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【短編小説】 青の短冊

 芝居小屋の天井、三メートル程にある、吊り照明にぶつかるくらいの大きな竹を、近所の指定文化財に登録されている、旧家の屋敷の敷地から切り出してきたのは大道具の神田だった。
 もちろん一人では運べずに、演出や小道具、カメラマンの面々を連れて、五人掛かりで運んできたらしい。
「よく許可貰えたな」
 と言うと、神田はあっけらかんとして、
「公演のパンフレットを置きに行った時に、ダメ元で分けてもらえないかと聞いたんだよ。館長さん、優しい人で、快く頂けたよ。竹は毎年増えるから、ある程度間引いているのだって。造園管理の担当者の方が、混み合っているところの竹を選んで、伐採してくれたんだ。お礼にと言ってはなんだけど、離れの茶室で催されるお茶会のフライヤーを、うちの公演のパンフレットに挟み込むことにしたよ。春先は桜目当てもあって集客がいいらしいのだけれど、暑い季節のお茶会はなかなか席が埋まらないらしくてさ」
 それとは別に、大柄な神田の身長を超える程度の竹も数本用意してあって、そちらは受付のあるラウンジに飾られていた。
 最終日の七夕を含む土曜日から翌週の日曜日までの一週間、昼夜二回公演で、毎度パンフレットと共に短冊を配る。
 各々短冊を竹に括り付けると、皆それぞれに写真を撮っている。
 目当ての役者の書いた短冊を探して、楽しんでいる者もいる。
 中には浴衣を着てくる客もいて、SNSなどにもたくさんの写真が掲載され、良い宣伝になると、副団長の田辺も喜んでいた。
 赤の他人の願い事を読むのも面白い。
「家族が健康で過ごせますように」
「夏休みまでに痩せられますように」
「子供の受験が無事合格しますように」
「ギター上手くなりたい」
「彼女が出来ますように」
「宝くじに当たりますように」
「世界平和!」
「アルファード購入許可下りますように」
「峻くんと目が合いますように」
「腹筋が六つに割れますように」
 真面目なものもあれば、クスッと笑えるものもある。
 副団長の田辺の短冊には、
「物販がたくさん売れますように」
と書かれていて苦笑いし、
 大道具の神田の短冊には、
「みんなの願いが叶いますように」
とあって、裏方にしておくのは勿体無い男前な奴だと感心する。
 しかしこれでは、神様も忙しい。
 七夕はどこの神様に祈りを捧げるものだっけとぼんやり思う。
 八百万の神がいる日本で、星空に願いをかけることに、大した疑念も抱かずとも良いかと、そのままに、揺れる吹き流しの可愛らしさに目を細める。
 僕は、初日公演の受付係になった。
 やっと台詞のある端役が貰えた程度の下積みで、少しでも顔を覚えて貰えるチャンスと、率先して受付係を引き受けたのだった。
 しかし、本当の思惑は別にあった。
 意中の彼女が来たら渡せるように、一番下のパンフレットに、青色の短冊を挟み込んでおいた。
 黒サインペンの文字が読みにくいからと、青の短冊は配布用から除外されていたのだが、こっそりととっておいたのだ。
 短冊が特定出来れば、彼女の願い事を読むことが出来るという算段だった。
 彼女が来たタイミングで、左手に持っていたパンフレットを束ごとひっくり返して右手に持ち替えた。
 不自然ではなかったと思う。
 我ながら、ここ最近で一番いい演技だったのではないか。
 舞台に上がると緊張してガチガチになるくせに、いつもその調子でいけばいいのにな。不思議なものだと心の中だけでごちる。
 彼女は、一番下に仕込んでおいたパンフレットをにっこり笑って受け取った。
 ああ、好きになったのはそういうところだと、揺れる黒髪を目で追う。
 彼女が入口付近のカウンターで、サインペンを走らせているのは確認したが、小道具の安井が、短冊の飾り付けが手の届くところに集中しないよう気を利かせて、彼女から短冊を受け取ると、脚立に乗って、高い所へと括ってしまった。
 僕が見逃していなければ、彼女は公演初日から、三日連続で夜公演に通って来ている。
 二日目は受付係を交代したので、短冊をどうしたかはわからないけれど、三日目の短冊は、パンフレットに挟まれたまま彼女は会場へ入って行ってしまった。
 あれもこれもと欲張るのではなく、初日の短冊に書いた願い事が、唯一の願い事だと言うように、その背筋の伸びた後姿には凛とした美しさがあった。
 三日目終演後に、ようやく隙間時間を見つけて、脚立に足をかけた。
 脚立を登ると、青の短冊はすぐ見つかった。
「ヒロインになりたい」
 名前はなく、願い事だけが、丸さの多いコロンとした筆致で書かれていた。
 少し意外だなと思う。
 もっとスレンダーな字を書く人だと思っていた。
 しかも願い事の主張の強さ。
 ヒロインになりたいとは、どういう意味だろう。
 彼女はいつも一人で来ている。
 時折、劇団のファン同士で談笑しているのは見かけるが、スタッフなどと懇意にしている様子はない。
 狭い世界だから、他の劇団に所属していれば知らないことはないだろう。
 会議が終わらなくてと、開演ギリギリに駆け込んで来たこともあったから、勤め人なのも間違いないと思われた。
 演劇関係者ならいざ知らず、ヒロインになりたいとは、商業ベースにのっていない、地元の小劇団にでも所属しているのだろうか?
