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『大豆田とわ子と三人の元夫』第一章を勝手に総括する

フジテレビ系で毎週火曜21時から放送中のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(以下、『まめ夫』)。

軽妙な掛け合いと心にササるフレーズ、そして独特なストーリー展開などなどクオリティの高さが一部で評判を呼んでいるものの、その作り込みの深さが敬遠されてか視聴率がイマイチ振るわないでいる。

しかしわたしとしてはもう、次回が待ち遠しくてしかたがない。それくらい虜になっている。

前回の放送で無事第一章が完結したので、熱烈なファンのひとりとして思いついたことを「総括」として勝手に書き殴っていきたい。

以下、ネタバレ注意です。
未見の方はご了承ください。

綿来かごめという「革命」

第一章は主人公・とわ子(松たか子さん)の親友、綿来かごめ(市川実日子さん)の強烈なインパクトに彩られた、いわば『大豆田とわ子と三人の元夫(と親友のかごめ)』ともいえる展開だった。

コラムニストの高堀冬彦さんによる、かごめ評を引用しよう。

隣家の恵まれない子供を連れ去った過去がある。未成年者略取及び誘拐罪の前科者だ。この時点で引く人もいるかも知れない。新卒後は8回転職。大事な話は聞かず、買ったものはすぐ食べる。

 かごめは自由人。愉快で痛快だ。

引用元
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/05111100/

現代に身をおく、洒脱な主人公たちのドラマのなかで、かごめだけが俗世から離脱したかのような雰囲気が漂う。さらにかごめは、日本のドラマにおいて極めて珍しい「アセクシャル」の人物として描かれた。彼女のキャラクターを象徴するのが、第4話のセリフだ。

恋がすてきなのは知ってる。きらきらってした瞬間があるのも知ってる。手をつないだり一緒に暮らす喜びもわかる。ただただただただ恋愛が邪魔。女と男の関係が私の人生にはいらないの。そういう考えがね、寂しいことは知ってるよ。実際たまに寂しい。でもやっぱり、ただただそれが、私なんだよ。

わたし個人、このキャラクターの存在は革命だとさえ思った。先出の高堀さんもこう述べる。

かごめみたいな女性と友人になれるか、なれないかがこのドラマのファンになれるかどうかの分水嶺なのかも知れない。

この作品を手がけた坂元裕二氏は、かごめという人物をとおして、このドラマの視聴者を「選別」したのだと思う。

かごめに共感したり、手を差し伸べようと思えたりできるひと以外は観なくて結構!

とでもいうような、強い「意思」が感じられる。

そして第一章は、かごめがまさかまさかの「孤独死」を遂げる幕切れだった。

この展開については、恋愛をしなければほぼ確実に悲惨な末路が待っているとも主張しているような、坂元氏のシニカルじみた視点が感じられる。

もっと言えば、「恋愛をしろ」「家族をつくれ」と急かされている日本の「働き盛り」層の生きづらさを映し出していたとも解釈できる。

「人間関係はサービス」にすぎない八作へのツケ

さて、そんなかごめに好意を抱いてしまった男こそ、とわ子の最初の夫(いわゆるシーズン1)である田中八作(松田龍平さん)である。

かごめが想いに応えられないことを悟り、「モテたい人にモテなかった」八作は、かごめの友人・とわ子と結婚する。

そして一人娘までもうけたのだけど、「他に好きなひとがいる。私は2番目なんじゃないか」と気がついたとわ子から別れを告げられたのだった。

好きな人のいちばん近いひとと結婚する八作ェ…。でもそこには、ネガティブな気持ちはひとつもない。彼は、自分の想いを隠し通してどこまでも相手に優しくあろうとする存在なのだ。

