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怒りは道具である、という話。

・怒りとは何か


怒りが発露することがある。言い換えれば、衝動的にばーっと言いたくなる時がある。言わなくても、書きたくなる時、書かなくても「代弁してくれる声」に賛同したくなることがある。

怒りが発露する時とはいつだろう。答えは相手をひれ伏せたい時ではないだろうか。「ええい、この分からずや!」と内心思いつつ、ボルテージを上げ、いよいよ融通が利かない時にどす黒い感情が渦巻く。


・道具としての怒り


「発露」と書いたが、正確でない。多分、意図的に起こしている。相手を屈服させるために、怒りを呼び起こしている。「怒っているぞ!」と威圧して、この場を制そうとしている。

少なくとも心の中ではそのように試みていて、もう一方で「本当にそれをすべきか」と値踏みする。答えがYESなら大爆発。NOなら。器に据え付けられた栓を抜いて、排水溝に流し込んでいく。何も起こらない。

穏やかな話ではない。けれど、私は多くの人の中で同じ事象が起こっているのではないか、と勘ぐっている。怒りが独りでに湧くことは、多分ない。私だけの世界で私が怒ることはないだろう。そんなことは、エネルギーの無駄だから。

この怒りを取り巻く因果関係を取り違えまいと、できるだけ怒りを使わないようにしている。使う価値があるだろうかと、値踏みしている。


・最近怒りっぽい日本人


最近、「みんな怒りっぽいな」と思う。日本中が、何だか怒っている。

特に、コロナウィルスをめぐる一連の対応と、検察長法改正の盛り上がりは凄まじいものがあった。「これが怒らずしていられるか!」という熱情を感じた。その動機は、一体どこからきて、どこに向かっているのだろう。


政府。本当に、そうだろうか。
三権の独立性。本当にそうだろうか。


こういえば身も蓋も無いが、教科書のどこかで習ったような「三権分立」という概念の重要性を日頃から強く意識して眼光鋭くぎらつく人物を、私はあまり知らない。検察長法改正の議論は、実は随分前からあって、燃え上がったのはつい最近のことだ。私たちは、本当に「三権の独立性」を守りたかったのだろうか。


私たちは、何に怒っているのだろう。

無論、私には分かる術もない。少なくとも、怒りの根源は、それぞれの成り立ちや性格によって、それぞれが持ち合わせている。もし、「怒りを発露させる道具に、目の前の都合のいい事象を使い込んでいる」としたら。それは、健全な態度ではない。


・「選挙権」を支えるもの



私たちが持つ選挙権。いったい、何のために与えられているのだろう。


私たちが声を大にして、良い国を作るため。
その通りだ。


では、なぜ「子供」には選挙権がないのだろう。子供にだってあったっていいではないか。なぜ、選挙権は、大人にのみ与えられているのだろう。子供に無くて、大人にあるものは何だろう。


そう。

私たちは、「考える」ことができる。そのうえで、「意見」を述べることができる。様々な経験や、知識をもって、物事を判断することができる。

そのことが、選挙権の根底にあるならば。イイネやリツイートでわが身の怒りを燃え上がらせる前に、私たちは一度考えなくてはならない。

自分の頭のフィルターを通して、
「これは本当だろうか」
「そう言い切れる、そう考えたのはなぜだろうか」
「自分は”話者”と”事物”を切り離して考えられているだろうか」
それらを言語化してみなければならない。

それができるから、私たちは「選挙権」を与えられている。少なくとも、できるとみなされている。不器用な言葉を紡いだ先に、1つ1つの判断(政策)に対して、自分の基準で「それはあっている」「それは違う」と意見することができる。それができるから、私たちは託されている。


・誰に「選挙権」を託されたか


いったい誰にだろう。

過去の人?いや違う。
未来の子供たち?それもあるだろう。

わたしは、今生きる、それぞれの人が、それぞれ託しあっているのだと思う。それが政治という概念に抽象化され、物事がバランスする。民主主義とは、簡単にいえばそういうことなのではないかと思う。


・私がいま恐れていること


私は、少し怖い。

長期政権となり、やや傲慢さが見える政権以上に、「この激情を誰かが利用しやしないか」と恐れている。現に世界では、そういうリーダー・政党が、ここ数年人気を集めている。

怒っている人をコントロールするのは、たやすい。怒りをぶつける対象を作れば良いだけだ。私たちは「その手には乗らないよ。」とクールに自考しなければならない。怒っていては、考えることさえできない。


・解決策:「考える」を履行しよう


「専門家の○○さんが言っていたから」
「あの人が間違えるはずがない。」

そう。それは理由ではない。
意見でもない。
つまり、考えたことにならない。

「○○さん」や「○○さんの意見」がなぜ正しいと【私】が考えたのか。その基準を言語化しなければならない。そして、その基準が揺らいでしまったとき。唇を噛みしめながら、過ちを認め、自分の意見の「修正」を試みなければならない。発言と事物は切り分けなければならない。

私たちの一票の権利には、それらを履行する義務がある。


私たちの「意見」が1つ1つの判断(政策)に向かったとき、この国は精神的な意味で建設的な国になる。

そんな希望を抱きながら、今日も自室に引きこもり、noteを一筆書いている。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)