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「山河童」

寝つかれない夜だった。しきりに喉が乾く。布団から起き出して台所へ行き、水を一杯汲んだ。飲んだら眠気がすっかり去った。仕方がないので寝ることはあきらめ、寝間着を変えて散歩に出かけた。

半月のあかりを頼りに、川沿いへ出た。ぶらぶら歩く。遠くから鳥の鳴く声がした。ヒョンヒョンヒョン。三度鳴いてやみ、またしばらくしてヒョンヒョンヒョン。山の向こうから聞こえるようだった。

わたしが耳を澄ませていたら、いきなり後ろから声がした。
「こんばんは」
振り向くと河童が立っていた。背丈はわたしの半分ほど。こんばんは、とわたしも言った。そのまま黙って川沿いを歩いた。

ヒョンヒョンヒョン。いったいあれはどういう鳥かしら。ここらあたりでは聞いたことがない。ヒョンヒョンヒョン。
遠い山から届く鳴き声を何度も聞いているうちに、わたしの足取りが重たくなってきた。眠い。このまま帰って布団に入ったら、さぞ気持ちいいだろう。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。わたしはくるりと踵を返し、川を戻ってアパートへ急いだ。

ドアを開けるときに気がついた。後ろに河童がいる。ぺたぺたいう足音が、背後でぴたりと止んだのだ。わたしは振り返って河童を見た。
月あかりに照らされる河童は、どことなく元気がないように見えた。頭の上の皿も、なんだか白っぽい。

河童は黙ってわたしを見上げていた。子どもだろうか。体が小さいせいか、まだ年端もゆかぬように思えた。こんなあどけない子に、川へ帰れと無下には言えない。それにわたしは眠かった。子どもならまあいいだろう。わたしは玄関ドアを開けた。河童はぺこりとお辞儀をし、わたしについて中へ入った。

わたしが部屋に上がっても、河童はついてこなかった。ドアの前でもじもじしている。そばへ行くと河童が言った。「雑巾を借りたい」
貸してやった雑巾で、河童は自分の足の裏をぬぐった。ずいぶん律儀な河童だ。

冷蔵庫にきゅうりがあることを思い出した。わたしは1本取り出して河童に与えた。河童は水かきのついた手でうやうやしくそれを受け取ると、大きな口を開いて丸ごと中へ放り込んだ。しゃくしゃくと音立てて咀嚼する。
「うまいな」と河童が言った。途端に体がひとまわり大きくなった。

「このきゅうりはいい。もっとないか」
態度が急にぞんざいになった河童は、きゅうりをくれとわたしにねだった。
「ないよ」とわたしは言った。「それだけしかない」
河童が冷蔵庫の取っ手に手をかけようとするのを慌てて制した。ひゃっと声が出そうになるほど、河童の手はひやりとしていた。

わたしの目はまた冴えてしまった。部屋に招いたのはやはり迂闊だった。河童なんかがそばにいては、おちおち寝ていられない。尻子玉を抜かれるのは嫌だ。なんとかお帰り願えないものか。

ふと考えがひらめいた。わたしは冷蔵庫のドアを開け、中からビニール袋を取り出した。きゅうりが5本入っている。

「なんだ、あるじゃないか」と河童がうらめしい声を出した。
「下の段にまだあったの。いま思い出した」
わたしはそう言いつくろうと、袋を手に玄関へ行った。ドアを開ける。河童もついてきた。外に出てしばらく歩いてから、わたしは河童に言った。
「これあげる」
「そうか」
手を出した河童から、わたしは袋をひょいと遠ざけた。河童の手が空を掻いた。
「あげるから行って」
「どこへ」河童の声は怒気を含んでいた。ここでひるんではいけない。わたしは河童の目を見据えた。
「川よ」
「川?」
河童はいぶかしんでわたしを見上げた。出会ったときはわたしの腰ほどの身長だったのが、いまは胸の高さにまで伸びている。

「川なんぞに用はない」と河童は言った。わたしは意外に思った。
「川に棲んでるんじゃないの」
「まさか」河童は鼻で笑った。「わしはもっと山深いところにおる」
川でも山でもどちらでもよかった。
「じゃあその山深いところに帰ってよ。これ持って」
わたしはきゅうりの入った袋を、河童の前に突きつけた。河童は袋を受け取ると、さっそく中から1本取って、大きな口の中へ放った。しゃくしゃくと音が鳴る。喉仏が下がると同時に、河童がまたひとまわり膨らんだ。

川沿いに出た。さきほど河童に声をかけられたあたりを通り過ぎ、その先の橋を渡って山の裾野へ入った。河童は道々、きゅうりを食べる。しゃくしゃく、ごっくん。そのたびに体が大きくなる。とうとうわたしの背を越して、山の奥へと分け入った。

わたしは河童のあとをついて歩いた。きゅうりを渡したら別れるつもりでいたのに、なぜか離れることができない。
河童の背中はつるんとしていた。ヒレなどは生えておらず、鱗もない。アマガエルのような皮膚だった。

ヒョンヒョンヒョン。突然間近に声が聞こえて、わたしは足を滑らせた。思わず伸ばした腕を、河童がしっかりつかんでくれた。
「ヤマガシに用心なされよ」
「ヤマガシ?」
「大きな鳥だ。やつらはヒトを喰う」
「えっ」
驚いたわたしを河童がなだめた。
「安心せえ。わしがおる」

河童はわたしの手を引いて、どんどん山を登っていった。わたしがあまりにもたもたするので、途中からはわたしを負ぶってくれた。河童の両腕がわたしの両腿を抱える。水かきのついた手がひょろひょろ伸びてきて、尻子玉を抜かれるかもしれない。抜かれれば死ぬ。

わたしはお尻に力を入れて用心した。振動が心地よい。
そのうち尻子玉などはどうでもよくなってきた。河童の体の冷やっこさにも慣れた。皮膚がすべすべと吸いつくようだ。わたしは河童にまわした手の指で、彼の首筋をそっと撫でた。

「やめい!」
威厳のある声が響き、わたしはひゃっと肩をすくめた。
「悪さをすると、おまえの尻子玉を引っこ抜くぞ」
「それだけは堪忍して」
わたしは河童の首にすがりついた。河童がはははと高らかに笑った。
「きゅうりはもうないか」と河童が訊いた。
「いまはない。また買っておきます」
「うむ、よかろう」

巨大な杉の木の前で、河童はわたしを背中から下ろした。異様に太い根と根の間に、狭くて深いうろがあった。河童がそこに足を入れ、するすると体を沈めた。うろの中から声がした。
「おまえも来い」
わたしはうろを覗き込んだ。河童は狭い穴の中に、縦になって立っていた。
「わたしも入るの?」
「そうだ」
「なぜ?」
「一緒に寝るのだ」
寝るのか。

わたしはうろの縁に腰掛け、そうっと中へ入った。河童と向かい合わせになり、狭いうろで立ったまま抱き合った。
河童はきゅうりの匂いがした。うろの中はあたたかい。河童の冷やっこい腕に抱かれながら、わたしはとろとろと眠りの渦へ落ちていった。



illyさんの私設賞「#磨け感情解像度」短い河童の話を書いたら、「あの河童の小説が読みたい」と声がかかったので書きました。


最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。