一流の「”見えない障害”当事者」になる方法
先日Twitterでこんな投稿を目にしました。
『発達障害の人に根性論を突きつけることは、下半身付随の人に”頑張って走ってください”と言ってるのと同じことじゃないのか?発達障害は脳の障害だよ』
確かに発達障害など見えない障害を持つ人に「努力でどうにかしろ」と根性論を突きつけるのは大きな間違いだと思います。
でもこの投稿に私は大きな違和感を感じました。
まずこの投稿には、論点がかなりズレているところがあります。
・発達障害などの見えない障害を、見える障害と同じ土俵にあげている
・「脳の障害なんだから仕方ない」と障害を自分の盾にしている
私が違和感を持ったふたつのテーマです。
見えない障害と見える障害を同じ土俵にあげない
まず発達障害などの見えない障害は、下半身付随などの見える障害と同じではありません。
下半身付随などの見える障害は、何を支援したらいいかがわかりやすく、また理解を得られやすいのです。
それに比べて発達障害や精神障害といった見えない障害は、一人一人必要な支援が違い、支援側にとっては「難しいケース」と捉えられることが多い。
見えない障害と、見える障害を同じ土俵にあげて比べることは、「今吸ってる空気と食べてるご飯どっちが美味しい?」と言っているのと同じくらい、比べようがないことです。
今「下半身付随の人はわかってもらえるのに、私たちはわかってもらえない」と思っている見えない障害を持つ人がいたら、今すぐその習慣は手放したほうがいいです。
無駄に自分が惨めになってくるし、下半身付随の人にとってもその想いは気持ちの良いものではないでしょう。
障害や病気を盾にしない
ふたつ目に、「脳の障害だから」と障害を盾にすることは、障害当事者の思考としては実に「ズルい」考え方です。
私の経験上、見えない障害を持つ人ほど「私は病気だから」とか「私は障害なのに」とか言う人が多い傾向にあるように思います。
それもそのはず、先ほど述べたように、理解してもらいにくいので、この言葉が登場する頻度も必然と高くなるのでしょう。
しかし、見えない障害当事者が、「私は障害者だぞ!」と障害者であることでしか得られない権力を振り翳せば振り翳すほど、健常者の理解は遠のくと思っていいでしょう。
私は健常だった頃、精神障害者の言う「病気だから仕方ないでしょう!」と言う言葉が大嫌いでした。
健常だったらどんなに生きづらくても、その言葉は使えません。
それから投稿には「下半身付随の人に走れと言っているのと一緒」と言うようなことが書いてありますが、まず下半身付随の人が努力していないと思ったら大間違いです。
下半身付随の人も、「現状維持」ができるように、日々リハビリをしています。
発達障害や精神障害を持つ人が、「障害だから努力をしなくてもいい」と言うような考え方は間違いです。
下半身付随の人が「現状維持」をゴールとしてリハビリをするように、見えない障害の人が「健常者からの理解」をゴールとするには、文句を言ってるだけじゃなくて、それなりの努力が必要です。
理解してもらうこととは、感動してもらうこと
ひとつ言えるのは、それなりの努力というのは、ただ「SNSで叫ぶ」ことではありません。
健常者に「わかってよ!」と言ってわかってもらえるなら、もうとっくに見えない障害者への偏見や差別なんて解消されています。
本当にわかってもらうには、理解を直接仰ぐのとは違う切り口が必要です。
私の考える「違う切り口」、それは見えない障害者が「感動ポルノを起こすこと」です。
メディアが身体障害など見える障害ばかりをピックアップするのは、「それが受け手に伝わりやすく利益を得やすいから」です。
一見酷いと思うかもしれません。
しかし、なんの採算もない事業や、儲けられない事業をわざわざやろうと思うような企業は、相当人望の厚い企業だけです。
そもそも障害を槍玉にあげて生み出す感動ポルノなんて非道徳的かもしれませんが、「見える障害」が理解されたのは、大々的に行われた「感動ポルノ」があったから、というのが大きいのではないでしょうか。
(現段階で、全ての見える障害者が理解されている、とは勿論言えませんが)
だからその方法を逆手に取ればいいのです。
言い方は悪いけど、「見えない障害者は取り上げてくれないよな、とか、視聴率欲しいんだろ、と文句言ってるなら、お前が感動ポルノやればいいだろ」という考え方です。
「見えない障害者」の感動ポルノは、見える障害者の「夢を叶えた」くらいに匹敵するものでないといけないとなるとかなりハードルは高いです。
精神障害や発達障害などの見えない障害は、夢を叶えられる段階で、そもそもその病気にはなっていないでしょう。
だから少し視点をずらして、「夢を叶える」「望みを叶える」のではなく、「好きなもので勝負する」くらいの感じでいけばいいと思います。
私はそれがたまたまイラストだったので、「じゃあ私はイラストという表現方法で感動を獲得していくか」となりました。
それで個展や出展をしているうちに周りが「面白いじゃん!」と言ってくれて、展示してくれる場所が増えたり、仲間が増えたりしていきました。
仲間が増える=理解者が増える ということです。
こちらからそうして働きかけても障害理解をしようとしない人には、そもそも感動もしてもらえません。
絵やその人の表現を見て、受け手に「この人はなんでこんなことを始めたんだろう?」と思ってもらえればしめたものです。
それが理解を得る切り口です。
私は一般企業で働いている時、「見えない障害者に対する周りの理解」なんてほぼ皆無でした。
自分が選んだ場所なのに、文句ばかり言っていると、そのぶん人は周りに意識が行ってしまって自然とストレスを溜めてしまいます。
ドジャースの大谷選手があれだけ注目され人に好かれるのは、それだけ自分の「好き」に打ち込んで、「自分」に軸を置いた結果、野球で活躍し、付加価値でその生き方が丸ごと人を感動させた部分があるからでしょう。
例えば彼に見えない病気があるとしても、咎める人は少ないと思います。
障害者だから仕方ない、生まれつき見えない障害だから何もできない、と匙を投げているうちは本当に何もできないどころか周りの理解すら得られません。
何か自分の「好きなこと」や、「これなら」と思うことに打ち込んでいると、自分のこだわりや、これはこうしたいとかいう自分の軸が見えてきます。
そして自分にとっての正しい生き方が見えてきて、最終的に人を感動させるのです。
アクションして自分の身の回りの理解は得られたけど、私の絵がまだまだ世に知られていないのは、私が、めんどくさいとか病気だからとかを理由に、「絵に夢中になって打ち込みまくる」ということができていない瞬間があるからだと思います。
私ももっともっと絵に向かい合って、好きなことに没頭し、人を感動させる表現をして、見えない障害が理解される社会を目指して活動していけたらいいなと思っています。
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