心機一転、とて戯言は止まらない

お久しぶりです。
つぶやきの方で軽く報告しましたが、安藤改めネオ香川です。
名前に意味はありません、完全に語感だけで決めてます。

適切な自己紹介も終えたので、ここで少しだけ今まで何してたかみたいなのを話そうと思います。

まあ色々ありました。
環境も変わりましたし、周りの人間も変わり、住む場所もこれから変わります。
そうです、私ついに社会に進出です。
いやあ、なかなか最悪な気分ですね。
こう、なんていうんですかね。新社会人ってもっとキラキラしているものだと勝手に決め込んでいたのですが、全くもってそんなことはないということがはっきりわかりましたね。
楽しみやわくわく感が全くない、というわけではないんですよ。
ただ、とにかくダルい気分であります。
何がってきっと今後背負わざるを得ない責任と新たな環境がぼんやりと眼前に広がっていることがこの茫漠とした不安感となりキラキラ感(フレッシュさとでも言った方がよいでしょうか)を損なわしているのだと思います。
何だかこれからスタート!って気分ではないのですよとにかく。

はい、長い愚痴をダラダラと書いてしまいましたが、ここからは本格的な愚痴をより一層ダラダラ、またはドロドロと話していこうと思います。

(アプリ、なめこ栽培キットにてなめこを栽培…)

えっと、まあさっきの愚痴からも察してくれているように心底疲れちゃってるんですよ。
なんでこんなに毎日身体が重いんだろうかと。
私25歳なんですけど、こんなもんですか20半ばというのは。
長い学生生活、研究だけでもとにかくしていれば生活の質が低下していようとも何も支障がなかった(あった)のですけど、ここから社会人としてバリバリと頑張れるのでしょうかね。
不安はありますけど、まあどうにかなるか、というよりどうにかやるよって気持ちで挑む社会への扉。
そこはかとなく怠い感情に先がなかなか明瞭になりません。


ではでは、少し思ったことを。
特に何かあったから気付いたとか考えたとかじゃないんですけど、決定には責任が伴うよなぁって最近考えてます。
ある部屋に閉じ込められて扉が2つ並んでいて右を選ぶか左を選ぶか、片方は爆弾があって選ぶと死にます、けどもう一方は出口ですみたいな単純明快な質問に答える場合を考えてみましょう。
数人で選ぶ際はよっぽど強気の人間でないとなかなか「こっちだ」とは言えない気がしますよね。
けどどうにかして選ぼうとしますよね。
こういう時ってたぶん多数決とかとるんでしょうね。
多数の人間に選ばれた扉が開かれます。しかし誰に?

この場合はどうするんでしょうね。
やっぱりその扉を選んだ多数派の中で扉を開ける者を選ぶでしょうか。
はたまた少数派であるもののどちらかが開けさせられるのでしょうかね。
場合によったら多数の方が暴力で少数派を支配できるかもしれませんしね。

爆発の威力はどうでしょうね。
質問が単純すぎてそこが明確ではないですね。
もしかしたら扉を開けた人間のみが爆破されるほどの威力かもしれないし、または部屋の人間みな巻き込まれるぐらいの威力かもしれない。
どちらでもいいけれど、開ける人間としてはなんとなく自分だけ死ぬ威力であるのは不服な感じがしますね。
読者の皆さんはどうでしょう?

話の流れを作るのが下手ですね私。
とにかく、誰かが誰かを殺す(自らを含めて)可能性のある選択を強いられた場合、その責任は誰が担うべきなのでしょうか?
あ、勿論このヘボデスゲームの関係者各位の責任は確定ですけど、握らされた銃で人を殺した場合どうなるのかなって話です。

この問題を法律云々で議論してみても良いですし、歴史から考察してみるのも良いと思います。
むしろそのように、私たちが「何をもって責任の所在を感覚的に実感するか」を考えていこうという話をしたかったのです。

