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冬の光

わたしは移り変わる季節の中、冬に差す光のことがとても好きです。それは必ずしも目に見える、行き交う人や街並みを照らす光だけではなくて、心の内側に差す光みたいな記憶のこと。

指先まで冷え切るような夜に、コンビニで買ったほかほかのにくまんとか、自販機に並ぶ赤いラベルのついた飲み物たち、この日々にしかない缶に入ったおしることか、なかなか粒の出てこないコーンポタージュとか。

それらはどれも、この真っ暗な世界に薄く光る灯りみたいなもので、もう目に映すことのない過ぎ去った時間のこと。ただ遠く、また最も近い場所にあって、深い夜の布団の中、ふと窓を開けた風に乗って届くものでもあります。

わたしが子どもの頃、毎週土曜日はおばあちゃんの家で20時ごろまで過ごす、という習慣のようなものがありました。お昼頃に母と姉と一緒に、車に乗って10分ほど行った先にある、周りは畑や点々と家があるだけの、いわゆる田舎のような所です。

姉とわたしはそれから畑に出て、虫を捕まえたり花を見つけたり、畑に流れる水に触れてその冷たさを確かめたり、あまり触れることのないものたちを探す冒険をしていました。今思えば、あの日吸った外の空気を、虫網を持って駆け回った草木や水の感触を、今でも忘れずにいるのだと思います。空気を吸うだけで、こんなにも意気揚々とした気持ちになるのですから。

夕方になっておばあちゃんの家に戻ると、白味噌を溶いたわかめと玉ねぎの甘いお味噌汁の香りと、炊き上がったばかりのすこし水っぽいご飯の香りが部屋に広がっていて、わたしたちは探検してぺこぺこになったお腹を、ぐうぐうと鳴らすのでした。

おばあちゃんの家では、冬になるといつも決まったご飯があって、それはお味噌汁とご飯にすこしの煮物、そしてお鍋で煮込んだやさしい味のおでんでした。当時のわたしたちはまだ小学生ぐらいですから、唐揚げやエビフライにマヨネーズをつけて食べるのが好きだったので、今日もおでんでご飯を食べるのかぁなんて、すこしがっくりしていた思い出があります。

しかも具はいつも決まって、大根やちくわぶ、がんもどきやもちきんちゃくなど、白いご飯と一緒に食べるには味気ないものばかり。わたしたちは必死にすこしの煮物に入っているお肉でご飯をかき込みながら、ちくわぶにからしを多めにつけて、その味を頼りにご飯を食べるのでした。

それから何年か経って、わたしも姉もなかなか足を運べなくなり、その間に祖父母もだんだんとご飯を用意するのが難しくなって、今は毎日のお弁当を届けてもらっています。冬の光に照らされた光や、水気の混じった透明な空気を吸い込むと、あのおでんで食べるご飯をもう一度食べたいな、きっともう食べることはないんだな、と懐かしくも寂しくなって。

きっと祖父母も何年、何十年か先に亡くなります。時間に抗うことのできない人間ですから。わたしはきっとその瞬間が来た時、そのおでんの味を思い出すでしょう、きっと二人のことを思うように。

そしてそのやわらかな光の記憶を、わたしは頼りに歩くのだと思います。過去に触れた光が、未来に繋がる道を照らす光になるのだと。その頃にはきっと、直接姿を見せることはできないけれど、あの光を頼りにここへ辿り着いたよと伝えます。そして今ある時間をもっと大切に、未来までの分の愛を伝えようと思います。

その光はわたしにとっての道標だから。あの日食べたおでんの味は、今のわたしが生きる光だから。きっとこの先で会いましょう。あなたは気づかないかもしれないけど、その手を取って温めさせてください。あの日冷えた体をあたたかいご飯で温めてくれたように。

冬の光、差すたびにまた思い出します。

何十年先も。

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