味のない暮らし:1/10

体温は平熱を保っている。容態は落ち着いている。無事に朝を迎えられたことにホッとする。職場関係の人との連絡が多い一日となった。繰り返しになるが誰もが初めてのことで組織としてどうやって動けば良いのかみんなわからないのだ。時に強いストレスをお互いに感じながら話をしている。

保健所からは体調確認の連絡が入る。その電話で陽性者は療養場所を自宅にするかホテルにするか選択ができると教えてもらった。「急に体調が悪くなった時にケアができる体制になっているのでしょうか」と確認するとホテルには医師と看護師が常駐しているという。あまり迷うことなくホテルに移動しますと伝えた。ホテル療養はエントリー制となっており、空きが出次第、入ることができるようになっていた。早ければ翌日に入る、と言うことだった。

前日にミカンを食べたときのことだった。味を感じることができず、皮を向いた指先も無臭になっていた。これがよく言われている味覚と嗅覚の障害かと驚いた。しかしその日はまだ少し味がわかるものもあった。私はほうれん草の卵とじの味噌汁を作った。その時に食べた卵の味はほんの少しだけわかった。また冷蔵庫にあった日本酒の香りも感じることができた。

この日、前日にはかすかに感じることの出来ていた味や匂いは完全にわからなくなっていた。味も匂いもない生活をするのは初めてのことだ。今までも鼻詰まりがひどい風邪のときは味がわかりづらいことはあった。でも全く無味無臭ということはなかった。炊いたご飯も作ったみそ汁の味も何もわからない。実家から送ってもらった「ふくや」の明太子の味がわからない。それが一番寂しかった。これで日本酒が呑めたら最高なのに。

食べ物を口に入れる。いつもならば口に入れた後のどのタイミングでこの味が感じられる、というところで何も来ない。そしてどんな味であったかを思い出そうとしても思い出せない。普段、きちんと味わって食べていなかったから味が思い出せないのかもしれないと思った。

「食べる」「味わう」楽しさは甘いとか辛いだけで成り立っているわけではないとわかった。食べ物の歯ごたえや舌触り、食後の感触も「食べる」「味わう」を成立させる要素であるとつくづく実感した。食べ物の香りも重要で、嗅覚がないとやはり味が足りなくなる。そんないくつかの複数の要素が混じり合って、初めて食べ物を味わっているのだ。

こうなってしまうと食事は空腹を落ち着かせることだけが目的となってしまう。味がないとどれだけ食べても満足感が得られない。これはちょっとつらそうだな、と思い始めていた。そして自分がおかしな行動をしている気付いた。味がわからないのに味噌汁を作ったときは味見をしてしまう。ご飯にふりかけをかけてしまう。あるいは納豆と一緒に食べる。忘れてしまった味を取り戻すための手がかりを少しでも増やそうとしていたのかどうか。それは今もよくわからない。ただ、私にとって食事を楽しむためにそれらの行為は必要不可欠であり、なくてはならないものだということはわかった。

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