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登山とマラソンが世界一嫌いなわたしがあなたに叫びたいこと

人生は借り物競走みたいだ。
お母さんのお腹の中で何者かに命を与えられ、生まれた瞬間、その借りた命で人生を歩み始める。

なんで生きてるとこんなに苦しいのか。
それは人様に借りた命で途中棄権は許されないからだ、と思うことがよくある。

わたしは小学生のとき、学校のマラソンが大嫌いだった。
マラソンは走ってないと大人に怒られるし、サボることもできない。
途中で「やめまーす」と棄権するなんて、授業なのだからもってのほかで、こんな苦しいことを鍛錬だと銘して子どもにやらせている大人が憎かった。

登山も嫌いだった。
わたしの行っていた学校では、一定の学年になると近くの大きな山で登山をする。
結構標高の高い山を登らされるけど、誰1人「やりたいな〜」とか「楽しみだね〜」とか言う者は生徒の中にはいなかった。
やはり上の大人たちが「登山を制するものは人生を制する」などと意味のわからないことを言って、やりたくもない、登りたくもない山に登るために毎日2リットルのペットボトルを3本と、教科書や筆入れなど諸々をデカいザックに入れて登山靴で登校したり、校庭を走らされたりしていたのである。
この登山でも途中棄権など許されないし、サボりも許されない。
登山好きには申し訳ないが、この経験のせいでわたしは今でも登山は嫌いなものワースト3位くらいには入っている。

借りた命で走る人生の中で、山あり谷ありでも、マラソンや登山のように途中棄権はできない。
よーいどん、で走り出したら何がなんでも走り抜け、と上から(なんか美徳として)どやされ、圧をかけられ、なんとかかんとか人々は生き抜いているのである。

現実問題として教育する上で「鍛錬」などと、帝国時代か!というような概念が持ち込まれているのも時代のニーズに合わず問題だと思うが、私たちが人生を人生として歩むのに今生きづらさを感じてるのは、「途中棄権するなよ」「サボるなよ」というそもそもの人々に植え付けられた暗黙の了解が私たちの人生を邪魔しているから、というようにも思われる。

そもそも人間以外の生物は、「途中棄権する」という概念がないんだから、「途中棄権しちゃダメ」とも思わない。
人間だけが「途中棄権しちゃダメだ」と謎の圧の中で生きているのだ。
これは人間が以ってして生まれてきた想像、創造の力がそうさせているのだろうけれど、「途中棄権しちゃダメだからね、絶対ダメだからね」という人間同士の暗黙の了解で、私たちは、少なくともわたしは、すでにそれだけで押しつぶされそうなのだ。

みんなにいい面して、いい子でいなきゃいけなくて、その上途中棄権が許されない。
いつまでもわたしの人生は義務教育のように、走り続けなければならないものだし、きっとわりかしみんなそうなのだろう。
今までに途中棄権してきた人たちもまた、義務教育の人生で義務の命の「義務」の部分を「権利」に変える方法がわからず、途中棄権したんだろうなと思うと、人間の「途中棄権」のそもそもの概念を憎みたくなることすらある。

人間である以上、途中棄権の概念を全てまっさらリセットにすることはできない。
結局生きることが美徳なのだから、その何百年、何千年という歳月をかけて培われた地層を底まで掘り起こすことなんてできるはずがないのだ。
だからせめて、わたしは「途中棄権」という概念の中で途中棄権をしたくなった人に叫びたい。
「今すぐそこから逃げてサボっちまえ!!」と。

みんなにいい面なんかしなくていいし、みんなのことを好きじゃなくてもいい。
わたしは途中棄権をやめろなんて言わないけど、途中棄権しないことが美徳の日本という国の、人間という社会の中で生きているので、どうにもわたし1人の力では生きづらい根源である途中棄権の概念を覆すことができず、そう叫ぶことしかできない。
途中棄権したくなった人は、逃げて、サボって、なんで途中棄権したくなったのか、話せる人に話してください。
一言でも、手紙でもいいから。

この数日途中棄権を考えていたわたしから、これを読むあなたに、今日もお疲れ、とささやかな労いの言葉を送ります。

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