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ヒト化。

 ねこっちです。私はこのnoteを、「充実と思考の記録」として用いています。今日はそのうちの「思考」の記録です。

 今でこそ心の平穏を取り戻しつつああり、以前のように精神不安定ではない私ですが、以前は大波に時化る(しける)海のような、不安定な心でいました。一日に何度も自分を傷つけ、落ち込んで堂々巡りの考え事をしては3,4時間を無駄にしてしまう、というような日ばかりでした。

 このとき、何を思い、何を考えていたのか。今日はその一つである「ヒト化」という悩みについてお話していこうと思います。

表現することが好きな私

 子どものころから私は、自分なりの好きなことがあり、絵を描く時も、工作をする時も、勉強をする時もその中で自分を表現していました。私にとって、自分を表現することは最高の楽しみであり、それは今も同じです。今でも、私の自室(家族間での通称「研究室」)の押し入れの中には、当時ボール紙で作ったカラフルな蛾や蝶のフィギュア、および当時はまっていたマリオやルイージの自作フィギュアが転がっています。

 私は、自分を表現することが大好きなのです。

 大胆に言えば、私は、自分を表現することに自分の生きる意味を見出しています。私にとって、この「自分の表現」が止まってしまう時というのが、私が死ぬ時なのだと思います。それほど、私は自分を表現したい、し続けたいと思っています。

大人像の変遷

 子どものころの私にとって、大人たちは子どもよりも静的な(おとなしい)印象でした。しかしそれは単に感情をうまくコントロールできているからであり、大人たちも私の知らないところで、思い思いの自己表現をしているのだろう、と思っていました。そのため、私は大人になることに前向きでいることができていました。

 むしろ、大人になるとできる表現が増え、表現の楽しさももっと増えるだろう、と思っていました。まだ「自己表現」という語彙をもっていなかった子どものころの私でしたが、そのことは直観的に感じていました。

 ところがその後、私自身の言語能力が成長し、大人たちの言っていることが理解できるようになると、その大人像は次第に崩れていきました。例えば「金だ!金だ!」と事あるごとに言う伯父は、伯父なりの自己表現の舞台があり、そのうえでそう言っているのではなく、本当にお金のことしか頭にないということが分かってきました。どうやら大人たちは、ただ単に感情をコントロールしておとなしくなっているのではなく、本当に自己表現をできずにいるのだと理解するようになったのです。勿論、全ての大人たちがそうではないことは今は分かっていますが、当時の自分には、大人になると自己表現はできなくなっていくのだという風に映ってしまい、大変なショックでした。

ヒト化の概念

 私にとって、自己表現ができなくなることは非常に恐ろしいことです。大学入学時、上京して自己表現しない大人をたくさん見るようになった私は、自己表現ができなくなった大人たちを怖がり、彼らのことを「ヒト化されている」と言って恐れるようになりました。

 私にとって、生きる意味は自分の表現なのでした。すなわち、「生きる=表現」なのであり、私にとって、表現を失った人は生きていないようにも見えました。その恐ろしく静的な様子を、温かみのない「ヒト」というカタカナで表現しました。(記事冒頭の画像は、そのような「ヒト化」を表す象徴的な画像でした。)

 人には「その人そのものの人格」と、「社会的な人格」の2つがあるように思えます。私がこの時見ていたのは大人の「社会的人格」であり、そもそも私が関わる大人は「その人そのものの人格」を公の場では見せないので、私が大人を表現しない人だと思ってしまったのは、ある意味では仕方のないことなのかもしれません。しかし、当時の私はそのことを非常に恐れ、ヒト化を怖がり、また自分がヒト化されていないかどうかということを過剰に気にするようになってしまいました。

 本来、自己表現というのは生活の中で感じたことを自然に外に出すこと、つまり時が満ちなければ表現はできません。しかし、当時は表現しなくなってしまうことを恐れるあまり、まだ満ちていない時に表現しようとしてしまい、そうして何も生み出せない自分を責めていました。

表現の相対化

 自己表現ができない世界(≒大人社会)があるということを知り、私はそれを「ヒト化」と呼んで怖がりました。このことは、「人は常に自己表現することができるわけではないこと」を知ったという点で、自己表現という概念が相対化されたということでもあります。私は、常に自分を表現することしか知らない世界から外に出てしまったのでした。

