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小さなお店に誰を招き入れたいのか?考えたときにたくさんの人々の顔が浮かんできた。

なにげない日常の中で出会ってきた人たちを想う。


夢がある。

小さなお店にたくさんの本が並んでいるお店。

コーヒーや紅茶に軽食があり、座敷もあって小さい赤ちゃんを抱えたお母さんが来れるお店。

1番最初にそれを思い浮かべた。

私が今1番そういう場に居たいからだ。

それから近所のおじいちゃん、おばあちゃん。

いつも退屈そうに本を読んでる人。

玄関前には猫がゴロゴロ寝転がっている。 

誰でも入りやすいお店がいい。

午後には小学生もくる。

そこで勉強や宿題をして、わからないときはそこにいた大人の誰かが教えてあげたりする。

お腹が空いたらご飯を食べて帰る。

想像しただけ。

そんなお店がいいなという理想。


聞くこと、耳を傾けるということ

数えたことはないけれどこれまでいろんな人と話をしたことがある。

場所として多いのは

  • 公園

  • 図書館

  • 地下鉄

  • 交番の前

  • スーパー

犬も歩けば棒に当たるくらいには頻度が高め。

歩けば知らない誰かに声をかけられて会話が始まる。

私の前世はもしかしたら僧侶とかお坊さんとかそういう人だったかもしれない。

なにか徳を積んだ人が私の背後にいて、そのおかげでさまざまな人たちに話しかけられるのではないだろうかと思ってしまう。

おばあちゃん、ホームレスの人、交番前でうろうろしていたおじいちゃん。目的地が一緒だったため案内がてら歩いていたら、いつの間にか「おじいちゃんとお孫さんくらいの関係ですか?」と聞かれるくらいに仲良くおしゃべりしながら歩いていた…なんてこともある。

思い出すとキリが無いけど、歩けば必ず誰かに話しかけられたり、ちょっとしたきっかけで声をかけて話す日もある。

ほとんどが一期一会だったりするので、いつもは会えない。

だから私はその人がぽつり、ぽつりとその日語る言葉を聞く。

その言葉に過剰に反応せず、相槌を打つくらいでいい。
それくらいで聞いた方が相手も話しやすいから。

面白い話や悲しい話、こちらが驚く話もあるし、勉強になる話もたくさんある。

私よりずいぶん年を積み重ねてきた人の話はとても面白い。

昔と今現在の違いや街並み、昔の暮らしや考え方、そういったものが共有されていく感覚。今のSNSでは得られない感覚がある。


小学生の頃の私はどうだったか


昔は無口な存在だった。

いや、無口な存在にならなければならなかった。

それが今ではどうだろう?

今の私と昔の私を比較すると、とてもじゃないけれど別人格のような気がする。話を聞くことが苦にならず、「あなたとのお話とっても楽しかったわ」と爽やかな笑顔でさよならを言われる存在になっている。

しかし、そのあとに気づくのだけれどお互いに名前を知らない。(たまにどこら辺に住んでいるの?と聞かれて答えることもあるけれど)

そもそも会話をすることに名前は必要だろうか?

例えば「〇〇さんはどう思います?」とか指名して促すような会議じゃないんだから偶然そこで出会った者同士が無理矢理にでも会話の中で相手の名前を入れる必要なんてどこにもないわけで。

どこに住んでいて何をしているとか肩書きも要らない。

少し困ることといえば、誰と話をしていたの?と聞かれても答えられないことだけだ。

偶然そこで会って話をして、飽きたらどちらかが「それじゃあ」って、さようならすればいい。

こんなにコストがまったくかからないのにお互いにストレスを感じることなく会話を楽しんで帰るというのを毎回繰り返している。

会話の中でひょこっとでてくるもの


そんな、なんでもない会話を繰り返していくと、たまに問題を抱えている人と出会う。 

深く考えていないだけか、気づいていないだけか、気づきたくないのか、のどれか。

本人は平気そうだけど、外では強い存在で在りたいのだろうか。

もしかしたら、そうしなければならなかったのかもしれない、とも思う。 

家に帰り着くと仮面を被らなければ平静を保てなかったとか、そういう感じの。

息苦しさを抱えた人も多くいる。

家に帰ると話の内容を頭の中で整理することにしている。

心に引っかかって忘れずに残る言葉は、相手が無意識に繰り返していたりするものだ。

寂しい
虚しい
孤独

そういったものを感じられる言葉をひどく敏感に感じとることが多い。

私の中にもそれらは確かにある。そういった感情や孤独感が内側に潜んでいるからこそ『共鳴する』のかもしれない。

共鳴とは振動体が、その固有振動数に等しい外部振動の刺激を受けると、振幅が増大する現象。たとえば、振動数の等しいふたつの音叉の一方を鳴らすと、他方も激しく鳴りはじめる、という現象。

