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ファミレス経営について

 ファミレスを経営しようと思った。映画を観たのだ。ファミレスの店長の男がなにやら雰囲気の良い世界を漂っていた。これだ、と思った。

「ねえ」と僕が話しかけると、早希は少し間を空けて返事をした。
「ん」
「ファミレスを経営しようと思うんだ」
「ん」

 早希はリビングのソファに寝そべって、低反発のクッションに身を委ねながら、手元のスマートフォンをしきりに眺めていた。ん、の先の返答はない。

「聞いてる?」
「ん」
「ファミレスの経営」
「いいじゃない」
「そう?」
「ん」

 それで会話は途切れてしまう。そもそも会話ですらないのかもしれない。僕はふうと息を吐いて、ソファに身を沈めたまま天井を見上げた。こじんまりとしたリビングの天井には、白いビニールクロスの表面の細かなエンボス以外に見るものはない。照明の明かりが象形文字みたいな微かな凹凸の陰影を浮かび上がらせている。文字みたいだけれど読めるわけでもない。

 ぼんやりしていると、テレビから漏れるガヤガヤとしたバラエティ番組の音声が乾いた空調の音みたいに部屋の中を空回った。僕はテレビ番組をあまり見ない。早希もさほど見ない。僕はテレビ番組よりもぼんやりすることが好きで、早希もテレビ番組よりはスマートフォンの方が生活にフィットしている。けれどテレビは空回り続けている。

「テレビ、見てる?」と僕は聞く。
「聞いてる」と早希は答える。
「ほんと? ずっとスマホ見てるじゃない」
「スマホ見ながら聞いてる」
「それって頭に内容入ってくる?」
「別に内容を頭に入れたいわけじゃないから」
「消してもいい?」
「だから聞いてるって」
「ファミレス経営」
「ん」

 会話は途切れてしまう。ファミレスの経営というのは会話の種になりづらいのかもしれない。テレビが空回る。僕はまたぼんやりとする。ぼんやりとして、象形文字を見て、それからふとした勢いで口を開いた。

「映画、観たんだよ」
「映画?」
「うん」
「いつ?」
「昨日。雄也の家で」
「そうなんだ。なんてやつ?」
「タイトルは忘れた」
「そっか」
「うん」
「面白いの?」
「うん、面白かったよ。良い雰囲気だった」
「そうなんだ」
「うん」

 視線の端のテレビモニターの中では、色とりどりの人々がこの世界のたくさんの楽しみ方を伝えていた。僕と早希もまた、この世界の楽しみ方を僕らなりに試みている。ソファに寝そべったり沈んだり、ぼんやりしたりスマートフォンを見たり、たまに姿勢を変えたりする。思いつきの会話がすぐに途切れることだってある。天井の象形文字を眺めたりもする。なんだか読める気もしてくる。それは単純な単語の羅列なのだ。日常。淡々。黙々。楽しみ。楽。安心。不安定。安定。単純な単語。

「夕飯、ファミレス行こうよ」と早希。
「え、ファミレス? なんで」と僕。
「経営したいんでしょ? 研究しなきゃ」

 早希は相変わらずソファの上に転がりながらスマートフォンを眺めている。僕はもう象形文字を眺めてはいない。

「うん、ファミレスいいね、行こう」
「よし、じゃあ」と早希は体を起こして伸びをする。「善は急げだ、出発準備」
「ちょうどお腹も空いてる」
「いいね。私もちょうど調べ物が終わった」
「何調べてたの?」
「居抜き物件」
「物件? なんかするの?」
「え、だからファミレス経営するんでしょ?」

 早希はおもむろに立ち上がり、パタパタとフローリングを鳴らしながら寝室に消え、ごそごそと着替えを始めた。僕も着替えようと体を起こすと、寝室から早希の声がする。

「楽しそう、ファミレス経営。よくわからないけど」

 僕は少し考えてから答える。

「うん、楽しそう。映画も面白かったんだ」
「私も昨日、映画観たんだよね」
「え、なんてやつ?」

 僕が寝室に入ると、早希は着替えを終えて簡単なメイクに取り掛かっていた。

「タイトルは忘れた」と早希。
「ふうん」と僕。
「良い雰囲気だったよ」
「そうなんだ」
「うん」

 それから僕らはファミレスへ行って、夕飯を食べながらファミレスの研究をした。たまに店員が妙な顔をした。

(2021.5.9)

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