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1時間10000円にもかかわらず。

1時間で10000円。

バイト代だったら嬉しいが、それが一回の授業料だとしたら。そんな高額の塾で、過去に私は働いていた。

上は浪人生から、下は御三家狙いの幼稚園児まで。生徒の幅は非常に広く、あらゆる教科を扱う塾。

その塾で毎週火曜日の18時10分から行われる、とある授業。私はこの授業が、いつも憂鬱だった。

隣のブースでは、現役大学生も頭を抱えるような指数関数。東大在学中の先生が、同じく東大が第一志望の生徒に教えている。

大学ではどんな生活なのか、どんな研究室があるのか。実際に通う講師への質問も多く、楽しげな笑い声がいつも隣から聞こえてきた。

そして逆隣のブースは、色々深刻な中学受験生。毎回確実に30分は遅刻してくる、遅刻常習犯をベテラン講師が迎え撃つ。

パンを食べていたから遅れた』という生徒を、一喝する女性講師。30分も食べ続けられるパンがあれば、逆に見てみたいとかなりのご立腹である。

確かに本気になれば、菓子パンなら10秒で食べられる。30分も食べ続けられるパンは、巨大で強固なフランスパン系に違いない。

しかし生徒の言い訳は二転三転し、最終的には『メガネが割れたから』だと言い始める。すぐに足が付く言い訳を選ぶ当たりは、まだまだ小学生だ。


ただ問題は、この両隣のブースではない。私を毎週憂鬱にさせるのは、この向かいブースの授業である。

それは、60歳の男性講師と幼稚園児の個別授業。いわゆる1対1で行われる、完全つきっきりの授業である。

この授業が、すごく苦手だった。


いや単刀直入に言えば、無茶苦茶嫌いだった。出来れば別のブースに移して欲しいほど、圧倒的に嫌いだった。

登場人物を、詳しくご紹介しよう。60歳の男性と幼稚園児、彼らの特徴を。

まず60歳の男性は、恐らくリストラ組。大変申し訳ないが、お世辞にもやる気がある講師ではない。

そもそも商売柄、幼稚園児を担当させられる時点で結構グッとくる。授業価値に差があるとは言わないが、ぶっちゃけ授業への熱が違う。

そして幼稚園児はいわゆる、長期計画のお受験組。受験まで8年以上も時間がある、御三家狙いの英才教育である。

そのため授業の温度は低く、対受験生のような活気もない。店主がバイトを怒鳴り過ぎて、客足が遠のいたラーメン店みたいだ。

ただそれは、仕方がない。熱くなれない授業があるのは知っている。

人類みな松岡修造ではないし、講師と生徒の年齢差もエグイ。55歳も年が離れていて、会話に共通点があるわけもない。

実際彼らの会話に耳を澄ませると、幼稚園での出来事を聴くくらい。講師が頑張ってムシキングの話を園児に振っていたが、単語を連呼するだけだった。

ムシキング良いよね。ムシキング。


質問にセンスがなさすぎる。良いよねって言われても。

そもそも具体性がない。何が良いのか提示しないと、幼稚園児も返答しようがない。

挙句の果てには、ホワイトボードにクワガタを描き始める。おい、あなたは本当にムシキングをご存じなのか。

これはあまりに園児をバカにしている。対・幼稚園児用の予習を、彼は明らかにさぼっている。

そもそもムシキングとは、森で一番強い王者のカブトムシなんだ。私も小学2年生の生徒を担当していたから、しっかりゲーセンで予習している。

それをあろうことか、園児の興味を引くためにクワガタを描くなんて。もしその子がムシキングを知らなくて、その知識を脳裏に焼き付けたらどうするんだ。