上記では爆死という強烈で、しかも目前の死というものに責任がどこに?みたいなことを話してみましたが、これはあまりにも極論というか極限状態過ぎますよね。
しかしこのような議論や思考は、別に我々には関係のない話ではないですよね。
夢を追いかけることや、退職、妊娠、入れ墨などは自身の選択がどこかに存在しています(妊娠だけを見ると勘違いされそうだけど)。
夢を追いかけ上京し、上手くいかず慣れない環境で悩み、話せる相手もおらず鬱となり、自らに死を与える場合は誰の責任でしょうか。
自らが希望に満ちた将来の為に選んだ企業の中でどうにか頑張ったものの上手くいかずの日々。入社数年で心も体もすり減り「仕事が合わないのかも」「辞めてしまいなよ」と言われ勢いで退職したものの、会社で働くことへのトラウマから再就職も上手くいかず周りの友人たちとの差を実感してしまい外に出ることも億劫になってしまった場合は誰の責任でしょうか。
堕落から避妊を怠り見事に子を授かり、交際相手に伝えるも「育てられる自信がない」とのことで堕胎。この場合の死は誰の責任でしょうか。また、この後も避妊を怠りまたもおめでた。心も体も傷付いた彼女は交際相手を殺害。これは誰の責任でしょうか。
家庭環境の劣悪さに家出を繰り返し、夜な夜な集まれる仲間との日々を送る少年は仲間の証としてタトゥーをいれることに。そのことが後に彼の人生にどのような影響を与えたのかまではわざわざ書きませんが、この場合は誰の責任でしょうか。

随分と雑に問いを投げかけてしまいましたね。
きっと「これはこうだろ」「そもそもこの言い方は…」なんて思われてしまいそうですが、フィクションなんでざっくりでよくね?って気持ちです。
お許しを。

とにかくここで私が言いたかったことは、責任の所在はものの見方によって変わるし、その責任はただ一人によって生じたものではなくいくつかの要因によって極地に至る、というような形で出来上がっている可能性があるということを示唆したかったのです。
ちょっとややこしい言い方をしましたが、なんというか、確かに悪いことをした本人は悪いよね、けどその人が悪いことをするに至る経緯にも責任は潜んでいるのではないか、ということです。
ブルーノラトゥールって人のアクターネットワークセオリーってのがあるのですが、それは各々で調べていただいて、なんかこの理論的に当て嵌めてみると1つの事象には多くのアクターが影響しており、その影響を遡っていくと責任の所在がどこにあるのかわかるかなって簡単に考えてみたんです。

まあ、大昔の一言が数十年後の大事件につながったとか言われても「さすがに知らんわ…」ってなるんですけどね、個人的な直観としては。
なので、やっぱり責任ってどこにあるのかなって思うんですよね。
犯罪者家族への責任追及みたいなのも言われてたりしますけど、その家庭が劣悪な環境であったとしてもその家庭が劣悪になった原因を遡ってみるとどうも目も当てられない…みたいな小説じみた事実もあったりするのかなぁとか。
こういう場合でも冷静に「いや犯罪者の家族は責任あるだろ」と簡単に言ってしまうのは良いのかな~とか、ぼーっと考えてました。


長々と書きました。
いかがでしたか?
拙い文章でしたので、いまいち私の考えが伝わらなかったかもしれません。
だとしたらそれは全て私の責任です。すみません。
きっとこんなことを考えていたら、決定ができなくなりますよね。
責任が伴うのだし。
とにかく伝えたかったのは、私や読者のあなた方の目には愚かに見える姿や選択や決定、行為は当人にとっては最善である可能性があるのです。
何故なら我々は同じようで全く条件が違います。
故に安易に「こうしたら?」ということの責任ってそこそこ重くね??ってことが言いたかったんです。
そのアドバイスは選択に直結しかねないので…


書き殴ったら少しすっきりしました。
さて、慣れない事務仕事の為に自習してきます。
その前に風呂…

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