 それとも。
 少し憂鬱な気持ちで短冊を眺める。
 今の舞台は、七夕をモチーフにした、なかなか会えない遠距離恋愛のカップルが、色々な苦難を乗り越えて、久しぶりのデートに至るまでのドタバタ劇だ。
 主役は劇団の若手スター、響とララだ。
 経験も浅い二人だが、怪演とも言われる迫力で、舞台の最後には、涙する観客も少なくない。
 ヒロインのララが演じている、姫愛の役が羨ましいということだろうか?
 響は正統派の美男子で、ファンサービスも手厚く、インスタのフォロワー数も多い人気者だ。
 響のファンであれば、そう書くのも納得がいく。
「勝ち目がないよ」
 脚立に跨って、僕は天を仰いだ。
 室内だが、空調の揺らぎに合わせて、さらさらと七夕飾りが音を立てる。
 それでも諦めきれずに、青い短冊を近くに括る。
 彼女は、その後も毎日夜公演には必ず足を運んでくれた。
 僕の僅かな出番は、響の恋敵のいけすかない男の役であったが、響のアドリブのおかげで、少し台詞も増えて、お客様の反応も日毎に楽しめる、公演の見どころのひとつになっていた。
 それ自体は嬉しいはずなのに、僕は、彼女の視線が響を追っていると確信する度に、密かに胸を痛めた。
 公演も残り二日となったある日の朝、開演前の稽古中にアクシデントは起こった。ヒロインのララが舞台上の階段を踏み外したのだ。
 バランスを失うララに、段上の響が咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わなかった。
 ララの足首は、みるみるうちに腫れて、救急車で運ばれていき、数時間の後に、松葉杖をついて悲壮な表情で帰ってきた。
 診断は足首の捻挫で全治3週間とのことだった。
 ララと団長の柏原を含む数名のブレインが、対応策を検討するために、暫し事務所に篭って検討した結果、急遽代役を立てることになり、それまでの立ち稽古等で、ララが不在の際、読み合わせの相手役を代理で務めていた、都に白羽の矢が立った。
「都、演れるか?」
 柏原がそう問うと、
 都は、その場に崩れるようにして、泣き出した。
「ララさんごめんなさい、あたしそんなつもりじゃ」
 まるで、ララが骨折したのが、都の思惑によるもののように聞こえる。
 しかし舞台上にいたのは、ララと響だけだった。
 泣きじゃくる都に、同期の千絵が駆け寄って、どうしたの?と問うと、
「あたしが、ヒロインになりたいなんて書いたから」
 しゃくりあげながら、そう言った。
 皆がポカンとする中、僕ひとりが、「えっ?」と思わず声をあげて七夕飾りを振りかぶると、事の次第を理解したララが、不自由な松葉杖で都のところまで歩み寄って、
「短冊に書いた願い事叶っちゃったのね?すごい!都の努力の結果だよ。私の怪我は不注意だから、都のせいじゃないけど、願い事叶ったのは、都の努力の結果だからね。みんな知ってる事だから。急な事で迷惑かけるけど、お願いね。ほらほら、あんまり泣くと、せっかくの主役が目を腫らしてたら台無しよ」
 そう言って慰めた。
「いいな!そんなに御利益あるのか。俺の願い事も叶うかな」
 ほっこりしたやり取りを他所に、安井があっけらかんと言うので、田辺副団長が
「安井は何を願ったんだ」
と問うと、
「宝くじが当たりますように」
と即答し、
「宝くじ買ったのか?」
「いや、買ってないけど」
「買わなきゃ当たらないだろ」
「それもそっか」
 まるで漫才のような二人の掛け合いに、一同大笑いになり、アクシデントで緊張していた場の空気は一気に解けた。
 それから、幕が上がるまでの短時間で、都の出演シーンの集中的なリハーサルを重ね、ララより小柄な都に合わせて、衣装を直したり、会場とソーシャルネットサービスに、急なキャスト変更の告知をするなど、皆対応に追われた。
 僕は、バタバタと対応する皆を他所目に、あの青い短冊は都の書いたものだったのかと、そればかりを考えていた。
