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銀河鉄道の夜 生命

つづき
前回は、カムパネルラが居なくなったところまででした。
ジョバンニは気が付くと、元の黒い丘にいました。知らぬ間に寝てしまい、目が覚めます。
夕飯を食べずに待っているお母さんの為に、もう一度牛乳を取りに行きます。今度は丁寧に対応されて、無事に牛乳を受け取ります。しかも、採れたてなのかまだ温かい。
家に帰る途中に、川に掛かった橋のたもとに人だかりがあり、カムパネルラが川に落ちたと知らされます。

川に落ちたザネリを助けようとして川に入り、そのまま戻ってこない。
カムパネルラのお父さんが時計を見て

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

P261、後ろから3行目

この時、ジョバンニのお父さんはもうすぐ帰ってくると、カムパネルラのお父さんから聞く。
お母さんに採れたての牛乳と、父の帰りを知らせに家に帰って行くところで終わります。


地上と銀河の相似

銀河の出来事は、ジョバンニの夢の中の出来事でした。
なので、当然ながらジョバンニの内面世界でもあります。

ジョバンニのお父さんが学校に寄贈したのはカニの甲羅やトナカイの角の標本。
プリオシン海岸での化石や、鳥捕りの捕った鳥を「標本にするのですか」と問う

カムパネルラの家にはアルコールランプで走る汽車がある。
銀河鉄道は、石炭ではなく、アルコールか電気で走っている。

時計屋には黒曜石でできた星座早見がある。
カムパネルラが持っている地図は、星座早見盤である。

丘で見た軽便鉄道には、林檎を分け合う家族が。
灯台看守が林檎を分けてくれる

この様に、地上での体験や経験、見たり聞いたりした事が、銀河の旅を彩ります。銀河は地上世界の写し鏡のようでもあり、言って見れば、銀河は地上の影です。
影と言えば、ジョバンニが町へ出かける時、途中の坂道で影法師と一人遊びをします。それには、自分を汽車に見立てて、青白く光る街燈を過ぎるにつれ、影が自分を追い越すという描写があります。
銀河の旅は最低でも4時間の時間経過がありますが、地上では45分しか経っていません。
この事は、影である銀河の旅が、地上を追い越した事に対応しています。
時間は相対的なもの、特殊相対性理論のようですね。

天の川とは何か

ちちの流れた跡と言われている天の川とは、いったい何でしょうか。
これは、生命の源だという解釈は、前にも書きました。

銀河鉄道は、死者を天上へ運ぶ列車です。死者である沈没船の三人も、カムパネルラも最終的には汽車を降りていきます。
カムパネルラは車窓にお母さんを見つけて、ここが本当の天上だと言って降ります。
カムパネルラのお母さんは死んでいないはずなのにどうして?と初めて読んだ時は思いました。
カムパネルラが見たと言っている「お母さん」とは生命の源である銀河そのものだったのでしょう。つまりは「生命の母」という事だと思います。
だから天の川は「ちちの流れた跡」なのです。

降りる場所が違うのは何故か

沈没船の三人は、サウザンクロスで降りますが、カムパネルラはそのあと、石炭袋のあたりで降ります。
降りる場所が違うのは、信仰の対象の違いという事になります。
銀河鉄道は、銀河の中心へ向かっていますので、降りる場所が後になればなるほど、中心に近いという事になります。法華経を信奉している賢治にとっては、サウザンクロスよりも中心に近い場所を描くのはある意味で当然と言えますね。ただ、優劣や高低浅深で差をつける意図はないでしょう。

僕たちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけない

ジョバンニが言ったこの天上よりもいいとこという言葉が最も印象に残りました。
「皆の幸せの為なら、僕の身体なんか100偏焼いても構わない」「僕たちしっかりやろうね」
とカムパネルラと約束しあいますが、本当の幸いとは何かについては、終始分からないとしています。けれども死んだあとどこへ行くのかよりも
生きているこの世界をいいところにするという思想は見えてきます。
死んだあとは、銀河の中心へ帰ることが決まっているから怖がらなてもいい。

