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大人になるとは、信仰先を選び直すこと。

自分の人生を生きようと決意して歩み始めたとき。

よく知らない他人から「宗教」などと揶揄されたり警戒されるという現象が起こるのは セット販売のようにお決まりのこと。向かい風が生じるところまでが予定調和だったりする。

でも、親という宗教、教育という宗教、お金という宗教、常識という宗教…… 輪郭のあやふやなフィクションの世界を生きているのは、実は揶揄する側の人のほうだったりします。

彼らは、実態のない 他人が決めた何か漠然とした大きなものを真実だと信仰しているんですね。

それがいいとか悪いとかではないのですが、少なくとも彼らの罵声を聞き入れることは あまり有効な時間の使いかたとは言えないでしょう。

でも、その人たちの気持ちも痛いほどわかります。これまで自分がそちら側の人間であることも多かったので。


信仰レベルで染み付いている思い込みの世界で生きていると、その枠から出ている人を見た時に、怖い、許せない、ずるい、受け入れたくない、などの拒絶反応(嫌悪感)が出てくるんですよね。

その感情が出てきたときは、自分をもっと解放してあげるタイミングだと思ってます。

自分に対して強く禁止していることがあるからこそ、それを平気でやっている人を見たときに不快な気持ちが噴き出してくるわけです。

これは、自分の内側からの〝 わたしにもやらせろ 〟のメッセージです。


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自分の中の創造主である『内なる自分』を再発見するためのnoteの玉手箱です。 自分を認め受容するために「足すべきもの」など、本来何もない…

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