死生の天秤

GWを謳歌せよ、という意のニュース映像がやたらと眩しい。
「やけに人が多いと思えばGWか」と思えるほどに社会の流れから外れていた、昨年までの人生の夏休みは終わり、4月はこの連休を目標に何とか耐え抜いてきた。
ようやく迎えたGW1日目の夜、私は既にこの連休の終わりを恐れている。

始まりがあるものは、必ず終わりがある。
休日も、人生も同じである。
苦難を耐える一日はとても長く、休息や娯楽の一日はあっと言う前に過ぎてしまう。
体感時間で計るなら、人生の殆どは苦しいものだろう。
人生の8割が苦しいものだとして、残りの2割のためにどうして苦しみを耐えられるだろう。
そうしてまで、生きる理由とは何だろう。
例えば仕事を苦と考えるとして、週休二日ならば、5/7は苦しむことになる。
休息や娯楽に使える2/7のために、5/7の苦しみを耐えられるものだろうか。
仕方ない、そういうものだから、と折り合いをつけたり納得したりして、生きられることが社会人の適性の一つなのかもしれない。
苦しみの方が多い人生とわかっていながら、それでもという生きる理由を見つけられず、社会の仕組みにもうまく迎合できない私のような人間は、常に遠く、近くに見えている終わりのことばかり考えてしまう。

「産んでしまってごめんね」と、母に言われた。
そんなことを言わせたいんじゃない。
産まれてしまったから、生きるしかないのだ。
わかっている。
どんなに過程を遠回りさせて考えたとしても、結局最後に自ら選択できることは、続けるか辞めるか、生きるか死ぬかの2択である。
選択できずに迷い続けても、いつか必ず死ぬだけだ。
ただ、「どうせ生きることは大抵苦しいのだから、僅かな幸福を享受し謳歌しよう」と、前向きになれない私の生来の性質が悪いのだ。
生き物として人間として、生きることに向いてないという、致命的欠陥があるというだけなのだ。
私にとっては、生きることは苦しいことという大前提が成り立っており、生き物は必ず死ぬという現実の大前提と相まって、「人間は人生の大半を苦しんで生きた先に必ず死ぬ」という希望の一切ない思考が定着しているだけである。
誰が悪いというものではない。
強いて言うなら、虚無主義的思考をいつまでも手放せずにいる私が悪いのだ。
だから謝らないでほしい、母よ。

子どもの頃から、「だけどどうせ死ぬ」という考えが常にあった。
どんなにその瞬間が楽しくても、他人より何かが優れていても、些細なことでも人生の選択の場面でも。
2,3歳の頃、カーテンの隙間から朝陽が差し込むリビングで、箱型テレビから流れる音声をBGMに、仕事のために朝支度をする父と、私を着替えさせる母を見上げていた記憶。
偶に外の世界から訪れる祖父母。
私も成長したら、毎日外の世界へ出て行き、もうこの部屋に留まり続けることはできない。
私もいつかこの人たちのようになることが決まっているのだと、そしていつか終わりがくるのだと、言語はままならず、まだ死の概念が無いながらにも、ぼんやりと思ったことを覚えている。
なんて暗い人間だと思われるかもしれないが、時に、この「どうせ死ぬ」という考えは私を救ってきた。
どんなに嫌なことがあっても、その時が苦しくても、これはいつか必ず終わるものなのだと思えた。
また、私自身だけでなく、家族や友人から害のある相手までも、全ての生き物に終わりがあるのだと思うと、「この人もいつか死ぬんだ」と思うと愛しみの感情が芽生えたり、些細な悪意は時に愛嬌にも思えたりした。
生きるのって苦しいよね、怒りや悲しみが耐えられなくて他人にぶつけてしまうこともあるよね、苦しみを耐えてまで生きている自分への報いに納得できないこともあるよね、と。
自分も同じ汚泥の中に身を沈ませながらも、どこか上から見ていたところもあるだろう。
自分にまとわりつく泥を掻いて踠くことよりも、泥の中にひしめく自他を見下ろして眺めることで、逃避していたのだろう。
そうしなければ、真っ先に沈むのは生きることに不向きな自分だ。
泥から這い出ようと踠く人たちに、「いつも余裕そうだね」「人生楽そうだね」と言われるのは当たり前である。
私は底しか見ていないのだから。

寝食をすること、それを行う生活を維持するために義務を果たすこと。
全ては生きるという目的のために発生する。
世界は、社会は、各個が生きることを目的としていることを前提に、デザインされている。
なぜ生きるのか、という問いに対して完全な答えを持たないままに。
各個は己の最大幸福を、各集団は最大多数の最大幸福を模索しながら。
幸福が生きる目的になり得るならば、苦難の総量が幸福の総量を超えるのが多くの人生に適用される理であるならば、死生の天秤が常にやや死に傾いているのは当然ではないだろうか。
生まれてしまったから、死が怖いから、という理由だけでは傾きを変えるのは難しい。
忌避や惰性以外の、生きる理由が欲しい。
死ねない理由とまでなると、それもまた気が重いので、できるだけシンプルな理由がいい。
生物的本能に近いものが本来ならば望ましいのだろうが、食や恋愛、また社会的営みの殆ど一切に興味の持てない私にはなかなかハードルが高い。

世の中みんな苦しんでる、そうしてみんな生きている、貴方だけじゃない。
だから何だと言うのだ。
他人の苦しみは、私の苦しみを決して癒さない。
他人の人生は私の人生を救わない。
それでいい。別に何も望んでいない。
ただずっと、生きていたくないと思うだけだ。
世の人全員、他者の意思によって受動的に生まれてきたはずなのに、どうしてこうも差があるのか。
勝手に呼吸を続ける肺が恨めしい。

どうせ死ぬのだからと、無遠慮に無作法に全てを笑って生きることもできるが、そうして生きている時もあるが、心身が疲れているとどうにもいけない。
自分が不健全のループに陥っていることはわかっているのに、それが何故起きているのかもおよそわかっているのに、疲れているせいで抜け出すための思考に上手く切り替えられていない。
今は休むことを考えなければ。

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