My favorite things〜私のお気に入り〜SHOWA (9)『豊饒の海』三島由紀夫

 ドキュメンタリー映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実(2020)』を観て、三島作品を読み返してみたくなった。その折、珍しいことに春の雪が降った。であるなら『春の雪』を読もうと、書棚から取り出した。そして一気に『春の雪』から始まる『豊饒の海』四部作を通読することにした。実は、『豊饒の海』を読むまでは、ほとんど三島作品は読んでいなかった。というより、食わず嫌いだった。三島由紀夫を、過激な右翼でボディビルで鍛えた肉体を誇示するナルシストというイメージで嫌悪していて、作品にも興味がわかなかった。それが、あの割腹自殺(1970年11月25日)という前代未聞の大事件によって、逆に興味がわいた。そして、最後の作品『天人五衰』が出版されたあと、書店での「三島由紀夫、畢生の遺作!」との宣伝文句にも煽られて、手に取り思わず買った。買った後に、これが『豊饒の海』という四部作の最終作であることを知り、あわてて最初の『春の雪』から読まなければと、図書館に借りにいった。そして、一気に四部作を通読した。難解な宗教・哲学的なところもあったが、実に面白かった。そして、一気に三島ファンとなった(以下、『豊饒の海』の内容に触れているで未読の方はご留意を)。

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 それから、愛読し続けて約半世紀、今度で4回目の通読となる。『三島由紀夫VS東大全共闘~』につながるのは、やはり2作目『奔馬』。主人公・飯沼勲の姿が、三島の盾の会の活動と割腹自殺に重なってくる。後半の裁判の場面で、裁判長が(騒乱を起こそうとして)逮捕された勲に向かい質問をする。「なぜ、憂国の志だけではいかんのだ」と。すると勲は「陽明学の知行合一と申しますか、知って行わざるは、ただこれ未だ知られざるなり、という哲理を実践しようとした」と答える。そして「社会問題にも目がひらけ、世界恐慌から引き続いている慢性の不況と、政治家の無為無策に驚くようになった」ことが、騒乱(要人暗殺)へと向かわせたと語る。さらに、政府の窮民への対応が「失業手当など、遊民惰民を生じるから、そうゆう弊害を極力防ごうと考えて居る」とうそぶくことに、怒りを感じたという。このくだりなど、まさにコロナ渦での政府対応(某大臣がいいそうな)と酷似しているように思える。

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 三島が東大に乗り込んだのは、東大全共闘を「同じ憂国の志」として感じていたからだ。「君たちに、天皇陛下を思う志さえあれば、私となんら変わらない」ことを懇々と三島は訴えかけている。しかしながら、東大全共闘も、そして市ヶ谷の自衛隊基地の自衛隊員たちも「憂国の志」として三島と共に行動することはなかった。それゆえに、三島は勲に身を重ねて道化(その行為が笑われることも厭わず)となって「昇る日輪を瞼の裏に感じ」割腹したと思える。

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 もうひとつ、見えてきたのは、これはナルシスト・同性愛者と言われる三島由紀夫の姿だ。幼少時代は虚弱体質で、悪友たちから「アオジロ(青白)」とあだ名されていた三島は、作家として成功を収めたあと、そのコンプレックスを克服するが如く、ボディビルに凝っていく。肉体を鍛え上げ、それを誇示するように写真に撮らせて雑誌に飾らせた。それは同性愛の雑誌でも紹介され、このあたりのことが私が一時期、三島を敬遠していたことにもつながる。盾の会は、三島が趣味で同性愛の仲間を募ったのでは、との偏見すら感じていた。

 今回『天人五衰』を読み返して、感じたのは、三島の老いに対する恐れだ。四部作の狂言回しともいえる本多繁邦が、友人の慶子に説く。「天人も衰える。その一は浄らかだった衣服が垢にまみれ、その二は頭上の華(冠)が萎み、その三は両脇から汗が流れ、その四は体から異臭を発し、その五はじっとしていられなくなる。そして、こうなると天人といえども死を避けられなくなる」と。物語の後半、年老いた本多自身、テレビに映されるプールで泳ぐ、若い男女の姿に、自分はもう「美しい肉の持ち主自身の心身に入ることなくして生涯を終わる」と、老いの諦めを明かす。

