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日常の狭間にフィクションを

私たちはいつも絶え間ない日常という現実を生き抜いている。生きていればいいことだけではなく、辛いこと、悲しいこと、負の感情に浸かってしまうことなんていくらでもある。そんなときに少しだけ現実から逃げ場を与えてくれるのが映画などの映像作品、音楽、お笑い、舞台、小説などのフィクションである。今回はそれら作品のことをフィクションと呼ぶことにする。これらはすべて実在しない。その話の中では存在しているけれど、日常の中でそのキャラクターたちが私たちと同じように動いて、笑って、泣いているわけではない。少し寂しいような気もするけれど、それがかえって私たちにとっては大事なことであるように思う。なぜなら、この世界に存在しないということは、永遠であるということだからだ。この世にあるものはすべて諸行無常、いつか終わりが来るけれど、フィクションはそういった終わりの概念さえない。たとえ物語が終わっても、また冒頭から読み始めると、何回も再生する。たとえ物語を記した本が消えてしまっても、そのフィクション自体が消えてしまったことにはならない。もともとから存在しないのだから、消えることはない。私は、そのことがすごく心強いのだ。私の好きなフィクションはずっと形を変えずにそこに残っている。再生すれば何度でもそこにいる。作りものだからと言って寂しくはならない。実在して消えてしまうより、実在しないから消える事すらない方が、私にとっては頼もしくて好都合なのだ。

また、フィクションであるということで、気負わなくてもいいのがいい。例えば現実にいる身の回りの人の不幸話は、聞いていると申し訳なくなる。たいして辛い思いをしていない自分が、こんなにのうのうと生きていて大丈夫なのだろうか、とか。反対に、身の回りに幸せそうな人がいると、羨んでしまう。どうして私はいつまでもこうなんだろう、とか。実在するエピソードは、どうしても自分の状況と比較してしまうのだ。しかし、フィクションであると、そういった心配はない。フィクションの中の登場人物が不幸であろうが幸せであろうが、実在しないので申し訳なくなったり、引け目を感じたりしなくてよい。思う存分主人公たちに感情移入できる。つまり、フィクションの中では、「自分」が登場しないのだ。現実の中では、常に自分が主役で、「自分 対 他人」の中で過ごしていかなくてはならないが、フィクションの中では「存在しないキャラクターたち」を、安全な場所から感情移入したり、時にもっとこうするべきだと念じたり、好きに視点を変えられる。主人公に感情移入するか、別の人物に感情移入するか、はたまた誰にも感情移入しないか。私たちはフィクションの中での「現実」で自由に動き回れるのだ。それは、現実の中ではありえないことで、だからこそフィクションを欲するのかもじれない。

現実の連続の中に少しの非現実を投下することによって、私たちは常に向き合っている現実から少しの間逃げることが出来る。一番手ごろで安全な現実逃避。今思えば、私は現実がつらい時ほどよく本を読んでいた。日常がどれほど辛くても、フィクションは必ずそこにいて、本を開けば、映像を再生すれば、私たちを少しの間現実から引きはがしてくれる。私たちは現実から逃げる時間が必要だし、それくらいでは誰も私たちを責めるようなことはしない。日常の狭間にフィクションを取り入れることによって、私たちは何とか日常を何食わぬ顔で生きていけるのだろうと思う。

(写真はフリー素材のやつです)

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