無理をしないということ。

自分のことを書きます。今まであまり書いてこなかったことも書いています。
自分の病気のことや、自分という人間の考え方などです。
今までここまで詳しく書いてこなかったのは、「病気を売りにしていると思われて、自分の実力で評価されなくなってしまったら嫌だ」と思っていたからです。
でも、そんなのすごくちっぽけな感情で、これを私が書くことで「自分だけじゃないんだ」と何か気持ちの救いに少しでもなればいいなって思ったので、書いてみました。根本宗子を知ってほしいと思って書いている文章ではなくて、「こんな人もいるんだ〜」って思って欲しくて書きます。


私は、右足に持病があります。
正確には中学1年生まではとっても普通の元気な女の子でした。
中学1年生の時に学校の競技会のリレーで右大腿骨を複雑骨折してしまい、骨折箇所をボルトで止める手術を行い、しばらくリハビリをして、車椅子から松葉杖に、松葉杖が1本になり、さあボルトを抜く手術をして完治、というところまで回復したのですが、ボルトを抜く手術を行うために最初の手術から数ヶ月後に再度入院をした日に、大腿骨骨頭壊死といって、骨折時に同時に血管も切れてしまっていたことが原因で、骨の一部分に血が行かなくなってしまい、骨が壊死してしまう、という病気になっていることが発覚しました。
これが見つかったことで、ボルトを抜く手術はできず、入院の準備をして行ったのに、その日は家に帰ることになり、骨頭壊死の治療をせねばならなくなりました。
こんな病気があることをもちろんこの日まで私も母も知りませんでした。もちろん私はとてもショックで、「一生車椅子でもいいので、もう一度手術なんてしたくない」と担当のお医者さんに言いました。
1度目の手術がとんでもなく大変で、痛さは表現できないものだったし、2週間仰向けに寝たきり、足にはドレーンという悪い血を抜く管が入りっぱなしだし、たくさんの点滴がついていて、夜も寝るのではなく痛さで意識が遠のくのを待つだけ。もちろんトイレもお風呂も行かれません。自分じゃ何もできないし、1ミリでも体を動かされたら痛くて、それを乗り越えてやっと起き上がれる日も、2週間も寝たきりだったので自力では起き上がれず、お医者さんと看護婦さん3人係で私を起き上がらせて、車椅子に座らせるまでに40分がかかりました。
起きれても気持ちが悪くてトイレからベットに帰ってくるまで2時間くらいかかりました。そこから車椅子、松葉杖と何ヶ月もかけてリハビリをして、そんなことをもう一度やる勇気がその日の私にはありませんでした。

「とりあえず、家に帰って、ゆっくり考えてみて?」

と先生から言われ、家に帰りました。
先生はその時母に

「骨頭壊死のための手術は1種類ではないため、納得できる方法を知るために他の病院の話を聞きに行ってみても全然いいので。」
(これはもしかしたら母が先に相談をしたのかもで、どちらが先に言い出したかは定かじゃないんですけど。)

と言ってくれました。本来こんなことを言うお医者さんはあまりいないと思います。
その日から母はセカンドピニオンで話を聞くために股関節で有名な先生を日本中調べて、私と母は話を聞いてみたい先生全員に会いました。
新幹線に乗って、地方の病院にも行きました。母もまた、脳外科のとても大きな病気で手術をしているため、私の何倍も精神が強い人間なのでこの時娘がこんなことになっても、気をしっかり持って病院を調べ、最善を探してくれたんだと思います。

私のこの病気の手術で、日本で当時スタンダードとされていたのが、

・寛骨臼回転骨切り術
・大腿骨頭後方回転骨切り術

という2種類です。(スタンダードという言い方が難しいんですが、症状によって異なるなんですが、私の場合最終的にこの2つのうちのどちらかを受けるのが良い、ということになった2種類です。)

この2つの手術法はかなり根本的な考え方の違いがあります。

寛骨臼回転骨切り術というのは悪くなった骨頭の上に被っている骨盤の一部を切って、切った部分を少し横にずらし、歩く時に骨頭が当たる位置を変える手術です。簡単にいうと壊死した部分に体重がかかっていたのを、壊死してない正常な部分に体重がかかるようにして壊死の進行をここで止めようとする方法です。

一方、大腿骨頭後方回転骨切り術の方は、骨盤は触らず、骨折した骨頭の部分をもう一度切り、骨頭のまん丸をぐるっとひっくり返して、裏側のまだ壊死してない部分の骨頭で体重を支えさせようという手術です。

説明があまりうまくなくて申し訳ないのですが、二つとも目的は同じなんですが、決定的な違いは、悪くなっている部分には一切触れず、負荷をかける場所を変えようとする寛骨臼回転骨切り術と、悪くなっている部分に直接触れて、裏返してよい方を出してこよう、という考え方の大腿骨頭後方回転骨切り術です。