 三島は、45歳と言う若さで自らの命を絶った。本多繁邦のように老いる前…『春の雪』の松枝清顕、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』のジン・ジャンは、それぞれが20歳という若さの絶頂で死を迎えている。三島は、誇示する肉体が衰えてくる前に、これはナルシストとしての心情が大きいかもしれないが、命を絶つことで「美しい肉の持ち主」のまま生をまっとうした。

 そして、これは『豊饒の海』四部作を貫く大きなテーマである「輪廻転生」が、三島の自死に関わっていると思える。輪廻転生を信じれば、死ぬことは最後ではない。生まれ変わり、また次の生を送ることができる。『豊饒の海』では、松枝清顕から飯沼勲、ジン・ジャン、そして安永透へと転生されたことが、脇の下の3つのホクロを証拠に語られる。もともと『豊饒の海』は、平安時代に書かれた『浜松中納言物語』(輪廻転生が記された)を典拠にされたという。

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 さて、ここからが今まで難しくて避けていたところなのだが『暁の寺』での「輪廻転生は人の生涯の長きに渡って準備されて、死によって動き出すものではなくて、世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄していくのであって」輪廻転生の主体は「無我の流れであるところの阿頼耶識(あらやしき)なのだ」という記述だ。阿頼耶識とは、人間の六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)の奥にある末那識(まなしき)という自我のさらに奥底にあるものを指すという。このことが今まではさっぱり分からなかった。

 十数年ぶりに読んで、おぼろげながら見えてきたのは、この背景にある「唯識論」が、量子力学で言われる「認識論」に繋がっているのでは?ということだ。量子力学では、物質は観察されるという行為によってはじめて存在するという。「シュレディンガーの猫」の話が有名なのだが、生きているか死んでいるかの確率が50%の箱の中に入っている猫は、人が箱を開けて初めてその生死を明らかにするという。「一瞬一瞬、新たになり、そして廃棄される」という阿頼耶識の世界こそ、量子力学で解き明かされた世界の実態ではないだろうか? その一瞬をとらえる観察者(人)という存在があって初めて、世界はその姿を現す。

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 とすると、『豊饒の海』では、本田繁邦という「観察者」があって、輪廻転生された(とする)松枝清顕が存在する。そして、勲もジン・ジャンも、透も、本田繁邦の目によってのみ転生されたものとして記憶される。ところが、物語の最後の最後では、その記憶でさえ果たして本当であるかどうかの疑問が投げかけられる。月修寺の門跡となった綾倉聡子が、訪ねてきた繁邦に対して「松枝清顕という人はしりまへん」といい放つ。「清顕も、勲も、ジン・ジャンも、透もすべては存在していなかったでは・・・」と不安にかられる繁邦に「それも心々(こころごころ)ですさかい」と門跡が諭す。そして、繁邦は「記憶もなければ何もないところへ自分は来てしまった」と悟る。

 そう、最後に繁邦が行き着いたのは「阿頼耶識の無我」の世界だった。そこには何もない。しかし、それと同時にすべてが存在している。なぜならば、明滅する光のように阿頼耶識の世界は無と有を繰り返しているからだ。そして、一切諸法を生じるのもこの阿頼耶識である。ここで、ようやく(半世紀分からなかった)豊饒の海のという名前の謎が解けた。豊饒の海とは阿頼耶識のことであり、人間存在は、その海の上のさざ波のようなものである。それが、明滅を繰り返すことで、輪廻転生の姿となって現れる。

 そして、今回、読み終えたところで、自分がなぜ、数ある三島作品のなかで、最も『豊饒の海』に惹かれるかも分った。それは、私自身が本多のような観察者であるからだ。決して、本多のような覗き魔では無いが(笑)私も物を観たり聞いたり読んだりする側、消費する側の人間として長い間、生きてきた。そして、私という存在は、豊饒の海にいずれ還っていき、またこの海の上のどこかで波泡となって存在しつづける。三島由紀夫という天才の才能に改めて触れ、三島からのメッセージを噛みしめている。

 

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