江戸時代の裏の主役?淀屋の物語
先日散歩していて、八幡市の住宅地で淀屋辰五郎の屋敷跡を発見しました。
ガラス張りの天井に金魚を泳がせたりして、贅沢しすぎだ~と江戸幕府につぶされた・・・
そのくらいしか知識がなかった淀屋に興味を覚え、ちょっと調べてみました。
どうせコロナ待機で暇だしな。。。
なんとなくしか知らなかった淀屋の物語。
スケール的には三井や住友なんかより、もっと凄かったんですね~
そして、江戸時代の始まりと終わりにも裏側から関わっていたすごい物語が。。。
ザックリとまとめてみました。コロナ終わったらもう少し色々歩いて調べてみよ〜
さて、この京都出身の淀屋。初代は岡本常安という者。
元は山城国岡本荘の出身だったそう。今で言う宇治の自衛隊のとこらへんでしょうか。。
枚方の鍵屋のあたりという説もあったけど、こちらは違うかな。きっと出身地(淀藩)もあって後に淀屋と名乗ったのだと思います。
で、元は武士だったけど進撃してきた信長に討たれて浪人→商人に。
伏見城の大手門前のでかい巨岩をどかせ~という儲からなさそうで誰もやりたがらなかった仕事に手を上げて、撤去する代わりに穴を掘って埋めてしまったというトンチの利くお方。秀吉に気に入られて淀川の堤防工事を請け負ったことから淀屋と名乗るようになったとありました。
冬の陣で、家康・秀忠の陣屋をタダで作ってあげて、その代わりに兵士たちの賄いの権利をゲット。何万人もの兵士の食事やお酒代で大儲け。
夏の陣では戦死者の供養を申出。死体の供養をしてあげる代わりに鎧やら刀やらゲットしてまたまた大儲け。
常安、どうやらGAFAも真っ青なプラットフォーマーだったよう。
さらに家康からも陣屋のお礼ということで八幡に300石の土地をもらって御用商人に。
名字帯刀も許される。。
当時、草ボウボウだった中之島の開発を始め、船運を一気に手中に。
でかい屋敷を作って私費で橋をかけたのが淀屋橋。(橋近くの川沿いに屋敷跡の碑がありますよね〜)
その後数代後になって米市を立ち上げる。流通米500万石の4割、200万石を淀屋が大阪で取引してたそうな。1石って一人が一年で食べる量のお米なんで毎年200万人分のお米を売ってた計算。
当時の人口の1割(8割が農民だったから、非農民(士・工・商)の半分!)の賄い?
重たいお米をブツブツ交換するのではなく、米手形を発行して書面で取引を始めたそうで
世界初の先物取引だって!
堂島での取引相場情報は旗振り信号で全国に瞬時に伝わってたそうです。
江戸時代に1bps程度の光速通信!
京都は交野市の交野山→天王山を経て伏見に情報が届いていたそう
昔、探偵ナイトスクープでやってたの見たことある!
一昔前の証券取引所の場立ち(若者はもう知らんやろな)みたいなことを壮大なスケールでやってたんですね~
明治になってから諭吉翁がシカゴの証券取引所の制度を訳したところ、ほぼ何の造語もせずに堂島での言葉だけで事足りたとか。アメリカよりも経済は進歩してたのかも〜
お大尽なところにはいろんな人が集まるようで、松花堂昭乗や小堀遠州さん達と仲良しだったみたいだし、大石蔵之介の廓遊びや或いは討入のスポンサーだった可能性も?
儲かって儲かってしかたない淀屋。西国大名にお金貸したら利子も膨れ上がって
最終的には現在の価値にして100兆円の貸付高に。
幕府の国家予算かるく超えてしまうスケールです。
幕府からしたら面白くない存在に。財政破綻しかけの大名を救うために幕府は
五代目辰五郎に当主が変わった数年後、贅沢しすぎだということで闕所お取り潰しにしてしまいました。
しばらくして、日光東照宮100周年の恩赦で、八幡の土地だけは返してもらえたので
五代目辰五郎はそこで蟄居していたようです。先日見つけたのはそこの邸跡でした。
浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」(よどごいしゅっせのたきのぼり)にモデルとして描かれたりそれなりに世間様の注目を浴びていた模様。その後の淀屋の血筋は不明。
娘が居て、彼女は身持ちの悪い旦那に殺されたとか浄瑠璃ネタではあったみたいだけど、史実は不明
さて、ここまでが岡本庄出身の「前期」淀屋の物語。え?てことは「後期」があるの??
実はありました。。知らんかった〜
五代目は若さもあって何も考えていなかったようですが、四代目 淀屋重當は布石を打っていたよう。なにせ、今の価値にして100兆円にも相当する巨額のお金を大名たちに貸していて財力だけでは幕府を凌ぐ規模。BCP?リスクヘッジも行っていたようです。
当時の忠実な番頭さん牧田仁左衛門に自身の娘を養女に取らせ、鳥取倉吉方面に暖簾分けしています。これが後期淀屋の起源。牧田家は鳥取で堅実な商いを続け、稲扱千刃などを主力商品に順調に大きくなり、なんと闕所から58年後に元の淀屋橋近くに出店。店名を淀屋とし、見事淀屋の再興を実現しました。
この頃の関係者(元従業員?関係者?)がわが故郷の近く、與杼(よど)神社に高灯篭を二基、寄進していました。子供の頃よじ登ったりしてた灯篭(危ないから良い子は真似しないように!)にそんな謂れがあったとは・・・
後期淀屋の当主は淀屋清兵衛と名乗り、またまた大発展
経営方針なのか、家訓なのか何がすごいんだろ??
ところが四代目の清兵衛、江戸時代が終わる10年ほど前、突然店を畳んでしまいます??なぜ????
ここからはハッキリとした記録などないので、色んな説が書かれていましたが、どうやら
・尊王攘夷活動に傾倒し、勤皇の志士たちを支援していた
・閉店時、店の資産を全て現金化しており莫大な財産になっていた筈
・没落貴族であった岩倉具視あたりに資金が流れ、そこから薩長の活動資金源になったのだとすると幕末・維新後の様々な資金的な謎に説明がつく
ということで、忠臣蔵以上の徳川幕府への復讐劇を成し遂げた!みたいな内容のものがありました。
まあそんな恨めしい感情で百年かけて発展するとも思えないので、時代の流れを見て倒幕側についた・・・のではないかな??
なんにせよ、結果として裏側から日本経済の礎を作り、近代化のキッカケを作ったすごい商家でした。。
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