第1話でとわ子は、そんな八作のもつ「優しさ」についてこう解釈する。

優しいって「頭がいいこと」でしょ。頭がいいっていうのは優しいってこと

一見どこかズルくて、どこか湿っぽいような八作の「優しさ」を、とわ子は全肯定している。


しかし、第5話にてとわ子は、八作の想いをついに察してしまい動揺する。
ちなみに、ちょうどその時かごめから着信があったのだが、劇中では折り返している様子はない。
同じ日の晩(第6話)にはすでに、かごめは帰らぬ人になっているので、おそらくこれが最後の着信となった。


結局、八作は周囲からモテるともてはやされながらも、想い続けていたひとを永遠に振り向かせることはできなかったばかりか、振り向いてくれていたとわ子をも傷つけることになったのだった。


そしてさらに第6話で八作は、自らに想いを寄せる女性・早良(石橋静河さん)から次のように指摘される。

ちょっと余裕があって一緒にいて楽な人っているでしょ。しかもこっちの話を何時間でも口挟まずに聞ける人。……そういう人って結局人のことをただめんどくさがってるだけなんだなって。その人が優しいのは優しくしておけばめんどくさくないからなんだよ。一緒にいて楽しいのは その人にとって人間関係はサービスでしかないから。

その「優しさ」を全肯定してくれたとわ子とは対照的に、その指摘はあまりにも鋭い。

観ているわたしもHPが削られた。心が痛かった。他人事とは思えない。


ここまで八作をコテンパンにする筋書きからは、「人間関係をサービスだと思ってるとイタイ目みるぞ」という痛烈なメッセージのようなものを感じてしまった。

第一章では、三人の元夫にそれぞれ想いを寄せる三人の女性が登場した。先述の早良もそのひとりだ。
彼女たちは、自らを主張する。それも場や空気を選ばず。
この点でとわ子とは対照的であり、どこか別の次元からやってきた人びとだと感じさせる。


わたしをふくめ多くの視聴者は、この女性たちと元夫たちがどうにかなるかと予想していたことだろうと思う。

しかし、元夫たちはどこまでも、大豆田とわ子という自称・「普通」のひとのことが忘れられないどころか、どこまでも大好きなのだった。

結局彼女たちは、とわ子と直接対面することなく闘わずして「敗北」した。

第6話で描かれたそれぞれの別れのシーンは、彼女たちなりの「最後の抵抗」だったように思う。

とくに、早良の「こんな最高な恋人 どこ探したっていない」というセリフに代表される「自己アピール」については、悲しさ、寂しさが全面に出ているように思えた。

SNS上では嫌悪感を示す声が多くみられたけれど、あれはあれで彼女なりの「弱さ」をみせた瞬間だったのではないか。

結局、あれだけアピールしたところで、とわ子とかごめには敵わなかったのだ。

ところで、このどうしようもないけどどこまでもやさしい元夫たちのいろいろって、一妻多夫制を採用したら全部解決すると思うのはわたしだけでしょうか…。

というかもう、本作はある種の「一妻多夫制ドラマ」と言い切ってもいいレベルだ。このあたりことについてはまた機会のあるときにでも書こうと思う。

すぐそこにある「死」

思い返せば、第1話はとわ子の母の死からはじまった。
そして先述したように、第一章はかごめの死で完結した。

つまり本作の背景には、「死」がつきまとっているのである。

本作がメインターゲットとする、松たか子さんと同世代の視聴者にとって、近親者の死はもう他人事ではない。そんな「死」を、コミカルかつシニカルに描き出したといえる。

だからこそ、その「死」には湿っぽさがない。彼女たちの日常のできごとのひとつとして受け入れられ、そして明日もまた同じように生きていく。

今までのドラマなら、大きなトピックとなりえた、近親者の「死」をすぐそこにある日常の1ページとして描いた。このこともまた、ある種の革命だろう。

総括の総括

以上をまとめると、第一章を貫いたテーマは、
①かごめという異端の存在
②いじめ抜かれる最初の夫
③死が後ろに佇む世界観

の三要素にあったのだと、わたしには思えた。

果たして次週以降、とわ子は四人目の「網戸を直してくれる人」とめぐり逢うのだろうか。まだまだ『まめ夫』から目が離せそうにない。

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