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読み手の感情をもって、完成とす。

きゅうりを2本買った。塩麹漬けにする。作り方は簡単だ。

塩麹調味料を手に入れる。きゅうりを割ってビニール袋に入れる。上から塩麹調味料をにゅるりとかける。好みで薄口しょうゆ、チューブにんにくを入れる。袋の外から全体を揉む。冷蔵庫で1時間寝かせる。おわり。

そうして作った塩麹漬けを、器に盛ってテーブルに置く。ビールをひとくち飲んだあと、箸をつけた彼が言う。

「うまいな、このきゅうり」
私ははっとして彼を見据えた。

この彼は夫である。夫がうまいと言ったことに、私ははっとする。なぜなら彼が食卓でうまいと口にすることは滅多にないからだ。料理を前に彼はいつも寡黙である。
塩麹漬けはおとといも出した。先週も先々週も出した。今夜に限ってうまいと言う。夫の身になにか変化があったのだろうか。やましいことでもあるのか。へつらう理由はなんだ。私は息を飲んで彼を見据えた。

「うまいな、このきゅうり」
私ははっとして彼を見据えた。

この彼は別れた恋人である。駅で偶然会い、話が弾んでなんとなく一緒に居酒屋ののれんをくぐった。二人でよく来た店だ。蛇腹の伸びた赤提灯も親父もおかみさんも、あの頃と少しも変わらない。
はいよとカウンター越しに出された小鉢に入っていたのは、斜め切りのきゅうりだった。添えられた味噌を少しつけて齧る。彼はこのきゅうりが好きだった。うまいなとしみじみ言う彼の声音が流れた歳月を巻き戻し、私は胸を鳴らしてその横顔を見据えた。

「うまいな、このきゅうり」
私ははっとして彼を見据えた。

この彼は河童である。背丈は私の半分ほどだ。寝つかれずに川沿いを散歩していたら、こんばんはと声をかけられ、私の家までついてきてしまった。月明かりの下で、河童はどことなくしょんぼりしている。頭の上の皿がやけに白っぽいようにも見える。川へ追い返すのも無下に思い、ともかく部屋に招き入れた。
冷蔵庫にきゅうりがあった。黙って差し出すと河童は水かきのついた手でそれを受け取り、大きな口へ丸ごと放った。しゃくしゃくと音立てて咀嚼し、うまいなと言う。河童がひとまわり大きくなった。私は驚いて彼を見据えた。

とまあこのように、同じセリフと心情をたった2行、文字に表しても、登場人物の置かれた環境や関係性によって、意味合いはずいぶん異なる。
きゅうりをうまいと言った彼の思い。言われてはっと彼を見据える私の心持ち。そこには、ごまかしや疑い、懐かしみや恋情、脅かしや戸惑いなど、あらゆる意味合いを添えることが可能だ。状況を変えることで、感情はいくらでも生み出せる。

うまいというのは、どのようにうまいのか。はっとしたのは、どういう思いではっとしたのか。セリフの中や地の文で修飾することもできるが、それよりも私はその場の状況を簡潔に示すことで、読む人に想像を膨らませてほしい。私の中にない感情を、読み手がそこへ補ってくれたら嬉しい。

「うまいな、このきゅうり」
私ははっとして彼を見据えた。

あなたならこの2行に、どんな心情を乗せますか?



illyさんが温めてすぎて、摂氏200℃ぐらいに熱を帯びている企画「#磨け感情解像度」に寄せて。

恋愛、SF、ポエム、コラムなど、「そういう感情の表し方があったか!」と思わず唸ってしまう作品が、すでにたくさん寄せられており、私も多分にインプットさせていただいてます。

俊足ピッカーのサトウカエデさんが、応募作をていねいにまとめてくださっている「#おびコレ」がとてもわかりやすいのでおすすめ。

さあみんなも心を開いて、胸の内をさらけ出そうじゃないか。
ご応募お待ちしています。(読み手として)

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【追記】
例文に出てきた河童の話を書きました。


最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。