Wikipediaより

つまり、相手の言葉や話す内容のどこかで私の心が強く反応したのだろう。

ほんのわずかな時間だけど、頭の中で整理することでようやく落ち着ける。

とはいえ、子どもが私を呼ぶ声でいつも強制的に終了するので、その方が忙しくなり、かえってそれが良いのかもしれないとも思う。

スーパーのお菓子コーナーで会う人は子どもに優しい

スーパーのお菓子コーナーで子どもとお菓子を選んでいる時に出会ったおばあちゃん。

子どもを見るとにこにこしながら話しかけてきた。

「いくつ?可愛いわねぇ〜」

と目を細めて子どもを見る目は優しさそのもので、元気によくしゃべるおばあちゃんだった。

どうやらおじいちゃんと買い物に来ていて刺身が売られているコーナーにいるらしい。気に入った魚がないと不機嫌になるんだとか。

「一緒にお買い物って素敵ですね。」

いつか子育てが落ち着いた頃に私も夫と仲良く買い物がしたいな〜と思っていたところなのでそう言うと、「そうでもないわよ〜!早くしろ〜!とかうるさいし!」と返された。

理想と現実は違うようだ。勉強になった。

お菓子選びに夢中な子どもを見守りつつおばあちゃんも子ども用のお菓子を選んでいたので尋ねると、孫が7人いることが判明した。

息子が3人いて遠くに住んでいることや、孫が7人いて今度帰ってくることも教えてくれた。

「息子夫婦と孫たち全員よ?だから買い物が大変なの!好きなお菓子を揃えなくちゃいけないからね!それに今日はこのお菓子が安売りしてるから来たのよ〜!」

と言いながらお菓子をカゴいっぱいに入れながら嬉しそうに話しをしていた。

なんだか私も嬉しくなった。

こんなおばあちゃんになりたいなと思った。「ねぇ!お菓子たくさん入れていい?」と目を輝かせて聞く子どもに、「小さいお菓子は3つまでよ!」と言いながら。

Twitterに書いてみた。以下全文。

Twitterにいろんな想いを書きたくなることがあって、納得するまで止まらないことがある。

困ったことにそれは毎月恒例となってしまった。

いいね。を押されるとまた調子にのるので押さないでいただきたい。いや、押してください。撤回します。めちゃめちゃ嬉しいです。

Twitterに書いた言葉。

夢がある 小さなお店に たくさんの本 コーヒーや紅茶に軽食があり 座敷もあって お母さんや小さい赤ちゃんが来れるお店 午後には小学生もくる そこで勉強や宿題をしてご飯を食べて帰る 想像しただけ そんなお店を 想像した 。

いろんな人と 出会う いろんな人と話をしてきた 会話の中で ちょっとした問題を 抱えているのを感じたりもした 気づいていないだけで 本人は平気そうだけど 外では強い存在で 在りたいのだろう そうしなければならなかった 家に帰り着くと 仮面を被らなければならなかった

小さな悩み というのは 蓄積する しんしんと 降り積もる雪のように ゆっくりと それがだんだん大きくなり 気づいた時には 誰かの助けがないと 身動きすらできない状態になる なぜそうなる前に何も出来なかったのか? 否 直視できないでいたのだ それを見ると 絶望するからだ 人は弱い。

弱く脆い存在 それこそが人である だがどういうことだろう 手をとりあい 互いの欠点を補うかのように 誰かが誰かの暮らしを支えるようになる
わたしは飛べない だがそれを誰かが造り出し 遠くの地まで運んでくれるようになった。

わたしは粉ミルクをつくれない だがそのおかげで 母乳が6ヶ月しか出なかった私は救われた 

鉄欠乏性貧血で血が足りない 血液から母乳が作られるのを知っていた 出産で血が大量に失われ さらに母乳を作るための血が足りなかったからだ。

ひとりで生きているようで そうではない 時に手を差し伸べてくれる存在がいて 救い救われる これを驚かずにいられるだろうか 当たり前に受け入れてしまっていたら それは感覚が 麻痺しているときだ わたしも時々忙しさで麻痺することもあるが ゆっくり時が過ぎた後にひょこっと顔を出すのだ。

長い。実に長い。なげぇわ。

140文字を超えてつらつらと書いている。

なにか乗り移った感覚でたんたんと無表情で書いているので、もはやAIが私に乗り移ったのか?心を読んで書かせているのではないか?とさえ思ったがやはり私の指先がさくさく動いて書いている。

信じられない…。

無口な存在にならなければならなかった


小学3年生くらいまで心の声が外に出てしまう子どもだった。

上級生から『頭の中でしゃべっとけよ!』と言われ、頭の中でしゃべることへの理解が出来ないでいた。

頭の中とは?

思ったことを口にする子供だったので『頭の中』というものの存在とそのやり方についてだいぶ悩まされた。

おばあちゃんやおじいちゃんだってテレビに向かって思ったことをすぐ言うじゃないか。「でも誰にも怒られない。いいなぁ…。」と思った。

そのうち無口になり、というかしゃべることを自分で禁止した。授業や質問といったもの以外は自分から話さないと決めた。

もごもごと口を動かしそうになり、への字に歪んだ自分の口を手で覆い隠すようになった。
それが難しいこともあるので、今度は本で顔を隠すようになった。

そうしているうちに本を読みだすきっかけになった。

最初は文字を読むのが苦手で絵が多いものを選んでいたのだけれど、だんだん文字に慣れてきたらそれを目で追いながら頭の中でイメージが創られることに感動した。

本が大好きになった瞬間だ。

誰とも遊ばず図書室に逃げ込み、昼休みは読書の時間に全部あてる。

話をしない代わりに本の世界で自由に考えを巡らせて楽しんでいた。

大人になった今では頭の中でさまざまなことを考えることが出来ている。

それを文字にしたらとてつもない文字数になってしまうし、内容も順番もめちゃくちゃなので整理するにしても追いつかないだろうな、とも思う。

だけれどエンジェリックレイヤーのようにプレイヤーがイメージした動きをエンジェルと呼ばれるロボットがそっくりそのまま動かせる時代が到来しそうなので、私は未来にわくわくしている。


※ちなみに、エンジェリックレイヤーとはCLAMPの作品で独特な絵と物語が人気な漫画です。
他にも、カードキャプターさくら、レイアースなどがあります。





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