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世にはばかると憎まれる

座右の銘とか、好きな言葉があまりない。ないというより聞かれてすぐに出てこないといった方が正しいか。そんな話をふられるとむしろ、15年以上前の恥ずかしエピソードが引っ張り出される。コンビニのバイトへ面接に行ったら、「座右の銘は?」と聞かれて、慌てて思いがけず安直に「一期一会です」と言ったこと…。「いい言葉ですね」と言われてすんなり落ちた。別の日に受けていた友人は採用されたが、そんなことは聞かれなかったらしい。確か高校三年か大学一年だったと思うんだけど、今改めて考えて、その歳で座右の銘をすらすら言える人間はなんか好きじゃないな。歳は関係ないか、でも当時の同世代はだいたいみんな同じ経験値だったろう。

今「座右の銘を決めろ」と言われたとして、それでも持たないんじゃないかな。以前に書いたが、最近「好みに合わせる」というウェブサービスが多すぎて気に入らなくて。便利なのは分かるけど、そこでインプットされるものまで固定化すると、大げさに言うと変化しなくなるからだ。だから、言葉にしても、ひとつのものにこだわりたくない。軸は大切だが、徐々に徐々に位置がずれていくものであってほしい。ただ過去に、胸に響いた言葉はやはりある。

憎まれてなんぼじゃいと思えた言葉

冒頭の「世にはばかると憎まれる」という言葉、分かると思うけど「憎まれっ子世にはばかる」の逆ってことだ。いきなりなんだが、自分はそこそこ憎まれると思ってる。とくに会ったこともない人からだ。それはほとんど想像に支えられていると思うので、それで憎まれるといっていいのか分からんが。

ベトナムに限ったことではないと知ったが、どこかの国について情報発信していると「叩かれる」みたい。ネット掲示板で書かれるくらいなら実害はないが、狭いコミュニティだとそれを見る人も多いものだから、「叩かれたくないからあいつとは距離を置こう」って人もたくさん出てくる。まさに学校のいじめだな。そんな人は最初から友人ですらなかったとして、書いてることが気に入らなければてめぇが書けよって毎回思うが、それができないからそうなんだ。そんなこともほぼ過去となった、というより疲れてどうでもよくなった。が、当時はかなり苦しんでいて、そこでこの言葉に救われたのです。

憎まれっ子が世にはばかるなら、世にはばかると憎まれるということ。だからもうこれは自然の摂理、憎まれる?上等だよ!はばかってる証だよ!という思いで盛大にやる。それからいくらか気が楽になった。なお言葉の主は、富豪富豪夢路さんという、プロレスラーで、ボビナムというベトナムの伝統武術を日本に伝える伝道師。またの名を、マスター・フゴ。詳しくは。お元気ですか。私は元気です。

逃げるくらいなら潰し合う方がマシ

この言葉を思い出すと元気が出てくる。最近「逃げの前置きをやめる」ということを意識的に行っていて、憎まれたらそれでいい、誤解があれば謝ればいい、衝突を恐れるのではなくそれなら潰しあえばいい。という、喧嘩腰な気持ちがふつふつと湧いてきている。今のところ相手もいないのに肩で風を切っている。それが書くものつくるものに影響しているようだ。そんな状況と、以前かけてもらったこの言葉がリンクして、ふと思い出したのかもしれない。

ぜんぶうまい棒につぎこみます