不良の「ナメられたら終わり」という思考は意外と正しいという話

 「俺たち不良はナメられたら終わりなんだよ!」

 昔の映画やドラマなどで、不良がこう叫ぶのを聞いたことがある人もいるだろう。大抵、他校の不良に主人公の可愛がっている舎弟がボコボコにされて、不良仲間が恐れおののいている中で、主人公がこの台詞を叫んで単身乗り込んでいくような物語の流れがよくあるように思う。

 ここには不良たちという学校社会でアウトサイダーな生き方をしている一種の自治組織が、教師などの通常の秩序的な救済に頼ることが出来ずに、独自の手段で組織的危機を解消しようとする、という構図にドラマがあるのだろう。
 不良という存在は学校という組織から見てみれば反社会的な存在であるが、ある程度社会経験が否応なしに積まれていくと「いや、よくよく考えたら理不尽なムカつく教師がいたな」とか「会社でももっともらしく理不尽な事言ってくるクソ上司がいるよな」とか「オタクってだけで社会から異常者認定されてるの理不尽じゃね?」とか、自分が所属している秩序立った組織の中にも明確な悪意や欠陥がある事に気づく。
 そうして不良たちの抱いていたであろう憤りに共感できるようになったりする(もっとも全ての不良がこのように一定の正当性を保持しているわけではない事に留意したい)。マクロ視点で見たら民族自決でヨーロッパの植民地支配に抵抗した被支配国も近似した構造なのかもしれない、と思ったがまあそれは置いといて。今回はこの不良の思考「ナメられたら終わり」という思考が実は的を得ているという事について論じていく。

 貴方ならどれを狙う?

 読者の皆様にはちょっと精神を原始時代の蛮族まで退化させてみて欲しい。貴方たちは今お腹が空いて仕方がない。可及的速やかに獲物を狩って食べないと死んでしまうと確信している。脳内では「オレ、エモノ、クラウ。イノチ、イタダク」という言葉が繰り返し流れている。そんな中であなたは3種類の獲物を確認できた。アナタはどの獲物を狙うだろうか?

①足を怪我している角を持たないメスの鹿

②歩くたびに地面を揺らす大きな牙を持ったマンモス

③人間の腕と思わしき物体に噛り付いている血塗れのサーベルタイガー

 どうだろうか。ここまで読んでいただいた蛮族の皆様におかれましては大多数の方が①の鹿を選ぶのではないだろうか。
 脅威である角が失われた手負いのメス鹿は、狩る側からしてみれば反撃を受けるリスクが最も低い。なにより足を怪我をしており、逃走されて狩りが徒労に終わる可能性も低く、足蹴にされるリスクも低い。正に狩られるためだけに存在しているようなものである。可及的速やか食事を取りたい状況下でこれほどまでにありがたい獲物はいない。
 もしも②か③を選んだ読者がいるならば、それは自分よりも強い奴に会いに行く流浪の格闘家か、地上最強を目指すグラップラーのいずれかであるので言及しない。ちくしょう! この外れ値め! お前はいつもそうだ!

 さて、上記の選択肢を見て①を選んだ読者の方々も大半はこう思っただろう。

「こんなの①しか狙えないじゃねえか!」

「②と③に対して①が極端に弱すぎる!」

 
至極その通りである。私はあえて①の選択肢を極端な弱者として設定した。そして皆様は怪訝に感じることはあれど、弱者である①を標的とした。標的として選んだ理由は前述の通り

