5/27 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』

・「可能性、すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちていくこと」

 この短歌を読んだときに脳内に浮かぶ一本の直線は、どれくらいのものを内包しているんだろうって思う。直線、それは二点間を最短距離で結ぶ線だから、はじまりの点と、おわりの点があって、どうしようもなく有限だけど、その中にはときどき、この世界のすべてとか永遠とか、そういうものが含まれている、願い。

・「のぞきこむだけで誰もが引き返すまみの心のみずうみのこと」
 
 透き通った、透明なみずうみなんかじゃない。私もあなたも「まみ」自身だって決して触れることのないそのみずうみは、「まみ」の孤独そのものでもある。
 人は、その深さや大きさには差があるにしてもみんな、一つのみずうみを飼っていて、お互いにそれに触れることはできない。でも、それがあなたなんだったら、たとえ触れてしまえば私もあなたもぜんぶぐちゃぐちゃになってしまうとしても、触れてみること、血を流すこと。

・「こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる」

 きみの神様とわたしの神様を見せあいっこする放課後の教室。だけど、ふたりでいるんだったら、信仰なんかじゃなくて、生きているという行い、存在そのものがおいのりになる。あの直線を、どこまでも伸ばしていくこと。

・「朝焼けの教会みたいに想いだす初めてピアスをあけた病院」

 ピアスを開ける、というのは自分の身体に穴を開けるということだけど、ぼくたちの存在には生まれてきたその瞬間から穴が開いているんだと思う。そして、その穴を埋めるために、神様や愛や芸術や自傷なんていう、終わることのない運動が行われ続けているわけで、それは墜ちていく一つの直線だから。
 「まみ」があの病院でピアスを開けたとき、何かがはじまって、そして何かが終わっていく。その起点であるあの病院は、朝焼けみたいに美しくて。

・「なんという無責任なまみなんだろう この世のすべてが愛しいなんて」

 愛する、という行為にはときに責任が伴ったりもするけれど、そういうことではなくて、ただ無責任にでもいいから愛していく。この世界を憎んでいるのと同じくらい、この世界を壊してしまいたいという感情と同じくらいの質量の愛を。

・「この道はまみのためにつくられたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン

 『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』という歌集は、穂村弘(ほむほむ)に手紙を送り続ける少女「まみ」が詠んだ歌だから、とにかくきらきらしていて美しくて、だけど暗くて深いみずうみのようであって、墜ちていく一つの星のきらめきのようだって思う。
 だけど、「まみ」という少女は「まみ」という存在そのものであると同時に、「穂村弘」という「かみさま」によって作られた女の子(女の子なんてすべて作られたもので、ぜんぶぜんぶフィクション)だから、神様がパチンと指を鳴らすだけで消えてしまう、終わってしまう。
 そして、「まみ」は「かみさま」という造物主(あるいは穂村弘)によって自分が消されてしまうのならそれをきっと受け入れるし、むしろそうやって自分が消されてしまうこと、終わってしまうことを欲望していて。
 いつだって消えてしまう、そしてときには終わってしまうことを願う「まみ」は儚い存在であり、言葉というフィクションの隙間から立ち上がってくる幻想の束であって、でも、生々しい質感がそこにはあるから、いつの日か、私たちはまた生まれ変わってあの夏のウエイトレスとして巡り合う。


 

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