 都が手洗いに行った隙に、赤ペンのいっぱい入った台本をパラパラと捲る。
「本当に努力家よね」
 出来ることがなくなって、呆けたようなララさんが、僕の手元の台本を尊い面持ちで眺めて、そう呟いた。
「あ、いや。え、はい。勝手に見ちゃってすいません」
 まさか、筆跡を確かめていたなどとは言えずに、しどろもどろに返答をする。
「内緒にしておいてあげるから、そこのお茶取って」
 舞台袖の前室の隅で、松葉杖を壁に立て掛けて、パイプ椅子に座っていたララさんは、テーブルの上に無造作に配られた、紙コップに注がれたお茶を指差した。
 立ち上がってこちらまで来て取るのが億劫なのだと分かって、気の利かない自分を申し訳なく思う。
「どうぞ」
「七夕は晴れるかしら」
「雨の予報は出ていなかったと思いますがどうでしょうね」
「母が来るのよ」
「どちらからですか?」
「和歌山」
「ああ、それはなかなかの遠方ですね」
 そういえばララさんはみかんが好きだなと思う。
「主役楽しみにしてたんだけどな」
「ガッカリなさいますね」
「ううん。芝居は芝居で愉しむと思うから。そういう人だから」
「でもやっぱり子供の晴れ姿は楽しみだと思いますよ」
「そうね。ただ、残念がるというよりも、そそっかしいってガミガミ言われることの方が気が重いわ」
 ララさんは、そう言って肩をすくめた。
 パラパラと捲っただけだが、丸くて大きめな字体は、彼女のもので間違いないだろう。きっと抜き取った青の短冊の束が置いてあるうちに、無意識に手に取ったのか。何にせよ、彼女の短冊は別にあるはずだ。もう一度脚立に登って確かめてみたいが、今はその余裕がない。
 微かにため息をついた僕に、ララさんが
「ね、都ちゃんなの?」
「え?」
「山野くんの想い人」
 急な質問にたじろぐ。
「いや、そういうのじゃないです、ほんと」
「ふうん」
「ほんとに」
「よく短冊の事だって分かったなって」
「じ、自分の短冊を吊るす時に目に入ったんですよ」
「たまたま?」
「たまたま」
 思いもよらない誤解だ。
「名前がなかったので、都だとは知らなかったのですけど、すぐ、あれの事かって」
「ふうん」
「ララさんはどんなお願いを書いたのですか?」
「ええと、世界平和」
「ははは、男前ですね」
「そうかしら?山野くんは何と書いたの?」
「内緒です」
「ああ、そういうこと言う?モテないわよ」
「モテたいって書いたのに」
「またまた。あんまり女の子泣かしちゃダメよ」
「そんなに需要があったらいいんですけどね」
 ララさんは僕をまじまじと見てから。
「少なくとも三枚」
「え?」
「山野くん関連の短冊見たわよ」
「それ、『山野、酒奢って』とかじゃないですよね?」
「それもあったかも」
「あるのかよ」
 ララさんは楽しそうにふふふと笑って、みんな叶うといいねぇと呟いた。
 幕が上がると、団長の柏原は、いつものことではあるが、自身の出番以外もずっと舞台袖に張り付いて見守っていた。
 千絵と僕もその後ろで、ずっと舞台を見守っていた。
 千絵は都に、いつも通り、相手役を務めている気持ちで臨めば大丈夫よと、背中に手を置いた。
 都は、何度も頷いて、大丈夫、台詞は全部入ってる。そう自身に言い聞かせていた。
 舞台上の都は、演じていることを忘れてしまうくらい、役にはまり込んでいた。
 代理で相手役を務めている時にも、貪欲に自分のものにしようとした成果だ。
 ララの演じる姫愛が明るく快活であるのに比べて、都の演じる姫愛は、いくらか情熱的で、妖艶だった。
 いずれが良いとはひと口には言えないが、ララに引けを取らない魅力があって、会場の引き込まれていく様子もまた、負けじと劣らずだった。
 これなら大丈夫と思った、一幕の長台詞を乗り切った直後の事だ。
 会場に連れられて来ていた、赤ん坊が急に火がついたように泣き出した。
