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集まる訳を忘れた

さっきまでお茶が入っていた湯飲み茶碗にその名の通りお湯を入れて飲んでいた。

日記を書いたり、手紙を書いたり、音楽を流していたら、お湯はすっかり冷め切っていて、口当たりのいい水となって私に提供された。

さて最後に日記を投稿してからどれだけ経っただろう。
もう書かないと思っていたので、どうでもいい中身であることは間違いない。

端的に纏めるならば、私は日本に戻っており、また山村から街中へ出ていく。

頭がもう重く、気持ちは全く清々しくなく、こんな気持ちで行けるんだろうかと今でも疑問に思う。

今日は最後の山の中で過ごせる日であったので、犬と共に山へ登ってみた。空気は冷たかったが、思い切り登ったので汗をかいた。マスクを外すと空気は木と土のにおいであふれており、犬は嫌がった。野生動物のにおいだったかもしれない。

日本に帰ってきたとき、どこを歩いても懐かしさは感じなかったが、山に登ったら、懐かしいというのだろうか、脳の遠くに保管されていた記憶が掘り出されて、すーっと血管を流れていったような気がした。

そして明日は街中へ行ってしまうのだ。

他人事のようにどうでもいい。そこに人が集まっていて、それぞれが訳をもって生きている、と推測する。

そういえばテレビはつまらなくなったという声を聞くが、テレビに限ったことではないと思う。雑誌も、動画も、SNSも、そこに独自の輝きがあると感じられない。

集まっていることには変わりない。テレビにも、雑誌にも、動画にも、SNSにも、人は集まっていて、生活の一部として、丸で都市のように、来ては去って、夜が明けたらまたやってくる。

そこに訳があったような気がするが、私には思い出せない。

思い出せないのに集まっている。エネルギーを持った集まりは、どこか昔の記憶の中にあるようで、どうやっても手が届かないところにあるようだ。

この集まりに意識を生み出すとしたら、日本はどう変わるのだろうか。

犬の嫌がるようなにおいが、そこにあるはずなのだ。

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サポン!で世の中を変えることは難しそうです。しかしやってみる価値にかけてみたいと思います。