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紙ストローに不自由は感じないのだが。

ディスカッションの授業を終え、帰宅の途に就く。道路の左端をせっせと走行していると、視界に何軒かのcafeが飛び込んでくる。

詳述はリンクに譲るが、率直に言って私はカフェが好きだ。別段コーヒーに特別愛着があるわけでも、といって嫌いでもない。あの雰囲気の中に、自分の感覚や能力が高められる何かがあるのだ。

自転車を停めて、店内に入る。

「How are you ??」 「Eat in, or take away??」等と、矢継ぎ早な、短い質問にぎこちなく応答し、目当ての飲食物を手にして、席に着く。PCの電源を入れ、明日のプレゼンテーションの内容を反芻しながらアイスコーヒーに手を伸ばす。

日本のアイスコーヒーと比べて少し薄目のその味は、日曜日の濃厚なラテとは全くの別物で、そのコントラストに少し笑ってしまう。こうして不思議とストレスなく目当ての作業に入っていくことができる環境は、本当にありがたいものだ。

30分程経過した頃、口に含んだストローに違和感を覚える。何だか柔らかい。よくよく見れば紙製だ。といって、特段不都合は無い。

しばらくして、不意にあるニュースが脳裏をよぎった。ご存知の方も多いことだろう。



プラスチックを製造する企業に勤めるものとして、「プラスチック汚染」という問題に、異を唱えるつもりは毛頭ない。真摯に取り組まねばならない深刻な問題だ。

しかし、同時に思う。あまりにも短絡的な対応ではないか。

プラスチック同様に生物によって分解されない、ないしは分解されにくい物質もある。元より、その物質、システム自体が有害(hazardous)であるものも、山のように存在する。例えば、生毒的な金属であったり、原子力発電であったり。問題の本質は、プラスチックそれ自体ではなく、その処分(disposal)のあり方、つまりポイ捨てやリサイクルの仕組みづくりといったところにあるはずだ。

目の前のストローは、確かに紙に変わっている。不自由もない。しかし、この問題はそれで解決したのだろうか。もう、亀の鼻に異物が刺さることはないのだろうか。「プラスチック」という素材は、ソドムとゴモラのように、消費者の怒りに触れ無かったことにされる運命なのか。

「プラスチックという素材の可能性と、それが地球と共存できる解の両方を、我々化学メーカーは模索し、提示し続けなければならないのだな。」

少しふやけた一本のストローと、夕日にきらりと光るボールペンを眺めながらぼんやりとそんなことを考え、明日のプレゼンテーションに向け、またカタカタとキーボードを叩くのだった。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)