 母親が暗い客席を、慌てて赤ん坊を抱き抱えて場外へと出て行った。
 響は少しだけ間を置いて、台詞が泣き声に被らないように配慮したようだった。ステージをいつもより多めに歩きまわって、観客の注目がステージに戻るのを待った。しかし、その後に続くはずの都の台詞が続かない。
 客席を背に、セットの椅子に手を置いたまま動かない。
 舞台袖から見た都は、明らかに空を見ていた。
 集中が途切れたのだ。
 同じく異変に気が付いた千絵が、次の台詞を口パクで伝えようとしているが、都はこちらに気付かない。
 僕は、アドリブで舞台上を横切るための策がないかと思い巡らせた。
 しかし、窮地は一瞬の事だった。
 台本にはないアドリブで、響が都を抱き寄せると、素早く耳打ちをしたようだった。
 僕は、無意識のうちに、客席にいる意中の彼女を見た。
 彼女は、胸の前で手を合わせている。
 あの短冊は都の書いたものだった。それなのに、彼女が目で追っているのは、響に違いない、そう思い込んだら、もうそうとしか見えず、僕は都の窮地などそっちのけで胸が苦しくなった。
 都は、響を突き放すようにして、予定通りの立ち位置まで移動すると、続きの台詞を口にした。
「こんなに雨が降るのは、私たちに縁がないからかしら、それとも誰か別の人が泣いているから?」
 僕らは、拳を握って小さくガッツポーズを作ると、都が持ち堪えたことを喜んだ。
 響を想う他の女の存在を、都がなじる台詞だが、響はその返答をなんとアドリブで返した。
 本来は、響の演じる鯖江の心変わりを、僕が演じる四方田が、都に耳打ちしたことで起きた齟齬を、鯖江が弁明する場面で、
「君は、僕だけを信じていて」
 という台詞を、
「泣いているのは可愛らしいベビーだよ。彼らは泣くのが仕事だから仕方ないのさ。君が心配するようなことじゃないよ。君は、僕だけを信じていて」
 と言い換えた。
 その咄嗟の機転に、連日通っている常連客からの拍手が湧いた。
 僕は、またもや思う。勝ち目がないと。
 その日の舞台は盛況の中終幕し、響と都はお互いを労い、謙遜し合って、皆の賞賛を浴びた。
 誰よりも褒め称えたのは、ララだった。
「あんまりいい演技すぎて悔しかったわ」
 とララが言うと、気丈に振る舞っていた都がまたもや泣き崩れた。
 僕は、スタッフの殆どが帰った後で、もう一度脚立に登った。
 都の書いた短冊の少し斜め右上に、もう一枚青い短冊が吊るされていた。
 前回脚立を立てたところからは死角になっていたかもしれない。
 手を伸ばして短冊をこちらに向けると、そこには、
「七月七日は晴れますように」
 とスレンダーなさっぱりとした筆跡で書かれていた。
 青い短冊が他で使われていないとは言い切れないが、それは、彼女の佇まいが蘇るような筆致だった。
 その日は公演最終日だ。
 鯖江と姫愛の逢瀬を思ってのことだろうか、それとも別の理由があってのことか、いずれにしても、僕に叶えてあげられる願い事じゃない。
 僕は脚立を降りると、せめてもの力添えになればと、短冊にてるてる坊主を描いて吊るした。そのすぐ横には、
「響くんのサインが欲しい」
 と書かれた短冊がぶら下がっていた。
 前日まで、降水確率五十パーセントだったにも関わらず、七月七日の朝、カーテンを開けると、まだ午前八時だというのに、既に夏の日差しがギラギラと眩しく、散歩する犬の肉球が火傷しないか心配になる程だった。
 その日は意中の彼女は昼の部にも来ていた。そして珍しく、独りではなかった。
 歳の離れた女性を伴って会場に訪れた彼女は、パンフレットを受け取ると、記入台へ誘導して短冊を書くように促した。
 彼女は少し考えて、黄色の短冊に何やら書き込んで、少し背伸びをして、空いている笹の葉に、同伴した女性の水色の短冊と合わせて吊るす。
 背伸びをした時に、ロングスカートの裾から見えたキュッとした足首。伸ばした二の腕の白さ。ピンクベージュのネイルが上品な指先。
