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結局、「宝くじ」を買う気分にはなれなかった。



誕生日を目前に控えた12月半ば。昼下がりの晴海通りを、銀座方面から日比谷公園に向かって歩く。何の気なしに羽織ったジャケットの繊維から染み込む冷気。冬支度を始めた街路樹の下を、腕組みしながらゆっくり進む。


「御成門の銀杏、良かったわね。」


確かに。空に伸びる無機質な赤と黄色い地面のコントラストが印象的だった。「ぎんなんの匂いに顔をしかめていたのは誰だっけ。」なんて指摘が野暮なことくらい分かる年齢。歩速と会話、乱さないに越したことはない。春と秋。確かに3ヶ月ずつあるはずなのに、それらしい時期はごく僅か。その儚さ故、互いの好きな季節でもあるのだと思う。


思えば、公園に足を運んだ一年だった。芝公園、木場公園、新宿御苑。夏には、幕張の方にも足を伸ばした。(「ロボロボ公園」なんて少しチャーミングな名所にも顔を出した。) 活発な子供を連れ立つのに、少し大きめの「公園」は「それ」でなくてもありがたい存在だ。無尽蔵に思える体力を吸い尽くしてくれる。そのことだけでも頭が上がらない。


「うわ、あんなに並んで、何の列だろう。 」


人だかりは、ゆうに500人を超えている。夢を売買するチャンスセンター前の異様な熱気と息づかいは、巨大な一個体のそれに見える。眼前に広がる完全な非日常は、現実と非現実の狭間に雫を垂らして、境目を曖昧にしている。何が正しいのか途端にクラクラしてきた。長く続く非日常が日常に置き変わって久しい。10年前のW杯、見知らぬファン達と流し込んだ黄色い炭酸にじんわり酸っぱいライムの緑。コロナが「陽気さ」の代名詞だった時代に、改めて別れを告げる。


「向こうに渡ろうか。」


計画より200m手前、バギーの向きを90度回転させる。大通りの信号に従い、歩行者がせわしく行き交う。明滅する緑と赤。季節の移り変わりを何回も見ているようだ。来年は温泉付の旅館で本物の紅葉を。そんなことをぼんやり考える。「赤になった。」と笑う2歳児の声にはっとして、またゆっくり進んでいく。


「あら。」


飛び込んできたのは、思いがけない見事な紅葉(もみじ)。先ほどの地点とこことでは、時間の経過が明確に異なっていると錯覚してしまう程だ。乱れた呼吸を整えるのも忘れて、「へー、凄いね。」と写真を撮る。一体、どういうシステムなのだろう。紙袋から取り出すアイスコーヒーの、先端がふやけたストローが、口元をいったりきたりしている。


「これだって、確率論じゃないか。」


訝しい気持ちを含んで、すんと伸びたストローを視界におさめながら、今度は確実に口にふくむ。「できる」ことと「できない」こと。今はできることをしよう。ふと、頭を過る昨年の目標を飲み込むように、少し氷の解けた苦いコーヒーをぐいっと流し込む。



室内や人混み、他者との接触を避け続けた一年間が終わろうとしている。


12/25の夕方。クリスマスということもあって、家族三人で卓を囲んだ。外出時を除けば、我が家では、実に9ヶ月ぶりの事だ。(飲食含め、普段は可能な限り自室で過ごしている。)もちろん、飲食物を口に運ぶとき以外の会話は外食時同様、室内でもマスク越しだ。


幾分味気ない気もする。そこは否定しないし、そこまでしなくても咎を受けるわけではない。感染者に占める家庭内感染の比率の高さは、その難しさの証左だろう。みんな同情してくれるに違いない。


けれど。僕は、まだ諦めたくない。


東京の1日の感染者数が1万人を超えても。

日本全体の1日の死者数が1万人を超える日が来ても。

日本の医療体制が崩壊しても。


やることは変わらない。基本的な感染症対策でそのリスクを最大限引き下げる。飛沫を吸わない。できることをやる。要はそれだけのことである。


僕とウイルス。2021年を笑顔で終えるのは果たしてどちらだろうか。あれから3週間。悪くない勝負だが、先は長く、まだまだ気は抜けない。

この1年間。ついに、宝くじを買う気になれなかった。期待値とか賞金の話ではない。僕が買わなかったのは、命と引き換えに楽しみを得るくじである。事実と数字と直感。僕はもうしばらく、自分の信じる味気ない世界を生きていく。見えない敵と戦う仲間は、まだ残っていると信じて。

あの日、チャンスセンターに殺到した人たちが何を掴んだのか。僕には知るよしも無いけれど、それが幸せを運ぶ幸運の「宝くじ」であったのだと、今はせめて祈ることにしたい。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)