1.相手の戦力が脆弱(角がない)な為、こちらにリスクがない
2.手負いで弱っている為、ほぼ負けない
3.他の獲物が強すぎる

の3つが主要の理由になるだろう。
 重要なのは皆様が①を選択肢の中で最弱と評価して選んだという点にある。
 例えば①ではなく②のマンモスを狩る事に成功すれば、長期的な食糧不足を克服できるが、飢餓一歩手前の自分一人でマンモスを狩るのは現実的ではない。反撃を受けて致命傷を負うか、そのまま逃亡される可能性も高い。③のサーベルタイガーは人間をすでに襲っている為、自分が同様に殺される可能性が格段に高い。少なくとも単独で相手にすべき獲物ではない。
 このように、狩猟を行っていた時代の性なのかは知らないが人間は弱者を見極める能力に長けている。「自分が安全に倒せるのはどの獲物かなのか?」とか「こいつとやり合った場合、自分もただでは済まない」という様な思考を意識的、無意識的かは別にして常に考えている。そしてこの評価思考は狩猟文化を脱した現代文明の中でも形を変えていまだに根付いている。

 弱者を狙う思考の現代版応用

 私が勤めていた量販店には二人の先輩がいた。
 一人はベテランの社員で後輩に優しく、怒鳴ったことが一度もない。信条はガンディーの非暴力、非服従であり、他人を助ければ自分にもいずれ還ってくるという聖人君子のスタイルであった。助力をお願いすると快諾してくれる。
 もう一人の先輩は若手の社員で、助力をお願いしても後輩に対して罵詈雑言を浴びせてから助けてくれるか、そもそも助ける行為自体を拒否する。自分のノルマ達成に関係のない事は極力やらないというタイプの人間だ。

 さて、この二人の中であなたが助力を求めるならば誰を選ぶだろうか?

 飲み会の席で、私は後輩にこの質問を投げかけてみた。勘の良い読者ならもうお気づきだろうが、後輩は前者の優しいベテラン社員を選んだ。そして、ベテラン社員が他の業務で手が空いていない状態で、代わりに若手社員がヒマだという状況設定を行っても、「ベテラン社員の手が空くまで待つ」という回答が返ってきたのである。
 これは前述の「弱者の見極め思考」の応用である。若手社員に助力をお願いしても拒否されて徒労に終わるか、助けてもらえるかわりに精神がズタズタになって苦しいという負の結果が残る。しかし、優しいベテラン社員に頼めば嫌な顔一つせず助けてくれて気分も晴れやか、自身を脅かすリスクは何一つ無いという訳だ。
 これだけを聞けば「そうなんだ~人間ってすげ~(鼻ホジ)」とか「文明に適応出来てるじゃん人間万歳」と特に何も問題がなさそうに見える。しかし、新入社員四名がこの思考に基づいてベテラン社員に代わる代わる助力を求めた結果、ベテラン社員に課された業務が回らなくなり、結果として所属部署全体の業務が滞ったという事実は留意する必要がある。

 ゲーム理論で見る「ナメられたら終わり」思考

 数学者のノイマンと経済学者のオルゲンシュタインが考案したゲーム理論というものがある。
 簡単に説明すると、複数の人間がそれぞれプレイヤーとしてゲームに参戦した時、一人のプレイヤーの意思決定や行動が、他のプレイヤーの行動にどのように影響を与えていくか、を考える思考モデルの事だ。
 多分まだ分かりにくいと思うので例を出してみよう。友達四人で集まってスマブラをしていたとする。ストック戦で遊んでいたらみんないい感じに残機が減ってきた。ところがプレイヤーの一人が逃げ回っていた為に一回も死んでいない事にみんなが気づく。三人は逃げまくっていたプレイヤーを袋叩きにして早々にリタイアさせ今度は三人同士でまた戦い合う。こんな場面を見たことがある人も多いのではないだろうか。学生時代の私の話である。
  これをゲーム理論で当てはめると

1.一人のプレイヤーが戦闘を回避する行動を取る。
            ↓
2.他のプレイヤーが、自分たちよりも有利なプレイヤーがいる事に気づく。
            ↓
3.三人のプレイヤーが協定を結び、有利プレイヤーを集中的に狙って自身の優勝可能性を上げる。
            ↓
4.一番有利だったはずのプレイヤーが一番ビリになってしまう。

