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【ミニコラム】新型コロナに対し「保守派」ほど楽観傾向がある理由を考えてみた

トップ画像は保守派、というか、有り体に言うと右翼雑誌の「WiLL」2020年9月号の表紙。
大きく「新型コロナ第二波はこない」と謳っています。

ところ変わって、アメリカ。トランプ大統領と親しい実業家ハーマン・ケイン氏の訃報が流れていました。

「米実業家ハーマン・ケイン氏死去 トランプ集会参加後、コロナ感染」

↑いつまで記事が読めるかは分かりませんが。

記事には

ケイン氏は自身の感染公表前、7月4日の独立記念日の式典に関し、ツイッターに「今年の式典でマスク着用は義務ではない。人々は(着用強要の動きに)うんざりしている」と投稿していた。

……などと記述があります。また、この方は下のようなツイートもしていたそうで

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(文末のハッシュタグは「コロナウイルスでっち上げ」「民主党ロックダウンでっち上げ」ぐらいの意味かと思います。)

そんなことから、次の記事などは「でっち上げ(のはずのウイルス)が彼の命を奪った」と、なかなか辛辣です(ここは主に宗教的な議論を載せるサイトのようです)。


さて、ここで私がすごく不思議に思うのはこういうことです。

あるウイルスがどれくらい危険か、どれくらい迅速に社会に広まりそうか、などというのは、言ってしまえば医学・疫学その他の学問領域の話です。なので、そっち方面の研究者に判断を仰げばいい。それだけのことでしょう。
当然ながら、ある人が保守だ革新だ、などということと、あるウイルスが危険かどうかの判断が連動するなんて(直観的には)ありえないことのように思えます。

例えば目の前に毒蛇がいるとして。その毒がどれくらい危険か判断するのに、自分が保守だか革新だかが関係するでしょうか。ただ、医者か動物学者の意見を聞くのみでしょう。

にも関わらず。保守派──と言うよりは、右翼とか国粋主義とかオルトライトとかに分類されるような人たち、と言った方が的確かもしれませんが──の人ほど、今回のコロナウイルス禍について楽観的な見方を表明しがちな傾向が、明らかに見て取れるようです。これはいったいどういう理由によるのでしょう。

これについて3つ4つ理由(仮説)を考えてみました……というのが今回のテーマです。


(1)保守派的メンタルの影響

「革新」の人の基本的な発想が
「社会には問題が山積みだ。頑張って解決していかなくては。可能なら先手先手でどんどん対処しなくては。」
……というものだとしたら。

「保守」の人の発想は
「社会は今のままが一番。これはすでに完成された精妙なシステムなのであり、何も手を加えないのが最善なのだ。そもそも、自分たちの能力で社会を思うがままに変えようなどという発想自体が僭越なのだ。」
……みたいなものではないでしょうか。

だとしたら「精妙な社会システムによって、病魔は自然と克服される。これまでもそうだったし、これからもそうであるに違いない」と考えるのが保守メンタルなのかもしれません。
(もっとくだけた言い方に直せば『ほっときゃ治る。騒ぐやつは馬鹿。』という発想。)


(2)マッチョイズムや国粋主義からの帰結

オルトライトの人とかはしばしばマッチョイズムを併発しているようです。つまり、「俺は病気なんかにビビる臆病者じゃないぜ」というようなやつですね。こういう雰囲気を持つ人は割と保守派の人に人気が出やすいもののようですから、逆に、それを意識して自分をマッチョに見せようとする人も現れるのでしょう。
自然、このような人は「あんな病気、大したものであるものか」という主張に傾きがちなのでは。

また、国粋主義の人なら「神に守られし崇高な我が国が病魔に屈するなど、どだいありえぬ」みたいに発想することもあるかも。
(「神」の代わりに「世界に誇る日本の技術」とか「日本人の優れた品格」とかの言葉がチョイスされる場合もありそうです。)


(3)歴史の捉え方からくる問題

国粋主義とかオルトライトとか言われる人たちは、えてして「歴史修正主義」に傾きがちであるようです。

(つまり、「○○事件などというものは、実際には起こっていない」「あの作戦は失敗だったと言われるが、実は成功していた」みたいな主張を大いにする──けれど、学術的検証に耐える論文を提出することはできない、といったたぐい。)

こうした「主義」の底にあるのは、実のところ
「歴史で一番重要なのは、実際に何が起こったかではない。それがどのように語られ、どのように歴史書に記述されるか。それこそが『歴史の本質』なのだ。」
……という発想ではないかと私は思っているのですが。

そのような発想を内面化した(してしまった)人たちは、
「現実の問題に地道に対処する」
ことより
「自分たちがどれだけ適切に対応したかを大声で喧伝する」
(あるいは「特段の対応をとらなかったことの適切さを主張する」)
……ことの方に、どうしたって力を注ぎがちなのかも??

さて、そんなメンタルの人たちがふと「これまでの対策は今ひとつだったかも」みたいに内心思ったとしましょう。その場合どうすればいいでしょうか。例えば「新型コロナなど大したものではありません。だから特段の対策を講じる必要もなかったわけです」みたいな主張をすることが考えられますね。
実際に「大したもので」あるかどうかは、こうした価値観からは重要なことではなく。後世に「適切な対応を取った」と伝わる(伝える!)ことこそ何より重要だ、となるわけですから。


とりあえずこんなふうなことを考えてみました……。

このどれかが当たっているか、全部当たっているか、はたまた全部外れているか。
それは今の私には分かりませんが。
ともあれこれは一考に値するテーマではないかなと思います。