どちらももちろんとてもちゃんとした手術だし、どちらの先生もものすごく実績があり、でも手術を受けたみんながみんなうまくいっているわけではないのです。つまり自分の症状にどちらが合うかなんてやってみないとわからないんです。
けど、骨盤も骨頭も人間が歩くためにとっても大切なので何度も手術できる場所でなくて、何度もやってぐちゃぐちゃになってしまう方も中にはいるということもこの期間に母の調べでわかりました。母は

「宗子がいいと思ったほうでやろう」

と最初から言っていたので、私はこの2つの手術のどちらが良いのかとっても考えました。
でも、結局私はどちらの手術がいいかなんて選べず、先生の言葉と印象で選ぶことにしました。
私を1度目の手術から見てくれている先生は寛骨臼回転骨切り術を推奨していて、私が診察室を出る際、


「頑張ります。」


と言ってくれました。


もう一方のセカンドピニオンで出会った先生は私が診察室を出る際


「頑張って。」


と言いました。
私はこの時「私はもう頑張っている。」と思って、違和感を覚えました。もちろん言ってる意味はわかるし、この先生を否定しているわけじゃないんです。しっかり自信を持っていることで安心する方もいるし、この先生のこの言葉に救われている人もたくさんいるはずなんです。とにかく自信家な印象の先生だったんです。
でも、私の心には「頑張ります。」が残って、元々の先生に次もお願いしようと決めました。とにかく私の気持ちに寄り添ってくれる先生だったんですよね。心配してくれた先生からの留守番電話をしばらくお守り代わりにしていて、家の電話機の履歴から消えないように大事にとっておいたのも懐かしい話です。
ちなみに手術を迷いながら決めた話をして、それでも最後まで1パーセントくらい迷っている私に中村勘三郎さんがコイントスで決めよう、と言ってくれた、という素敵な話は別のインタビューで話したことがあるので今日は端折りますね。
とにかくいまだに私は自分の手術を担当してくれた先生に外来で会って

「大丈夫。」

と言われるのが、誰に言われるどんな言葉より安心します。

一度目の手術で私の足が治らなかったのは、ミスでもなんでもなく、ただの足を折った時の運です。血管なんてたくさん体に通っているのにたった数本切れただけで、骨に血がいかなくなるなんて考えたこともなかったし、そもそも骨の中に血管がたくさんあるなんて正直わたしも認識してませんでした。人間の体は本当に繊細で、世の中には知られている病気がたくさんあって、一見元気に見える人でも見えない、みんなの知らない病気をかかえている場合がある、ということを身を持って私はこの時代に知りました。

そして、寛骨臼回転骨切り術に決めて再度入院をすることになりました。
1度目の手術よりも大きな手術で入院期間も3ヶ月〜4ヶ月と長期間になり、手術でたくさん血が必要になるので自分の血を3週間貯血して、手術に挑みました。
本来、手術室に入り、麻酔をかけられてしまうので手術直前には麻酔科の先生と看護婦さんとしか会えないのですが、どうしても先生に手を握ってほしいというわがままを言い、子供だったこともあり、聞いてもらえて、麻酔をかける前に先生が手術室にきてくれて、「大丈夫。」と私の手を握ってくれて、私は全身麻酔をかけられました。とにかく優しかったです。

麻酔が覚めてからはもう地獄で、ここから数ヶ月のことは今でも文章で書こうとしても具合が悪くなってしまうのでまた次の機会にゆっくり書きたい時に書こうと思うのですが、まあまた2週間寝たきり、異常な痛み、たくさんの点滴に囲まれ、看護師さんと母と父に支えられながらまたあの地獄の起き上がる日を迎え、車椅子に乗れるようになり、リハビリ室にいけるようになりという日々を数ヶ月過ごしました。
よく頑張ったねとたくさんの人に言ってもらいましたが、人はその状況におかれると、もう乗り越えるしかないのです。頑張りたくて頑張ったわけではないのです。

私は2度の入院を経て、看護師さんのすごさもたくさん知りました。
ICUの看護師さんは1日中容体に変化がないか付きっきりで見てくれているし、病棟の看護師さんも毎日毎日治療して、支えてくれて、おしゃべりしてくれて、とにかく患者のありとあらゆることを体だけじゃなく心も助けてくれます。
本当に私は看護師の皆さんのおかげで今こうしていることができています。たくさんたくさんわがままを言ったこともありました。感謝しても仕切れません。

