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絵描きは繊細だと思う。

稀に疼く表現したい気持ち。
どうも、ねこぜです。

今日はやっと念願の、フェチフェスという名のつくイベントに出展させて頂きました。私はエロ界隈、緊縛界隈で生きている人間なので、フェチフェスはひとつの憧れ、ひとつの目標だったのです。

初の試みであるR15でしたが、当選することが出来、そして無事に出展を終え、とても清々しい気持ちになりました。

お客様とお話していてひとつ驚いたのは、私が「縄会を主催しています」という話をしたところ
「あの、わたし、はじめきのこさんというかたを知っているのですが、その方はいらっしゃいますか?」と訊ねられたこと。

もしかしたら、緊縛というものに触れたばかりのかただったのかもしれません。緊縛というものはプロしかいない、という概念だったのかも。もう少し、詳しく説明すれば良かったです。

まぁ、kinokoさんのような大御所が私の縄会に来るわけはなく、私の知り合いやご紹介の皆様で和気藹々とやっている、まったりしたイベントですのでもし宜しければ是非遊びにいらしてください。因みに要予約。DMお待ちしております。(Twitter:nekoze_444)

宣伝はサラッとして。

絵を描くのが好きな人は、繊細で思慮深い人だと私は常日頃思っています。表現をし続けなければ生きていけない人は、人生に対する感情のフィルターが豊かな人だと私は思っています。

思う事が溢れて、いても立っても居られないわけです。事務仕事や左脳のプロジェクトを、冷静に処理できないのです。だから、絵や写真や身体や声や、物語で表現するのです。

感情を解放しないと。
伝えたい、共に考えたい、共感して欲しい、そんな淋しがりのような、とても人間らしい、少し怒っていて、少し悲しんでいて、そして、すこし優しい。思考をただ垂れ流すだけでは上手くキャッチしてもらえませんから、相手を想い、相手の取りやすい形のボールと軌道で、投げる。

そんなことを久し振りしたいなと思ったわけです。

さて、どんな仕上がりになるでしょうか。

こんな気持ちになったきっかけは三つあって、ひとつは、緊縛好きの集まる緊縛ショーを日曜日に観たこと、ふたつめは、直近で色々な感情をキャッチしたこと、みっつめは、公的な自分以外の自分にしっかり向き合えていないなと気が付いたこと。

特に最後のは、もやもやっとしたストレスのような、いくら手で振り払っても取れないような蜘蛛の巣のように私の周りにまとわりついていたのですが、今日ふと言葉にしてみたところ、これだ、と膝打ちするに至りました。(言葉あってる?)

常に受容体の公的な自分が、他人に対して受け止めて欲しいという欲を覚えるようになったのです。

私がどうあっても、そのままを受け止めて欲しいと。

写真が一番、わかりやすいと思いました。なので、知り合いのカメラマンさんにすぐに連絡しました。

今から、撮るのが楽しみです。

安定感のない、感情的で、攻撃的で、きっと誰も見た事のないような自分にしたい。

そんな深い夜。

ねこぜ

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