書くということ、読まれたいということ

おはようございます。
しばらくぶりでございますネオ香川です。

いやはやあっという間に前回更新してから結構な時間が経ってしまいましたね。

今回は生存報告と、最近思う「文章を書く」ことについて、
ちょいとばかり綴ってみようと思います。

生存報告

社会人になり、まさしくなりふり構わずといった充実した日々を送っております。
それに伴い、どうしても自分の好きなことを後回しにしてしまうことになっており、このように更新も遅くなってしまいました。
そもそも、好きでやっていることなので特別定期的にやる必要もないのですが、なんというか、私の駄文を覗いてくださった方々が続けて読んでくれるような地盤がないなと感じてしまっているというわけでございます。

今回も一旦一息つけただけであって、今後も上手く趣味に時間を費やすことができなくなってしまうでしょうけれど、ぼちぼちでやっていくしかないのかなぁという想いです。

「文章を書く」ということ

私は趣味で考えや感じたことを言葉にしたりしています。
文字に起こして一つの作品としてなんとなく眺めたりするのが好きでして、あの時こういうふうに考えてたんだなぁとか、
あ、この文章は何かに影響されてるなぁとか。
日記に近い何かなのでしょうかね、とにかく文章が好きなので、自分の好きな文章、ハマれる文章を求めた結果、自らでハマれる文章を探っている感はあります。

ただ、このような趣味というものも忙しさに呑まれ、疲れないように努めてしまって、いつしか身を引いてしまうのではないか、そんなことを考えていました。

さて、ではそもそも、なぜ私は文章をわざわざ note に更新するのか。
それは単純に、自分の考えるいい文章(納得できない時もありますが)を外に発信して、その反応を見てみたいというものです。
どうです??いい文章ですか??微妙ですか??
というの想いを胸に抱きながら更新しているわけですね。
ちょいキモイですね。

そういったことを含めて、定期的に更新しないと、読者の皆様からも忘れられてしまい、目に届かなくなってしまうのではないか、そんなことを考えてできる限り更新頻度を高められればと思う次第であります。

では、この読まれたいという想いについて、少し考えてみます。
書きながら既にいい落としどころがないな~と気付いちゃってます。
ご了承を。

読まれたいということ

やはりこう、文章とはコミュニケーションのツールでして、考えや想いを相手に伝える手段なんでしょうね。
コミュニケーションは一方的ではなく相互的なものであり、やはり相手からの反応が重要になってきます。

しかし文章によるコミュニケーションは一見、一方的に見えざるを得ないものなのではないかと思うわけです。
スピード感のある、一種キャッチボールのようなコミュニケーションは文章というツールですと、如何せん「読む」ことって時間がかかりますし、その文章に対するコミュニケーションとしての返答の手段は特別決まっていません。
何なら返答なしであっても構わないわけで。
文章、とりわけ昨今の note のようなツールですと、読まれたということも、それを読んでどのように感じたのかどうかもわからないわけで。
データの海に垂れ流していく他どうしようもないものとなっているように感じます。
任天堂作品、「どうぶつの森」における海に流す「メッセージボトル」のような感覚です。

しかし、このような垂れ流しの状態に、ロマンが詰まっていたりするんですよね。
素敵です。

インターネットという海に誰に読まれるかもわからないメッセージをただ書き綴る。
時々そのリアクションが返ってくることもあるけれど、基本的に誰のもとに流れ着いたのかは知りえない。
一時期流行った「ひとりぼっち惑星」がその極地にあるのでしょうかね。

読まれたいという想いはありつつ、しかし本当に読まれているのかがわからないということにロマンは隠れている。
不思議とこの2つは両立し得るんですね。
外の世界に入り込みつつも、自分の世界でほぼ完結している、少なくとも私はそのように感じたりするわけです。

さいごに

大した事は書けませんでしたが、ふわふわと考えていことを書いてみました。
趣味にあんまり無理はしたくないのに、どうも疲れを感じてしまい、好きなことから離れてしまう。
けれど、私のこの趣味はロマンに満ちており、自分で完結していました。
私だけの時間、私だけの文章なのに、なぜこんなにも疲れてしまうのでしょうか。
自由時間を使う対価に見合わなくなっているのでしょうかね。
自由時間そのものに価値が付加されている時代において、いったい何がその対価になりうるのでしょうか。

遊んで暮らしたい~。
またね。

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