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愛玩種 最終話

 ムロたちの淀みに打たれたトマの群れは吠え声を上げその身を大地に打ち付けた。ごおん、ごおんと地が揺れる。水が柱のようになって打ちあがり、しかし巨大なトマたちは呑み込まれることはなかった。次々と起き上がり一様にイオを見る。その口からは水が垂れ、鼻からは煙のような霧が漏れていた。すでにムロのおもかげもなく、獣でもない。
「無駄なこと」
 向かってくるトマにイオはふたたび淀みの言葉を放つ。
「滅びろ」
 幾重にも重なった言葉はトマの皮膚を切る。噴き出すものは血ではない。泥を吐き出しながらトマたちは水に落ち、また立ち上がりそして倒れる。幾度目かの淀みを受け、ついに起き上がることが叶わなくなった。腕も脚も失くしそれでもイオを目指し這うトマへ、最後の淀みが放たれた。
「死せよ」
 トマの目が落ちる。泥の塊となったそれは言葉とは呼べない声を上げ、水に溶け去った。だが一度乱された水の流れはもう、元には戻らない。ごうごうとした流れの音へと語りかける力も、イオには残っていなかった。頭髪はうごめきを止めびしゃりと肌にかかり、土の色をした水の中へ崩れ落ちる。他のムロたちは、カタたちはどのようにしているか。いまだ口から煙となって漏れ出る淀みを吐きながら、イオは胸元にカポがいないことに気付いた。
「カポ……わがカポ」
 名を呼んだとき、喉の奥から淀みがこみ上げた。腹を抑えて吐いたものは視界を染める涙と同じ色をしていた。もう持つまい。ここまでである。それなら尚のこと、カポをこの胸にいだかなければ。きっと泣いている。イオは流れる泥の中を這い進む。そのなかでムロの亡骸にいくつか出会った。その数は次第に増してゆく。
 ――ムロよ。淀みのムロよ。
 呼ばれ、見上げた宙にはいくつもの玉が浮いていた。
 ――体を捨て、上りなさい。淀みのムロよ。
 宙から聞こえるその声に、イオは答える。そのとき、アシのように笑ったかもしれない。
「わが名はイオである。わが子カポから受けた名だ」
 そしてまた淀みを吐く。獣のような息づかいだった。われもトマになってしまうのか。これまでにおぼえたことのない感情が、はらわたの中で動いては口から出る。
「おまえはなにであるか」
 これよりわれを留めるなら、死せるよりほかあるまい。宙をにらむ。
 ――われらは天である。淀みのムロよ、おまえたちの母なるものです。
 ムロがカタを生み出したように、ムロもまた天なるものにより生み出されたのだとそれは言った。淀みのムロ、我が子よ。その体を捨てここへ帰っておいで。天なるものはイオを呼ぶ。見れば流れるムロの亡骸から、ひとつまたひとつと光の玉が宙へと上がってゆく。やがてそれらは大きなひとつの輝きとなった。軽やかな笑い声が聞こえる。宙の黒さを晴らし、降り注ぐ雨を静めてゆく。
 ――さあ、帰っておいで淀みのムロ。我が胸へ。
 穏やかな光と声に、イオの内側が引き寄せられる。
「天なるものよ、それならばわが子カポも、ともに」
 その安らかなる胸の在り処へ、青い玉もともに……手を伸ばす。しかし天なるものは言った。それはできません。カタも草も水も獣も、この地にあって同じもの。ムロが生んだ青い玉は、天には受け入れられぬもの――イオは手を下ろした。そしてまた笑む。アシの笑みとも、喜びとも違う心が笑ったのだった。
「ならば天なるものよ、われは天の子ではない」
 体を引きずり水を進む。しだいに泥の色は薄くなり、辿り着いた大岩の下に広がる海は、これまでと変わらない青い色をしていた。イオは呼ぶ。海の色よ、わが子カポのもとへわれを運べ。
「われはムロではない。イオである。わが子カポとともにあり、この地に生きた命のひとつ」
 海の水に足先を入れる。途端、衣がするりと脱げ落ちた。望んだとおりにイオの体はムロの姿を捨て、カタのような小さなものへと変わった。小さなイオはみるみる海に呑み込まれ沈んでゆく。その先で、青い玉に出会った。それを手に取り胸に抱けば、カポとの暮らしが流れ込んでくる。イオは笑った。喜びのままに。

 こうして、すべてのムロはこの地を去りました。それから再び地上に人類が誕生するのはもっとずっと先のことですが、天なるものがもう一度生命を生み出したのか、それともカタの生き残りがいたのか、そして新たな人類はどんな姿であったのか、それは誰にも分りません。
「けれど、今こうして私にこのお話をお伝えくださったことにはきっと意味が――」
 彼女が話を締めくくろうとしたとき、異音が響いた。社務所に集まった氏子のうち一人が声を上げる。「地震だ!」地鳴りが大きくなったかと思えば一瞬で下から突き上げられる。床がミシミシと音を立て、巫女と氏子らを分断するように突き破ってきたのは木の幹だった。次いであちこちから生える植物が意思をもったように室内を荒らしまわり、大揺れの中悲鳴が飛び交う。
「なんなの!」「地震なの?」
「おかあさん、おかあさん!」
「やよい!」
 木々をかき分け宮司が巫女を呼んだ。
「逃げえ! やよい、逃げえ!」
 彼女は父を見てほほ笑んだ。もう遅い。
 胸の合わせから、首にかけた勾玉を出してそっと抱き、彼女は周囲の植物と語らった。
「……そう、そうですか。だから私にあの記憶を」
 やよい! 父の声がどんどん遮られてゆく。茂みをかき分けそれでも娘に手を伸ばす父に、彼女は告げた。おとうはん、私思い出しました。
「神様は、人によく似たお姿をしておられましたわ」
「やよい!」
 伸び続ける木の根に押し上げられるままに彼女は天井を抜け、外へ出る。
「いたた……ああ、大変やわ」
 街ははびこる植物によって破壊され、美しい京の見る影もない。いいや美しい、と巫女は呟いた。
「かんにんえ……人間はまた、駄目でしたなあ」
 目を閉じ、体を倒す。
 二〇二九年七月、文明はほぼ壊滅した。


      短編集「終末考」②愛玩種  完


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現代・超古代・未来の視点でえがく人類滅亡三部作。
三つの物語は繋がっているので、ぜひ三作ともご覧ください。

短篇集「終末考」①特異点 ②愛玩種 ③Z地区


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