幼稚園でムシキングの話題になって、その子がクワガタを描いたらどうするんだ。あっという間にガチのムシキンガーに囲まれて、いじめられたらどうするんだ。

こいつ、ムシキング知らねえぞ!と。
知らねえのに、知ってるふりしてんぞ!と。

最悪の場合、その園児は昆虫トラウマになるだろう。トンボでもバッタでも、全部クワガタを描いてしまう体質になったらどうするんだ。

案の定、園児もキョトン顔。どうやら幼稚園でムシキング自体が流行っていないようで、なんのこっちゃと頭をかしげている。


ただ私が彼らの授業が苦手なのは、この雰囲気ではない。ただちょっとムシキングとのすれ違いがあっただけで、いわば良くある話である。

問題は、このあとだ。

講師の引き出し能力が低いのか、園児のキャッチ能力が幼いのか、もしくはその両方か。実はこの会話のすれ違いは、いつも必ず訪れる。

そして60歳と園児のブースは、いつも無音に包まれる。熱のこもった周囲の授業とは裏腹に、水を打ったように静まり返る。

確かに60歳と園児の会話が、それほど盛り上がるわけがない。ムシキングトークを引き出そうとした、今日の彼はよく頑張った方だ。

ただ会話が一切なくなると、この講師はいつもの手段に逃げ始める。そしてその行為が、残りの時間、私の目頭を熱くするのだ。

あいうえおの書き取り練習。


会話が成り立たないのなら、勉強させておけばいいじゃない。そんなマリーアントワネット的な発想が、講師の頭をよぎるのだろう。

いつも講師は残り55分間、園児にあいうえおの書き取り練習を行わせる。ただひたすらに、一言も会話を発することなく。

確かに中学受験には、基礎である『あいうえお』は極めて重要だ。小学校に入る前に、是非とも身につけておきたい技術である。

さらに繰り返し練習は、確かに何よりも大切だ。ひたすら『あいうえお』を書き続けた経験、うっすら覚えているような気もする。

そんなことを思いながら私も我に返り、自分の生徒と授業を進める。私の生徒も期末試験前だから、決して予断は許せない時期である。

しかし5分くらいすると、何だか周囲から小さな笑い声が聞こえる。それと同時に、『可愛い~♪』と周囲の女子高生が声を上げる。

おっ!おっ!おっ!おっ!


一瞬何事かと、周囲を見渡す。この謎の発声練習は、一体どこから聞こえてくるのか。

するとそこには、先程の園児と60歳の男性講師が。どうやらその幼稚園児が、一生懸命『』を読みながら書いているようだ。

おっ!おっ!おっ!おっ!

あぁ、なんと可愛らしいのだろう。そうかそうか、一生懸命書いて覚えているのか。

偉いぞ坊主。将来きっと、りっぱな『お』が書けるようになるよ。

えっ!えっ!えっ!えっ!


あぁ、次は『え』を書いているのか!遂に『お』はクリアしたんだな!

えらいえらい!こうやって人はあいうえおを覚えていくのか!

うっ!うっ!うっ!うっ!


さらに『う』まで!何て驚異的な吸収力だ!

でも先ほどから、なぜ逆走しているのだろう。『お』から覚えていくなんて、普通逆じゃないかな。

いっ!いっ!いっ!いっ!


あまりに不思議に感じ、思わずブースを覗き込む。するとそこには、一心不乱に殴り書きをする園児の姿があった。

その鬼の形相は、まるで『あいうえお』そのものである。ちょっと意味が分からないが、あいうえおを書く気迫に満ち満ちている表情だ。

どうやら文字を押せば音声が流れる教材らしく、専用のペンで一生懸命文字を押している。『ウ(デジタル音)』『うっ!!(園児)』『イ(デジタル音)』『いっ!!(園児)』という感じで、なんとも素直に学んでいる。


