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2023年7月13日 木曜日

赤ちゃまが内臓を四方八方蹴っ飛ばすからお腹おしりがズキズキズキズキ痛む。この人脚力強めで生まれてくるのかな…この乱暴者め…

数年ぶりに元カレの消息が耳に入ってきてなんか懐かしいような、どうでもいいような。大学時代に付き合ってたその男が村上春樹好きで、わたしは彼氏に影響されやすいのでたくさん読んだ。そのときは彼氏のことが好きだった補正があったんか、あるいはその男が村上春樹の小説に出てくるような男気取ってたせいか、村上春樹って、いいなぁ…って思ってたもんです。その彼氏に手ひどく振られた直後に悲しみを癒やすために読み返した村上春樹はその男の面影でいっぱいみたいな感じだったのに、それが数年経ってそういえばとか思って読んでみたらなんか全然好きな文体じゃなかったし、いつも射精してない?っていうのがまず第一感想として出てきた。なんというか、村上春樹のことは完全に元彼フィルターを通して読んでたのがわかったし、いまあの文体を読むと苦痛ですらある(ハルキストの皆さん。ごめんなさい)。
でも1個だけ村上春樹の登場人物の言ってることでわかるわそれはといまでも思うことがある、それは「現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い。」永沢のこれは、あのときもわかるわと思ったし、いまでもまあ実践はしないけどわかるわとは思う。古典は何百年経っても残り続け人に読まれ続けるから古典というので、読まれ続けているというその一点のみにおいてすでに読まれるべきオーソリティであることが確定してる。そしてそのオーソリティは時が経てば経つほど増えていくので、たしかに我々くらいの世代になるともう現代文学に寄り道してるような暇ないよなと思った(現代専門の人はこの限りじゃないんだろうなとは思うし、その問題があるからこそ現代文学専門にしてる人の勉強量はエグすぎてついていけなかった)。これは文学研究者にとってある意味不可避な課題で、自分が生きる時代があとになればなるほど読むものは増えて批評できることは少なくなっていく。その厖大な先行研究の網の目をかいくぐって一体わたしに何のオリジナルな批評ができる?と考えることは苦痛以外の何物でもなかったので、ここを読んだときその不可避的な課題を突きつけられているようで頭が重くなったものだった。それで大学卒業までわたしは永沢のこれを基本的なポリシーとして過ごしてしまったというか、そう過ごさざるをえなかった(例外はあれども)。
でももう別にプロの研究者でもないし、今更になってこれを自分のポリシーにするほど思い上がってはいない。時の重圧に耐えうるものだけにしか価値がないとは思わない。大学卒業してからは死後30年経ってない人の本も全然どんどん読んで、めちゃくちゃ気持ちがラクになったのも事実。永沢の呪縛から解放された。
それでも今でも少しだけ、流行ってる本を読もうとするとき永沢の呪いが私の足首をつかもうとするんで、それを言ってる永沢が現代文学の代表みたいな本の登場人物ってのは、皮肉だなと思いながら永沢を蹴っ飛ばしたりする。

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