例えばそれが「運命」として変えられなかったとしたらば but what
自分の出来なかった事、出来なそうな事を「運命」と決めつけて、しまう人がこの世の中には沢山いる。自分もそう、少なくとも今は…
「自分が幸せになれないのは、世の中の仕組みだから、この先も何も変わらない。」
僕の好きな映画「ターミネータ」で、出てくる台詞に、「No fate but what we make.」がある。
日本語訳はシリーズ全般の初期の頃に訳されたものであって、シリーズ全般を通せば原文の英語のまま、解釈をする方がしっくりくる。
最初は、「運命」なぞ「ない」と言ってたのに、タイトルを重ねる毎に「ある」と言い出し、最後には「自ら切り開いたって意味がない。」と言い出す。そんな映画である。ただ、この映画の真意はそこでは終わってはいない。
さて「運命」があったとして、「自ら切り開くこと」をしない人生を「生きたいだろうか」
自分は少なくともそういう人生は「生きたくない」
例え「運命」がそこにあったとしても、「自らが切り開く人生」の方が楽しいに違いないからだ。そも、あるかないかわからない「運命」に翻弄されて、苦しみながら、くよくよしながら、自分のやりたいことをしない「人生」の何が楽しいのだろうか。
この世の中は、確かに陰謀論で語られるような仕組みによって、自分の運命が定められているかも分からない。だからといって、そのことに雁字搦めになってしまっては、幸せの可能性も、病気にならない体になる可能性も全て失ってしまうのだと、私はそう思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?