4年

4年前の今日が私にとっての「もうひとつの誕生日」になったこと。
発達障害自閉症スペクトラムと診断された日。

4年前の私へ、あの日から、色んなことが変わってしまったけれど、今は、夢だった好きなものに囲まれて好きな服を着て、自分のことを好きだと言ってくれる人がいる世界を、生きています。

今でも鮮明に、真っ白な診察室とか、消毒液の匂いとか、精神科医の声とか、隣に座る母がすすり泣く声とか、頭にこびりついている。

目の前が真っ白になったこと、当時、大学進学を控えていて、それも含めこれから生きていくことは困難の連続になること、今まで本当に生きづらかったでしょうなどと精神科医に言われたこと。

また自死という選択が頭をよぎったことを覚えている。だが、自殺未遂ののち助かった命、生きづらさの理由が判明してやっと治療を受けられるのだから、

それでも、「生きていかなければならないということ。」

ああ、私の苦しさはただの怠けでは無かったし、やっと治療が受けられるのだと確約された安堵。と同時に、一生治らない脳の特性が判明し、障害者の烙印を押されたというゆるやかな絶望が、じわりと胸を締め付けた。

「障害は神様からのギフトだ」と「神様は乗り越えられない試練は与えない」だなんて、当事者以外は絶対に使ってはいけない言葉だと思うし、当事者以外が使う権利はどこにもない。障害は障害者本人にとって苦しく不便でしかないし、試練を乗り越えられなかった者は静かに死んでいく。まさに「死人に口なし」である。乗り越えた者だけがスポットライトを浴び、賞賛され、美談となり、健常者たちのお涙頂戴な感動ストーリーとか言う馬鹿らしいエンタメとして消費されていく。

実際、困り事だらけで、能力の凹凸が激しいから生きづらくて仕方ない。学生時代は地獄のような日々だった。(詳しくは辛いし長くなるので割愛する)

4年の月日が流れ、大人になった今、無職や引きこもりも経験したが、自分の好きな分野で、好きなものと、教養のある穏やかな人たちに囲まれて社会で生きることが出来ている。ここは、間違いなく私の力で勝ち取った居場所だ。学生時代、頭は良くなかったけれど、バカなりに勉強も絵も文芸も色々いっぱい頑張ってよかったよ、過去の自分を未来で救ってあげられたから。

でも、最近短歌という新しい趣味を始め、そんな中で本音を言うと、遠くに行きたい。想像するだけじゃなくて、実際に、創造の翼をはためかせて、このトラウマだらけの地をいつか抜け出したい。

物理的な距離だと今の自分には難しいから、心だけでも。

どこでもいいから遠くへ行きたい。
遠くへ行けるのは、天才だけだ。

寺山修司
(劇作家・詩人・歌人、1935~1983)
『煙草』

最近、寺山修司の本を読み漁っていてこんな言葉を見つけた。
たしかに、天才だけなんだよな、遠くに行けるのは。と頷く。あくまで私の稚拙な主観でしかないが、天才は心も物理的にもどこまでも遠くに行って、誰の手にも届かない存在になれる。出過ぎた杭は誰にも打てないように。対して凡人は燻ってばかりで結局どこにも行けない、とはありがちな話で、これは後者が私にひじょうによく似ていると思った。

今この場所で生きていくにはあまりに生きづら過ぎることに悩んでいて、いつかはこの生まれ育った地以外の世界を見てみたい、と最近思い始めた。
以前の自分なら考えられなかった。どこに行っても絶望しかないと思っていたから、他の地に住むなんて考えたことも無かった。

そんな視野を広めてくれたのも、今いる環境のおかげだと思う。それでも、希死念慮に狂わされる夜も少なくないし、病気はなかなか良くならないけど、障害やそれも含めて私は私として受け入れて、生きていくしかないと諦めることも大事だなって思うようにしている。

新しい趣味の、短歌を作ることにハマっている件についてもいつかまたnoteで語りたいな。

そういえば、いつかこのnoteでも書いた、「今日死ぬなら明日死のう」を繰り返せば死なずに生きていけるとかいう希死念慮ライフハックも案外効果的だった。画面の前のあなたの、死にたい夜にどうぞ。
そして、その希死念慮から生まれた短歌で4年目の「もうひとつの誕生日」の話は終わりにする。

泣いた目に 滲む夕日こんなに綺麗だっけ 死ぬのは明日にする


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