 すると、自分の表現が満足にできていたころには気にも留めなかったことが気になるようになりました。例えばその1つは、自分がやっていた物理についてです。

 自分の表現しか知らない境地にいたころは、どんなことを考えても、どんな数式を考えてもそれは自分の表現であり、楽しいことでした。しかし、自己表現が相対化されてからは、「自分はこんな数式でしか自分を表現できないのか?もっとほかの表現方法はないのか?」と迷うようになりました。表現の手段は、絵を描くこと、メロディを奏でること、数式を考えることなど様々にある中で、なぜ自分は数式ばかり使うのか、ということが疑問に思えてきたわけです。

 すると、あることに気づきました。物理学でいう「思考実験」や「数式」のように、実社会で認められる表現のパターンは、ある程度決まっているということです。私は今まで、表現はすべて良いことであり、それは楽しいものだと疑わずにいました。しかし、社会で認められる表現以外の表現(駄文を書くこと、何にもならない絵を描くこと、何の役にも立たない装置を作ること)は、ないものとして扱われてしまうのか?という疑問にぶつかり、表現することに迷いが生じるようになりました。私自身、実は駄文や役立たずの装置作り、何にもならない数学的思考が大の楽しみで、高校生のころなどは1日中そればかりやって遊んでいたこともありました。しかし、大人になると、そうした「役に立たない表現」はしてはいけなくなるものなのか?そう思うと、もう自分は生きていけないのではないかと怖くなってしまいました。

ヒト化=規格化

 そうした視点で周りの大人たちをもう一度見た時、私は深い絶望に襲われました。それは、「役に立つ表現以外認めない」とする社会を前に、大人たちが、彼ら固有の表現力を奪われているように見えたからでした。

 日々、特定のことをし、特定の振る舞いをする大人も、子どものころは自由な発想を持っていたことと思います。しかし、生きていくためには社会が認める表現をしなければいけないので、子どものころの自由な表現は淘汰されていき、生きるために必要な表現だけが残ります。こうして、規格化された考え方、表現をする大人だけが残ります。少なくとも当時の私には、大人がこのように映ってしまい、大変怖かったことを覚えています(2019~2020年)。

 私が恐れていた「ヒト化」というのは、この「規格化」のことなのだと思います。当時、このような「規格化」された社会の中でも自己表現できるのが一部の天才だと思っていたため、私は自分の生きる救いを天才であることに求めざるを得なくなりました。こうして私は「天才になれなければ自分は終わりだ」と考えるようになってしまい、いつも「天才ではない自分」を限りなく責め続けていました。

大人像の再変遷

 しかし、その後私は徐々に自分の中で考えが変わるようになりました。私は、上記の考えの欠陥に気づくようになったのです。

 例えば、「役に立つ表現以外認めない」ということ、これは本当にそうでしょうか。確かに、自分の実績や業績になるものはそうでしょうが、普段の自分の表現までそうである必要はどこにもありません。つまり、駄文を書いたり、変な絵を描いたりしてもすべてOKなのです。

 生きていくための表現は「社会的人格」に任せておき、「その人そのものの人格」の時は、思う存分に好きな表現をすればよいのです。

 そして、「自己表現しない大人」がいることは事実ですが、必ずしもすべての大人たちがそうではないことを知るようになりました。そうであれば、私はいつも自己表現できるような道を選んでいけばよいことになります。

 さらに、そのような道を自分で選んでよいという決定権を自分がもっている、ということで、それが「大人になった」ということなのだと、考えが変わりました。大衆が表現しないからと言って、自分の表現を捨ててしまうのは、先生の言うことをきく「いい子」を演じていることと変わらず、大人になったということは、表現する道を自分で選んでいく力をもったことなのだ、と解釈が変わりました。これによって、「大人=ヒト化」というかつてのイメージも薄らいでいきました。

 こう考えることができるようになったため、最近はヒト化に悩むことはなくなった、というわけです。

最後に

 今日は「ヒト化」というかつての悩みについて書いていきました。今回は、いつも短歌や自然の風景などを楽しんでいる記事より重めの内容になってしまい申し訳なかったですが、書きたいことを整理して書けたので、良かったです。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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