 ほんの一瞬のことなのに、カメラのシャッターを切ったように記憶に刻まれる。
 そこへ、コツコツと松葉杖をついたララが、僕の前を横切った。
「お母さん」
 ララがそう呼び掛けたのは、彼女の連れの女性だった。
 てっきり彼女の母親だと思っていた僕は、その正体がララの母だと分かり、目を丸くした。
「あらあ、まったく。そそっかしいのだから」
 ララの言う通り、ギブスをした左脚を見ると、心配するより先に、お小言が始まったので、可笑しいなと思いながら、探りをいれに行く。
「ララさんのお母様ですか?」
「ええ、ララがいつもお世話になってます」
 深々とお辞儀をされて、こちらも深々とお辞儀を返す。
「後輩の山野くん。今回の役どころは悪役だけど、本当はいい人よ。山野くん、こちらは従姉妹の萌香。萌香、母の引率ありがとうね」
 ララさんの従姉妹。
 そうか。名前は萌香さんと言うのか。
 僕は一筋の光明を見た。
 話しかける糸口を得たことで、浮き立つ思いを抑えて、伏目がちに挨拶をする。
「山野です。ララさんにはいつもお世話になっていて。郷里は和歌山と伺いましたがお母様も遠路はるばる来て頂いてありがとうございます。萌香さんも、いつもお見かけしてます。何度も足を運んでくださってありがとうございます」
「こちらこそ、いつも楽しく拝見させて頂いてます。でも山野さんの悪役はなんだか憎めなくて」
 ちゃんと声を聞いたのもこれが初めてだ。意識的に聞くと少しララに似ている
「それは、修行が足りないようで」
「いえいえ、良い人が滲んでいるのだと思います。ララからいつも噂はお伺いしてます」
 僕は、酒の席の失態を思い出して、どんな噂だろうかと、ララをちらっと盗み見た。
「叔母様ったら、電車乗り間違えたって言うから心配したけど、一本早いのに乗ったみたいで、ちゃんと落ち合えて良かったわ」
「萌香ちゃん、本当にありがとねぇ。東京は難しいわ」
 短冊が気になったが、積もる話もあるだろうと、そっと席を外した。
 僕はその日、昼公演と夜公演の、響との掛け合いのシーンで、客席の萌香さんと目が合った。
 それまで、勝ち負けのような気になって、無意識のうちにどこかで響を敵対視していたけれど、萌香さんと目が合っただけで、嬉しくなって、憎たらしいヒールを演じきれるようにと思っていたのに、いつも以上に情けない男に成り下がってしまったようだ。
 勝ち負けじゃない。
 ただ、好きでいることを、誰も咎めない。
 情けなくていい。
 そう思ったら少し肩の力が抜けて、むしろいい演技ができた。
 幕後の拍手が大きく聞こえたのは、最終日だからだけではないに違いない。
 夜の部の終わり、壇上のキャスト紹介には、ララも松葉杖のまま登壇した。
 柏原から、演者にも知らされていなかった次作の予定が発表され、盛況のまま舞台は幕を閉じた。
 ララの母親と一緒に帰っていく萌香さんを楽屋のカーテンの隙間からそっと見送って、次はいつ会えるだろうと、次作の配役に僕の名前があるかどうかを、短冊を吊るす萌香さんの指先のビジョンに重ねる。
 僕は、萌香さんの短冊を探した。
 ララさんの母親の、水色の短冊には、達筆で、
「家族が健康でいられますように」
 そう記してあった。
 その横の黄色の短冊を、僕はそっと解いた。
「次は、善い人の役で観たいな」
 その文字を、さっき耳にした彼女の声で反芻する。
 短冊を胸に押し当てて、きつく目を閉じた。
 彼女の願いは叶うだろうか。
 いや、僕が叶えるのだ。
 打ち上げ会場へと向かう一団から少し遅れて歩く。
 七夕の夜の、奇跡のような満天の星空に、ぽっかりと浮かぶ黄色の月が、まるで大きく書かれた願い事のように、明るく輝いて、僕を照らしていた。

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