南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

雨ニモマケズ

因果の因

さて、そもそもこの銀河の旅はどこから始まったのか。何が原因だったのかを考えて見ると。牛乳が届かなかったので、病気のお母さんの為に牛乳を取りに行くことが因となっています。
そのあと、川に向かう十字路の付近で、クラスメイトに出くわし、お父さんを馬鹿にしたような言葉を投げかけられ、酷く傷ついた事で黒い丘に向かって走り出し、天気輪の柱に辿り着きます。こうして銀河鉄道に乗る事になります。

機縁

銀河鉄道で出会った人々との縁に触れ、ジョバンニの中に元々あったものが表出し、やがて僕たちしっかりやろうねという決意が芽生えます。
地上世界の喜びや苦しみも全て、自身を成長させてくれる縁です。
仕事で父が不在である事によって、その分「しっかりしなければ」という自覚が芽生え、ジョバンニを成長させてくれます。

良医病子の譬え
優秀な薬学にも明るい名医がいて、その名医が留守の間、子供たちが毒を飲んでしまう。帰ってきた名医は驚き、それぞれに合った薬を調合し、子供たちに与える。薬を飲んだ子供は治ったが、毒が回って酷い子は正気を失い、その薬ですら毒だと思い込み飲もうとしない。
そこで名医は、やらなければならない事があると言って、薬を飲んでおくようにと言い残して出かけてしまう。そして、出先から「父は死んだ」と嘘の手紙を出し、薬を飲まない子供たちは、その手紙を見て嘆き悲しみ、正気を取り戻して薬を飲んだ。

因果の果

では、様々な縁に触れて、ジョバンニが得たものは何だったのでしょうか。
それは、大いなる生命と自分は一体であるという生命観です。
肉体はいずれ朽ち果てる有限なものです。死者は銀河鉄道に乗って、銀河の中心へ帰り、宇宙に溶け込んで大いなる生命と一体となる事を知ったのです。
いえ、正確に言えば、これはジョバンニの夢の中の出来事なので、元から知っていた。つまりは思い出したのです。
この世のあらゆる生命が、宇宙の法則にしたがって存在し、永遠に大いなる一つの生命に繋がっていく大調和を夢の中の体験で得たという事ですね。

終わりに

銀河鉄道の夜は、何度か改稿されて(書き換えられて)最終稿となっているものが出版されていますが。そもそも死後発見された原稿であり、生きていれば更に改稿されて仕上げられていた可能性もある事から、未完成とされています。
未完であるが故に、不完全と思えるような箇所があったりするので、解釈の余地が広がり、研究の対象となっていますので、研究論文を見ていくだけでも興味深いものがあります。
例えば、ジョバンニとカムパネルラという名前だけでも、調べていくと深みに嵌りそうなくらいです。
名前に留まらず、沢山の考察があり、私の中にも色んな考えがあります。当初はそれらを書いていこうと思いましたが。まとまりそうになかったので止めました。

一連の投稿は、法華経的な視点に絞って、なるべく平易に書いてみようと思ったのですが、やってみるとこれが結構難しいです。
頭の中では、まとまっているようでも、いざ言葉にすると何か違うな となり、結局書こうと思った事の大部分を削ぎ落す羽目になりました。
今の私にはそれを言葉にする力がありません。というか、言葉にすると詩のようなものになりそうで、余計に分からないかもしれませんが(笑)

今の私が法華経に寄せて銀河鉄道の夜を解釈すると、概ね一連の投稿(銀河鉄道シリーズ)のようになろうかと思います。
とは言え、私は宗教学者でもありませんし、お寺の者でもありません。
本当はもっと深いでしょうし、この解釈はあくまでも今の私の境地での解釈です。
法華経は全部で28品あります。前半14品を迹門、後半14品を本門と言い。
迹門より本門。
本門の中でも最も重要なものが16品目の如来寿量品第十六です。
それを更に簡潔に纏めたものが自我偈です。
賢治も如来寿量品第十六を読んで、体が震えるほど感銘したそうです。
それが法華経に帰依する切っ掛けであったと思います。
この如来寿量品第十六の自我偈のみを読み、それを下地にして銀河鉄道の夜を読んでみて下さい。なんとなくモヤモヤしていたものが、かなりスッキリしてきます。

仏さんの言葉のあとに、付け加える事はないので、これにて。

と思いつつ、でも本当はみんな仏ですけどね。忘れているだけで。
ジョバンニのように思い出せばいいだけです。


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