それでも病院の夜はなんとも孤独でした。同級生はみんな学校に行って、遊んでいる時に私は病院でじっとしていて毎日母は来てくれるけど夜には一人で、体を動かしていないし不安もたくさんあってうまく眠れない日々でした。夜中に車椅子に乗って、真っ暗な病院をうろうろしていることもよくありました。
人とは違う、と思うなという母の育て方だったのでそう思わないようにしてきたのですが、やっぱり人とは違うんです。一人は寂しいし、友達はみんな心配して連絡をくれるけど、24時間連絡がつくわけではないし、病院ではケータイが思うようには使えません。

数ヶ月後、学校へ行って、みんな優しくしてくれるんだけど、車椅子の私はみんなと景色が違いました。みんなが走った時に私は走れないし、体育の授業は高校卒業まで見学でした。
体育で怪我したのに、体育を見学させられるという拷問が今考えても超理不尽だったなって思います。体育館は寒いし、ずっと車椅子で座っているのはしんどいし、でも保健室に行くと授業欠席扱いにされてしまったんですよ。今考えても学校ってまあまあおかしいですよね。
あと、車椅子でなるべく気分上げたくて、あったかいもこもこのかわいい靴下履きたかったんですけど、黒白グレーしかダメと学校から言われ、グレーのつまんない靴下履いて、気分は下がりました。
今の私なら超戦って、もこもこの最高に可愛いやつ履くと思うんですけど、当時のわたしは怒られたらそっかってなったし、母はある程度戦ってくれたけど
多分もう戦う余力なかったんだと思います。
この頃から私は「決まりは決まりです」のシステムが嫌だなと思い始めました。
だって、それって考えてないってことじゃないですか。
授業に出られない人は見学。というシステムの応用編やイレギュラー編を考えることをサボってるだけなんですよ。めんどうだから、ルールは1つってしてて、そこにはめようとしてくる。もちろん先生全員がこの考え方じゃなかったし、いい先生もいたけど、それでも組織としての力がもう決まっていて、数人のちょっとした意見とかじゃ変わらないんですよね。今大人になってみて、すごく思います。もしかしたら戦ってる先生もいたかもだけれど、戦っていると私たち生徒にわからないほど、戦っていることが消されているのかもしれないですし。
この頃のおかしいなあとかちょっとした違和感みたいなものが、こうして今私が作家としてものを書くことにつながっています。

人の気持ちを考えましょう。

って小学校や下手したら幼稚園で最初に習うじゃないですか。
これって、私はよく言っていますが、イマジネーション力だと思うんです。

「自分があなただったらどう思うか」

をいつ何時も考えて、想像して、相手を思いやることがとっても大切です。
でも、学校の先生が一人の生徒の気持ちを考えてルール変更を申し出てくれない世界は想像力がないなって思ったんです。
運動しか興味がなかった私が、リレーで怪我をしてしまい、もちろん怪我は運命的なもので誰のせいでもないけれど、(実際は特殊な地面に砂をまいて人工的に土みたいなのを作ってグラウンドを作って走らせていたので、滑りやすかったみたいな事実もあったんだけど、これだけが原因だと私は思っていないし、まじで誰のせいでもなく怪我した、なんなら今となっては怪我してなかったら演劇やってないから、この仕事につくために怪我があった、くらいに思っています。)
でも、やっぱり怪我から5年の体育見学は私にとって辛すぎて、何度も保健室に逃げて寝てました。その度欠席になり最終的になんかレポート書かされて、これが私にとってどれだけしんどいことかを誰も考えてくれる大人がないこの学校という国はなんなんだ、と感じてました。

このような経験が私という人格を作りました。
基本的に疑いから入るところや、味方なんて誰もいないみたいな孤独を感じやすい体質に自分でも気がつかぬ間になりました。
「心身ともに健康な方」というオーディションの概要欄に書いてある言葉を見るたびなんか孤独を感じてしまう20代前半だったのもこういった経験からでした。「人とは違いますから。」というスタンプを押されているのに、無理やり同じにしていくカードみたいなのだけ渡されている気分だったんですよね。
でも、高校時代の素敵な友人や、仕事を初めてから出会ったたくさんの素敵な人のおかげで少しずつこの性格によるマイナス思考は治ってきています。

