アートボード_1

VTuberを批判するということ

最後にちゃぶ台返しがあります。ちゃぶ台を返すとわかっていて、でもちょっと時間をかけてまとめた文章なので誰かに読んでほしいという気持ちに従って公開します。もったいない精神です。

前フリ: 先日、TwitterのTLに流れてきたもの(1)

なるほどなあ(僕は勇気さんを普段から追いかけている当事者ではないので深い言及はありません)、と思いました。

前フリ: 先日、TwitterのTLに流れてきたもの(2)

なるほどなあ(僕はFAVRICを観覧していた当事者ではないので深い言及はありません)、と思いつつ、

矛先を広げて煽ってたから僕はこのひとのことが嫌いになりました。自分の推しとも関わりあるひとだったのでちょっとショックでした。

VTuberは批判すべきではない、という風潮

「VTuberは生きているから、傷つけてはならない」

この「界隈」で広く受け入れられているように思える考え方です。そりゃそうです。VTuberは個の人格であり、その人格を攻撃することはそうそう容認できるものではないと、僕も同意します。

では「活動内容はVTuber本人の意向を尊重し、ファンがコントロールしようとしてはならない」は?

同様に界隈で広く受け入れられているように(僕からは)見える考え方です。これに振れたものは後方プロデューサー面ファンチと呼ばれ忌み嫌われます(そこまで言われるようなひとはコントロールしようとしたこと自体のみでなく、害意のある言葉遣いや大きく広げた主語の盾、「あなたのためを思って」という押し付けがましさ等、他に問題を抱えているケースも多いように感じられはするのですが)。

VTuber #とは

でも、VTuberって「人格」であると同時に「コンテンツそのもの」でもあるじゃないですか(更に言えば「コンテンツを発信するもの」であり「コンテンツを創造するもの」である)。

とすると「コンテンツが自分の望む形になってほしくて要望・批判を投げかける」ことって、存在を、発生を認められないような行為なのか? って思ってしまうんです。

たとえばゲームであれば「GUIのわかりにくさから操作ミスが頻発してしまう。(僕のゲーム体験が損なわれているので)改善してほしい/されるべきだ」といった言葉は当たり前に存在が認められているように思えます。これとVTuberに対する(「適切な言葉を選んだ、理性的な」という大前提は満たした上での)要望・批判は何が違うのか。わからなくなってきません? 僕にひとの心がないから理解できてないだけ? 不安なのでその場合はこっそり優しく指摘してください。

前述の通りVTuberは「コンテンツそのもの」であると同時に「人格」でもあるのだから、そこは特別な配慮をして当たり前じゃないか、とも考えました。しかし、ゲームにもゲームという「コンテンツそのもの」と切り分けられているだけで、その奥に「コンテンツを創造するもの」と「人格」が存在しています。UIデザイナーが批判を受けて「十分な仕事を全うできなかった」と自身を責めたり、「自作が批判にさらされている」と傷つく可能性は無視されていいのでしょうか(往々にしてこの手の話では「クリエイターであるならばそういった言葉を乗りこなせる精神的強さを持つべき」といった厳しさがまかり通っているように感じています)。

で、どう着地したらいいと思ってこの文章書いてるの

コンテンツである以上VTuberに対する批判・要望は、存在していてもよいという空気感が生まれたほうがいいな、健全だなと僕は考えています。もちろん、批判・要望として適切な形が成されていることが大前提です。批判のふりをした攻撃は断然アウト。

適切な形だったとしても、言葉を選んだとしても、その存在そのもの・事実そのもので傷つく可能性は当然残っています。人格だから、感情だから、ダダッダー。そこはもう仕方ないかな、「コンテンツを発信するもの」がどうしても負わざるを得ないリスクなのかな、ってのが、個人的な線引きです。

また、忘れてはならないのは批判・要望もまた等しくコンテンツであるということ。批判・要望を公にした時点で自身もまた「コンテンツを発信するもの」となったという自覚を持つ必要があります。批判の批判もあるんだよ。

あと、批判・要望は別に受け入れられなければならないものではないということも。これはVTuber以外のコンテンツでも当たり前のことです。お便りを送ろうが、ゲームが(自分にとって)改善される保証はないのと同じです。そこはコンテンツに携わる側のひとの判断次第です。どれだけシリーズに愛着があっても最新作がクソゲーと感じたら自分のほうから距離を置いたほうがよいケースはあります。

でもさあ、

適切な批判・要望って、実際やろうとしてできる奴そうそういないよね〜〜〜〜って話。感情を抑えて、理知だけを相手に伝えるってけっこうな特殊技能なわけで。やろうとして失敗して、結果的に不当な傷を抱えてしまうのは当のVTuber、というバッドエンドに陥るなら、そもそも最初からすべてを封殺していたほうがよい、という考えもものすごく理解できます。WAKARU。

誰か叡智をさずけてください。叡智絵もください。

オチ

なんていろいろ頭のなかでこねくり回りながらネットを漂っているうちに、こんな記事に出会いました。

あくまで私の感覚の話になるが、Vtuberの割合で言うと「タイムシェア」を目的とした層が圧倒的に多く、そのVtuberは ”自身が楽しむこと” もしくは ”誰かと時間を共有すること” に重きを置いている。
そしてその時間の共有対象は視聴者と限らず、他のVtuber・身内といった仲の良いVtuberに限定されている場合もある。

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜そっか〜〜〜〜〜〜〜〜そもそも「VTuber=コンテンツそのもの」ではないとする向きもあるのか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

一度気付いてしまえば当たり前のことなんですけれども。僕のなかで「VTuber=コンテンツそのもの」というのは揺るぎない事実だという感覚だったのですが、違いました。僕の定義でした。

この感覚に凝り固まったゆえんを省みてみると、第一にWeb上で公に発信されるものは余さずコンテンツである、という考えから来ているものだと思われます。Pixivに投稿されるイラストも、YouTubeの動画や配信も、Twitterのつぶやきでさえも、すべてがコンテンツ。あらゆるひとがコンテンツの発信者、メディアとなる。かつてWeb2.0と呼ばれ(UGC/CGMといった言葉もありましたね)、いまや世界に定着した概念……と思っていたけれど、それは僕のなかでの話。Twitterをコミュニケーションツールとしてだけ利用する多くのひとがいるように、YouTubeを、VTuberという文化をコンテンツ発信ではなくコミュニケーションツールとして利用するひともいる、と。

(もちろん僕のなかでは依然としてこの感覚は「正しく」あり続けていて、オープンなWeb上で何かを発信するひとはそれがコンテンツであり、自身が「コンテンツを発信する側」に立っていると考えるべきだと思っています)

(ちなみに僕の定義上では「コンテンツそのものでないバーチャルな存在・人格」をも含んだ枠組みも用意されていて、Virtual Beingsという言葉がそれにあたると思っています。Virtual Beingsという大きい枠のなかで、コンテンツそのものでもあるのがVTuber、という認識)

というわけで、そのVTuberがコンテンツであるかどうかからまずフィルター組む必要もあるんだなと。なかなか難しくね。考えるのやめよう。

では解散!!

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