパラアスリートを尊敬します。
 パラアスリートは、人間には無限の可能性と、限界を超える能力があることをいつも教えてくださいます。幾多の困難を乗り越えてきたその姿で、私たちに、立ち上がる力と希望を与えてください。

「限界を超える能力があること」では、AIやITには無い、人智を超える能力をうみだす能力が人には備わっていることや人間の進化の未知なる可能性を期待させてくださるかのよう。

「私たちに立ち上がる力と希望を与えてください」は選手を聖書のキリストにたとえられたのでしょうか、パラアスリート(オリンピックアスリートも)の偉大さ、信じることの大切さを思わせてくださいます。


多様性と調和の意味をもつ「東京2020」のエンブレム、境界線や枠は当然ですがありません。

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今回は、エンブレムが理想だとしたら、開会式から垣間見た、実際に受けたイメージも書かせていただきました。




「限界は自分で決めるものではない、限界は越えていくものだ」からも学ぶ

走り幅跳びアスリート山本篤さん、4位で自己記録を5センチも更新されていました。ラジオでは山本さんのコメントも紹介されていました。

”限界は自分で決めるものではなく超えていくものだ”と。

限界を知るには相対的に見ていく必要があり、それはとても大変なことで限界といつも対峙すること、その努力と圧倒的なパフォーマンスに拍手が贈られる。アスリートのすごさ、世界基準のすごさを感じずにはいられなくなりました。

パラリンピックは平和の祭典

日本ではあまりないことだが、世界の選手は地雷や紛争でパラリンピックに出場される方も多いそう。そして、パラリンピックの起源とオリンピックの起源は少し違うことも知りまして。

まずはオリンピックの起源から。

古代オリンピックは紀元前776年に古代ギリシアのエリス地方にあるオリンピアで始まったとされている。オリンピアはゼウス神の聖地であり、オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭として始まったとされる。それは4年ごとに開催される汎ギリシアの祭典競技であった。古代ギリシアではポリス間で慢性的な争いが起こっていたが、祭典のために「エケケイリア(聖なる休戦)」と呼ばれる休戦期間を設けた。出場者はポリスの自由市民に限られており、優勝者にはオリーブの冠が授けられた。紀元前8世紀のオリンピックは貴族である競技者が名誉のために戦った。しかしそれ以降、ポリスの民主化と共に競技者の階層も広がった。

歴史は古く、神にささげる競技で最初は貴族だけの参加、このころから4年に一度の祭典だったそうな。

パラリンピックの始まりは、1948年、イギリス南部の病院で開かれたアーチェリー大会だといわれています。
第2次世界大戦で脊髄を損傷した兵士たちのリハビリの一環として16人が参加し、それがのちに国際大会に発展し、今のパラリンピックにつながったとされています。

パラリンピックは兵士のリハビリがその起源だったんですね。改めてパラリンピックは平和の灯だと。


そして73年の月日が過ぐ年来る年、コロナ渦にもかかわらず1964 年以来日本で2度目のオリンピック、パラリンピックの無観客の見事な開催。

みに行ける人にとれば大変残念だったと思いますが、観戦にいけない場合、今回の無観客の条件のほうが、より映像やラジオ重視のコンテンツがつくられている?、より素晴らしいコンテンツをみれている?と拍手をおくりたいハシャギーになります。