しかしなぜ、『お』から逆走しているのだろう。きちんと『あ』から覚えないと、あいうえおの正しい順番が覚えられないじゃないか。

そう不思議に思って、ふと60歳の講師の方を見る。するとそこには、完全にスイッチが切れた初老男性がたたずんでいた。

こんな感じ。今でも鮮明に覚えている、こんな感じ。

かなりお疲れのご様子で、さっきまで飲んでいたのかと疑うほど顔が赤い。どうやら部屋の暖房が暑すぎるらしく、ボー然&フラフラの様子だ。

思わず大丈夫ですか?と訪ねると、『あぁ、大丈夫だ』と力なく返答する。どうみても大丈夫ではないが、自己申告では大丈夫らしい。

しかしその目には、園児を見守る慈愛はない。そして間違いなく、ちょっと寝ている

この段階で、ちょっとイラっときた。

生徒が授業中に寝るのは、まあ分かる。良いとは言わないけれど、子供なら仕方がないという部分もある。

ただこれが講師となると、話は別だ。お金を頂いて授業中に寝るなんて、私が両親なら投石する。

だって1時間10000円だぞ。


正直、私の塾はかなりの高額だったと思う。一対一の授業だったこともあり、集団塾とは比較にならない値段設定ではないだろうか。

もちろん超エリート塾ならば、この金額は当然なのだろう。しかしぶっちゃけそこまでハイレベルな塾ではなく、結構エグイ価格設定だ。

授業は1時間10000円、そして生徒は一生懸命。さらにどこから覚えれば良いか分からない生徒が、『あ』からじゃなくて『お』から学んでいる。

これはない。文句の一つも言いたくなる。

こんな幼い子が、こんなに必死に『あいうえお』を学んでいるのに。貴様はなぜ、ホワイトボード冷たくて気持ちいいみたいな姿勢なんだ。

この顔だ。この『冷たくて気持ちいい』表情が許せない。

もはや我慢も限界だが、しかし相手は60歳の先輩講師。上下関係の厳しい塾業界で、彼を注意するには確固たる証拠が必要だ。

彼が授業を放棄し、時間を潰しているだけという証拠を。個別指導にもかかわらず、生徒が講師から指導を受けていない現物証拠が必要なのだ。

あいうえおを『お』から書き始めたのは、証拠にはならない。現行犯で逮捕しなければ、この男は何度も授業放置を繰り返す。

そう思いながら、彼のブースをじっと睨むように調べ尽くす。私自身も、自分の生徒にひたすら問題を解かせながら。


しかし、その証拠がどこにもない。彼がさぼっている証拠が見つからなければ、塾長にチクることもできやしない。

その間にも幼稚園児は『うっ!うっ!うっ!』と、ひらがなをひたすら書き続ける。そしてそんなことはお構いなしで、講師は再度眠りにつく。

しかも少しの物音がしただけでも、この容疑者はガバッと目を覚ます。そして何事もなかったかのように、再度ホワイトボードにもたれかかる。

さらにブースの入り口の角度的に、ド新人の私にしか見えていないことを確信している。この男、どうやら初犯ではないようだ。

くやしい。ウルトラ悔しい。

もう絶対に、こいつのしっぽを掴んでやる。そしてこの男の悪行を、ムシキングに成敗してもらおう。

しかしない。どこにもない。

探せども探せども、授業放棄の証拠がない。当時塾には防犯カメラもなく、彼の所業を暴くための電子記録は存在しない。

あっ!あっ!あっ!あっ!

そんなことをしている間に、遂に園児が『あ』に突入した。『お』から書き始めたとしたならば、これはまさにゴールの文字である。

もしこの文字を書き終えたら、きっと講師は目を覚ますだろう。そして見てもいないくせに、良く書けたねぇ!とか言い始めるんだ。

結局これが、この講師の日常なのだ。『幼稚園児の授業は、寝ても良い』そんな彼の長年のルールが適用されているのだ。


私の負けである。完全犯罪とは、まさにこのこと。

これほど狡猾な男を、私は見たことがない。この教訓を糧にして、私は素晴らしい講師になろう。

そんな敗北感に包まれながら、ふと彼らのブースを見る。するとどうやら60歳の講師はトイレに行ったらしく、部屋には幼稚園児だけだった。

私は思わずそのブースに飛び込み、園児の書き取りノートを手に取った。よく頑張ってたねぇ!と、彼の頭を撫でながら。

するとそこには、私の想像を超える文字が描かれていた。まさにそれは、60歳の講師が指導をさぼっていた確固たる証拠だった。

おえうい

ぬ!!


『あ』って言いながら、『ぬ』!!! 誰も間違いを指摘してくれないから、『ぬ』!!!


私はすぐに、塾長にチクった。
その講師は、びっくりするほど怒られていた。

おわり

うっ…サポートを頂いたら即日飲み代に使ってしまう病が…