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インディーズ映画の"パンキッシュ化"に関する一考察

音楽でも映画でもなんでも良いんだけど、ファンをまとめて呼称する「総称」というものがある。大昔90s後期辺り、現Laika Came Backの車谷浩司が、当時AIRというソロプロジェクトスタイルのバンドを開始して、2ndアルバム出す直前だかに「Kids are alright」という曲をリリースする事によって彼を支持するファンをkidsと呼ぶようになったのが個人的には最も古い記憶。多分The Whoにも同名曲があってまさにそういう事だと思うから起源はもっともっと古いんだろうけど。そこからしばらくそういう呼び名っていう概念に意識的ではなかったのだが、最近になって妙に自分が普段聴いているアーティストにもそういう胞子(キノコホテル)とか、グリモ(Vanityyy)とか、ビッチーズ(Who the Bitch)、Fanly(Anly)、人々(ましのみ)、ミヤコ民(ヒミツノミヤコ)とかファンの総称的な呼び名って色々あるんだなという事に改めて気づく。
実は映画部門にもそういう総称なるものが存在していて、顕著にそういう呼び名が見られるようになったのは、2018年の上田慎一郎監督作品である『カメラを止めるな!』の熱狂的支持者が「感染者」と呼ばれるようになった事が皮切りであると思う。そこから同監督の『スペシャルアクターズ』でもスペアク信者とかムスビル信者とか数多く聞かれるようになり、松本大樹監督『みぽりん』の支持者をみぽらーと呼ばれるようになったのも記憶に新しい。松本監督の次回作は『コケシ・セレナーデ』も既に「コケシスト」という名もチラホラ見られるのだがいかがだろうか?....という事でなぜこのようなことを言い出したのかというと、かつての90s以降の音楽に対するファンの支持の仕方はむしろ音楽業界では廃れてきて、ここ最近の映画作品とそのファンのあり方の方がかつての音楽作品への支持の仕方と似ているような気がしてならないのだ

実はこれには根拠があって、むしろ音楽分野では、ストリームとかダウンロードとかが動画サイトで音楽を聴く事がメインになって、アルバム作品を一つのストーリー性のあるコンセプトアルバムとして聴く事はほんとに主流ではなくなっているからだ。例えば、Spotifyやapple musicがもう一つのジュークボックスのようなオムニバス・アルバムとなっているので、一人の人間がそのアルバムを全聴きすることは不可能だろう。で、その中で好きなアーティストの好きな曲を部分的に聴くしか方法はないのだ。そう考えると映画のほうが音楽よりも驚くほどにかつての「アルバム作品」への接し方と似ている気がする。だからこういう総称が映画界にも出現するようになったのは映画の観方がかつての音楽へのアプローチの仕方の限りなく近づいて行っていることの現れなのかなぁとか推測したりしている。これは音楽でも映画でも言えることだろうが、兎にも角にもその作品が「当り」か否かは冒頭のものの数分で決定するのだ。その時間内で、観賞者は映像や音像表現がもたらす雰囲気の中に自己の居場所の有無を探るのだ。そこに居心地の良さを感じれば後は何が起ころうが、起こるまいが関係なく安心してその作品にダイブできる。その意味では映画界隈で「総称」が使われ出したのは映画が音楽的な消費のされ方へと変化していくきっかけになっている気がするのだ。
実はこの「映画の音楽化(変な言い方だなこりゃw)」には根拠はあって色んなエンタメ享受してるから思うがハッキリ言って割と熱い感想などが飛び交うインディーズ映画界隈に比べ音楽のレビューツイートが少なすぎると言うのも要因として考えられる。SNS全盛の数年前の頃に比べここ最近「この曲聴け!拡散希望!」みたいな熱いレビューは激減している。インディーズ映画で尖ってる作品多いんだけどそれにセンスを伴うってなると非常に限られる。そんな傾向は作品自体にも現れてて今年見た『シャーマンの娘』と去年の『Cosmetic DNA』だとかその前の年の『ベイビーわるきゅーれ』などはほんとに超絶どパンクな作品でビックリする。詳細は一目瞭然なので言わないが音楽的ダイナミズムに溢れててガッツリ尖っている。下手したらどんなロックな作品以上に「尖り散らかしたパンク作」だと思う。監督全員眼鏡の20代後半のいかにも地下アイドル物販にたむろしてそうな(失礼w)なオタっぽい風貌なんだけど、それも逆に味でむしろそこから湧き起こるような「パンク性」を醸し出している気さえするのだ。あと『辻占恋慕』と言うタイトルからして地味そうな作品も観る前は正直、拘りを捨て切れずに世間と折り合いのつかぬSSWを題材にしたサブカル映画ね、ぐらい鷹を括ってたが大いに違った。途中物凄いのがきてラストシーンでは更に脳みそ掻き乱されるぐらいアイデンティティを丸ごとブチのめされためちゃくちゃパンクな作品だった。その意味では作品の持つ熱量と人々の熱狂度によってファンを一丸にさせるある種の強さを引き金にするのは音楽ではなくて映画に移行しつつあると言うのもわかる気がする。
そして逆に音楽界隈では反対現象が起こっててコロナ禍以降にリリースされた作品群とファンの熱量もどっちかっていうと尖った方向ではないある種の「薄さ」も示唆的に浮き彫りになっている。これは大いに気になる所でさらに掘り下げる必要があるだろうがこれはまた別の機会に。


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