ボランティアはじめ大会に関わる全ての方々と選手の努力が集大成された、オリンピックそしてパラリンピック2020の閉会式。

ラジオはいいけれど、やっぱり映像は圧巻。鮮やかな衣装に身を包むアーティストたちのパフォーマンスのすべてに感動しました。

橋本聖子さんのスピーチ、感動的でしたが、ここでも限界について触れられていました。

皆さんの圧倒的なパフォーマンスに、心が震えました。確固たる信念と、強い覚悟という土台の上に、幾重にも努力を積み重ね、決して自らの限界を作らない姿を身ました。

「限界をつくらない」について、限界と認めないことであり、信じることであり、とても前向きな言葉、限界でくくらないという意味もあるのかもしれないと思いました。自己分析をするにあたり、結果を得ることや考えのなかで自分はこうなんだなと思うことは多いけれど、それはそれで認めたり意識すべき大切なことである一方で、決めつけ過ぎないことも大切なんだと学びました。オリンピック、パラリンピックをみていて、限界について考えるなかで、分析結果さえ1つの通過点に過ぎなくて、そこから十分に変わっていく可能性もあるんだと。何でも明るい方へ、ここでも信じることの大切さを学べました。


最後に、パーソンズ会長のスピーチ。

誰もが持つ不完全さを受け入れ、隠すのではなく大事にしようという考え方です

この日本文化は金繕いと呼ばれているそうです。

金継ぎ(きんつぎ)は、割れや欠け、ヒビなどの陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる修復技法である。金繕い(きんつくろい)とも言う。


スポーツの祭典の間、私たちは違いを認め、多様性の調和を見せました。私たちの旅をここで終わらせてはいけません。きょうは閉会式というよりも、明るくすべての人が共生できる未来への始まりと捉えてください

パーソンズ会長の躍動感ある快活なスピーチ、スピーチの最中、ありがとう日本、ありがとう管さんなど、”ありがとう”がとてもたくさん出現、その都度通訳がストップ、ありがとうの文化も日本固有なんだろう。それだけで勇気がもらえ更なる感動に私まで達成感につつまれる。ボランティアのみなさんは私たしの誇りですのスピーチにも感動。

全般

感動的だったのは、多くの選手がパラリンピック競技に出会えて本当によかったと言及されていることでした。目標をもつこと、目標を持てることのすばらしさ、目標を持ち続けられることの難しさとすばらしさ、大切さを改めて実感。

ラジオも終盤、感動のラスト5分、感動の嵐のsong、アナウンサーのfarewellスピーチ。残り3分のところで地方の大雨警報ニュースが緊急報道されてしまう。


無観客の中の閉会式だったけれど、ラジオで感動できたし、映像の力はやっぱりすごい、神秘的だった。大会初日から最終日までのダイジェスト映像はまるでドキュメンタリー映画を見ている感。

そして、フランスのパフォーマンス、paris、2024の文字、3回目で発見できた。圧巻とはこのこと、手による舞踏というか命の息吹に釘付け状態で神秘的な空間に感動。彼の手の魂がダンサーさんに伝えられていくのがすごい。手のしなやかさが心のしなやかさを表しているかのよう。

3回目をみるまでは日本人いないね、海外のゲストアーティストが日本のパフォーマンスに参加しているのかな?と思っていたけれど、やっぱり違うよねとアハハ。音声を聞き逃していたのだろう、というか映像に圧巻で聴いていなかんたんだろう。ふおぉおおおお、フランスからのプレゼントだと気付きさらに高揚感。そしてパラリンピックの旗が小池百合子都知事からパリ市町へ鮮やかにバトンタッチされる。


ありがとうオリパラの祭典、3年後の2024年、フランスがパリッときめてくれるだろう。

ベビーチーズをミニサラダ九州しょうゆ味で挟んだあの美味しいのは、まぎれもなくマカロンだと思うことにしよう。サラダは、野菜の意味ではなくサラダ油の意味でした。サクサクしているのが、セロリやレタスなんかのパリパリした感じと似ているから?と思っていたのだけれど。マカロン、しお味はパリッとし過ぎていて塩辛い、チーズの塩辛さでさらに塩辛くなって。醤油味は甘辛くてハッピーターン的でパリッというよりは、フササク、チーズはさんだものならすっかりマカロン?的変貌を遂げる。一方で、しお味は不動の人気だからだろうか、お皿とドレッシングが当たるキャンペーン、どこにも書かれてなかった。

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