 という図式になる。
 こうした状況下で、各々の勝ちやすい戦略や最適解を研究していくのがゲーム理論だと思ってくれればいい。その中でゲーム理論について、各々の研究者が自身の考えた最強の戦略を競い合わせる大会が開かれている訳だが、2004年大会まで優勝を重ね、有力説として台頭していた考え方が「応報戦略(しっぺ返し戦略)」だ。これこそが不良の「ナメられたら終わり」という思考に共通している。
 応報戦略は相手が選んだ戦略と全く同じ戦略を取る戦法である。最初は相手と協調的な姿勢を取り、もしも相手が自分に危害を加えてきた場合、こちらも相手に危害を加える戦略を行う。そして相手が協調路線で来た場合こちらも協調の姿勢をみせる、という物だ。つまり、相手がぶん殴ってきたらこっちもぶん殴り、相手が謝ってきたらこっちも謝るのが効率的ということである。

 弱者認定されたら報復しろ

 冒頭の不良たちのシーンに戻る。主人公の舎弟がボコボコにされて他の不良仲間は恐れおののく。他校の不良が舎弟をボコボコにしたのは、舎弟が弱者認定されたからであり、同時に見せしめである。「お前らも同じように痛めつけてやるぞ、それがイヤなら従え」というメッセージが込められている。ここで主人公の不良は選択を強いられる。このまま泣き寝入りをして一時的な平穏を手に入れて、後々に他校の不良に食い物にされていくのか。それとも、報復に向かって自身がやられっぱなしの弱者ではないと証明するのか。
 もしも泣き寝入りをしていれば、他の後輩不良たちが「自分たちの先輩はいざという時にビビってしまう無能」という猜疑を抱き、コミュニティが内部から崩壊する危険性を孕んでいる。そして舎弟がボコボコにされてもやり返してこない腰抜け不良というレッテルを張られて、更に別の学校の不良からも害される対外的リスクが高まる。
 主人公が報復を選択することで、あの学校の不良はやり返してくるリスクがあると認識させ、弱者認定を解除させる事ができる可能性も高い。もっともリスクを抑えて利益のある戦略が応報戦略となる。

 戦い方はちゃんと考えろ

 とはいえ現実が相手をぶん殴って万事解決という様な生易しい世界でないことはみんな知っている。世の中には法律があり、派閥があり、しがらみがある。だからこそ、法を学んだり、上司や同僚とコネを作って相手を打ち負かす政治的行為を行ったり、時には警察権を持った行政に駆け込む必要がある。
 重要なのはやられっぱなしで終わらないという意思を持つことと、自分が最後に笑うための術を磨くことである。人は自分でも横暴だと心の底で思っていても、誰にも咎められず、相手が服従を続ければ改めることをしない。そしていざ勇気をだして声を上げても「そんな風に思っているなんて思わなかった。急に言われても困る」ともっともらしく逃げようとする。だからこそ常日頃からそうした厄介ごとに巻き込まれないようにイヤな事はイヤだと表明したいところではあるが、社会人になればなるほどこれが難しい。それゆえに自分が害された時に相手に痛手を与えるような健全な報復手段を、常日頃から用意しておく必要がある。
 狩りの本能で粗探しをして弱者を見つけようとする原始人はこの現代、誰の心の中にも眠っている。文明の発展に伴い性格の悪さまで付与されているので救いようがない。自身の価値を相対的に高めるため、鬱憤を晴らすため、自分の至らなさを認めたくないため、様々な超個人的理由で弱者認定が蔓延っている。中にはもっともらしい理論でラッピングして、弱者認定をする自分がいかに正当性があるかを主張してくる人間もいるが大抵感情論か時代遅れの精神論に立脚していて正直無駄である。そうした環境下で苦しみ喘ぐ人々は是非、この「ナメられたら終わり」という言葉を思い出してほしい。そして闘志が少しでも戻ったのなら応報戦略を考えて見て欲しい。当然の権利のように傷つけてくる獣に、あなたが聖人のように慈愛で応える必要はないのだ。

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