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いい人をしない痛みを越えて。

昨日、2800文字超にわたり「いい人をやりすぎない」ってことについて長々と書いたのですが… なんと、わたしさんはまだこりずに続きを書こうとしています。

今日は「いい人やりすぎるとどうなるの」っていう部分等々について、書いていこうと思いまあす。。


なんか罪悪感を感じやすいかたって特に、罪悪感を避けることに生きるエネルギーの大部分を割かれてしまい、人生を楽しむどころではなくなってしまうことが多いのではないかなって思うんです。

それが「楽しめない」というレベルに留まらず、世の中や人生に絶望するところまで行き着いて追い詰められてしまう人がこんなにも多いのって、偽善者のように聞こえるかもしれないのですが、わたしはとてもくやしくて、悲しいと感じます。


誰に対しても無害な人であることや人に迷惑をかけないことを 生きてく上での最優先事項にすることって、自分自身への裏切り行為です。

他人には特に恨まれないかもしれないけど自分を傷付けてるわけだから、いい人やりすぎちゃうと そのひずみみたいなものってどこかで限界を迎えて表面化するんだよね。

それは人間関係の崩壊という形かもしれないし、病気という形で表れるかもしれない。


だからって人生そこでオワタわけではなくて、そこからがたぶん本番の人生。

これってすごくデリケートなことだから言うのが少しためらわれるけど、 遠回りして満身創痍になってやっと本番が始まるということもあるのだよね。

本番っていうのは、他人にとっての都合のいい存在であろうとすることを卒業して、自分という人間として生き直すことができるライフステージのこと。自分を虐めたり痛めつけないやさしい世界。

そのきっかけは最悪の事態のように見えたりもするけど、振り返ってみたときに「あのときのあれがなかったら今頃自分はどうなっていたんだろう」とぞっとするくらいぎりぎり最善のタイミングで起こるのだよね。


自分を犠牲にして生じるひずみっていうのは、それまでの価値観やアイデンティティや人生そのものをひっくり返すくらいの力があります。

無意識の部分で自分が耐えきれなくなると、全てを無に戻すくらいの大きな力が働くようになっているんですね。地震みたいな感じ。

いい人の仮面って、最初は軽くても自己犠牲の度合いによってはそれくらいまで重く大きく膨れ上がるものです。


そこから再生する力もちゃんと備えているのが人間なんだけど、それは元の状態に戻っての再スタートということではなくて、

元の状態にいた頃は受け容れることのできなかった「何かが欠けた自分」とか「何かを失った自分」として新しい立ち位置で人生を営み直すってこと。


そこまでの崖っぷちになるのは人生でまあ数回とかだったとしても、不要な窮屈な思いは自分にさせないに越したことないですからね。


普段いい人やりすぎちゃうかたは「遠慮とかねーのかよ」って言われちゃうかな…?ってちょっと心配になるくらいの振る舞いでちょうどいいんじゃないすかね。人間らしくてカワイイじゃん。

傷付いてるのにへらへら笑って、あとで隠れて大泣きするくらいなら「ちょっとは気遣いたまえ」ってかわいく(または真顔で)言えちゃったほうがいい。

今言えなくても練習すればできるから。相手に気遣いを求めちゃダメなんて気負わなくていいよ。


自分をゴミ箱にして思い詰めて潰れるくらいなら、一時的にうざい人になるか嫌われてひとりになったほうがずっといい。

同じ時間をつかうなら、他人にどう迎合するかを考えるより自分がどうしたらより自由でいられるかを考えたほうがいい。

他人向きか自分向きか、考える方向性によって進む先も全く違うものになるから。

それに、気持ちを伝えて相手が傷付くかどうかなんてわからないしね。


誰かにとっての都合のいい人でいるために、その程度のことのために、私の大切なあなたを傷付けないでよ。いじめないであげてよ。

そう思ってしまう。



さいごにわたしがお守りのようにしている言葉をシェアして、今日はおわりにしたいと思います。

わたしの恩人のようなかた(一方的に思っているだけですが)のblogに書いてあった言葉です。


〝 身体の楽を選ぶと浮上する大敵、罪悪感。  戦えよ。戻るなよ。〟


いい人を演じないことにたいする痛みや罪悪感に負けて自分を押し殺してしまいそうになるとき、いつもこの言葉を思い出してます。

「戦えよ。戻るなよ。」

(罪悪感という幻想に)負けんなよって、わたしを優しく奮い立たせてくれるお母さんみたいな言葉。


本日は以上です。ありがとうございました。ではまたね。


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人間関係についてのあれこれ。


雑貨屋さんやってます。よかったらのぞいてみてくださいな。


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