それでも、どうしても世界に自分一人のような気持ちに襲われてしまったり、このしんどさを誰に言ったらいいんだろう・・・と部屋で一人小さくなってしまうこともあります。舞台の仕込みでみんなが重いものを持ってるのに、持てない私は「あいつサボってる」と思われてるんじゃないかといつも不安だったし、急に走れないため、信号変わりそうで「走ってー!」ってみんなで走っていく友人の一言に無駄に傷ついたり。仕事で嫌なことがあったりすると、余計にそれが強くなってしまったり、今まで仕事続けるのがもう無理かもしれないと感じたこともあります。セリフが覚えられなくなってしまい、舞台では怖くて冷や汗が止まらなかったこともあります。それでも私が続けてこれたのは紛れもなく周りの人の支えがあったからです。そう、全く私は強い人間ではないのです。でも、これを言っちゃうとなんか舞台にわたしが出ると心配してくれちゃう人もいるよなって思って書き方めちゃくちゃ迷ったのですが、自分のことを書くことが今はやっておいた方がいいことに思えたので書きました。あと、今はもう無理をしないということができるようになったので書きました。
センシティブな部分はそれぞれだし、「私はこう。」みたいなある意味開き直りが自分の中に出たのかもだし、説明したらわかってくれる人はたくさんいるので。

育った環境はそれぞれでも、今、こんな世の中でこのような気持ちに襲われている人が少なくないと思います。
私は決められた事はやらなきゃいけない、とかそれにより人と違うということを突きつけられた経験から「おかしいことをおかしい」と言える性格になるまでどうも時間がかかってしまいました。これが言えるようになったのは本当ここ2年とかの話で、なりたいなりたいと思っていたけど、やり方がわからなくて気持ちが整理できなくて、パニック、みたいにどうしてもなってしまいました。でも、そのセリフも覚えられないなんもできないみたいに一時期なったことによって、もうこれはダメだと自分の頭をゆっくり整理してみたらうまいこと自分の中で何かが回り出しました。

「こうしなきゃ」って思っている事は実はそんなことなくて、無理だったらやらなくってもいいんです。体育見学が無理だったら保健室行けばいいし、保健室が無理なら家に帰っていいんです。
こうしなきゃに縛られる事は自分が思っている以上にしんどい自分を作りかねません。
ただのわがままか、そうでないかは自分が一番よくわかっていると思うし。
そうじゃない時はこうしなきゃなんて守れなくて大丈夫だし、極論生きていればどうにかなるし、それぞれが今悩んでることとかって大体が今までの生きてきた道のりや過程で周りを交えて出来上がったことなんですよね。人に言われた言葉とかでトラウマとかってできてるし。だからなんで自分はこうなんだろう、とか思う必要全くなくて、それはあなたのせいではないので、生きてやる、の方に変えられるものは変えていきましょう。

自分で変えるのが難しいこともとってもあるけど、仕事とかってやめてもなんとかなるし、逃げる勇気が自分を助けることもあるんですよね。

逃げるのは超勇気いるし、それなりの謝罪を入れなきゃいかんので、しんどいんですけど、でも、心が崩れてしまってはせっかく生きているのに楽しくないし、そういう出来事を経て人は自分の限界を知って、また限界に立たされた時にどうしていくのがいいのかを考えて成長するんだと思います。

私は中学高校時代の経験から「自分だけできない」ことへの敏感さが尋常じゃないんですけど、それってもう治るもんでもないので、自分でその感情が出ない予防線を張っていく作業みたいなのが歳を重ねるごとにうまくなっていくんですよね。

私はメンタリストでもなければ精神科医でもないので、「こうすればいい!」みたいな断言はできないけれど、私の言葉がなんとなくフィットした人がいたら手助けになればいいし、全然何言ってるかわっかんねーって人はこの文章は気に留めずにでいいし、好き嫌い、好き苦手を全然分けていいと思います。
好きなものだけ心に詰め込みたいしね。

とにかくまじで無理は良くないし、決まり事はくだらないことが多いので、違和感を感じたら「おかしい」と口に出して大丈夫ってことが書きたかったんだけど、手術のこととかを細かく書いたのは、病気は調べたらたくさんことが出てくるし、私も当時母がとにかくいろんな人のブログとかを読んで私の病気についての知識を増やしたんですよね。なので、私がセカンドピニオンに行って知ったこととかをちょくちょく書いたりすることで同じ病気の人の何かしらの手がかりになればいいなと最近感じたのと、この手術を受けて、いまこのくらい動いている人がいるっていうのって当時の私にとってもかなり希望だったんですよね。あまり知られていない病気だし、壊死した骨が蘇る事はまずないので完治がない病気のため、一生付き合っていかないといけないのに、元気っぽく見えるからなかなか理解されづらいので、少しでも情報を出して行けたらいいなと思います。

宮藤官九郎さんが新型コロナになった時に、新型コロナのことをどんなものだったか、発言して行ってほしいと病院で言われたとラジオで話していて。
宮藤さんのような発言に力がある人が、経験したことをしっかりと伝えることがとても大切だと病院で言われたと言っていて、とてもハッとしたんですよね。

私とかでも、自分のことを書いたりした方がいいなと思って。

なので今後ちょくちょくこういったことも書いていこうと思っています。
興味ある人が読んでくれたら。

また書きますね。

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