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瞑想とマインドフルネス

こんにちは、猫ねっこです。

瞑想という言葉にはたくさんの解釈のされ方があります。昨今話題のマインドフルネスについても然りですね。

今回はマインドフルネス的なものから宗教的なもの、殊に仏教的なものまで大まかに述べます。少し秘教的(esoteric)に踏み込んだ内容ですが何卒ご容赦くださいませ。

抑も、マインドフルネスは数息観(呼吸を数える)などと上座部仏教から切り取った手法である事は明白です。歴史的にもみても戦後の時代に米国で広まったものであり宗教的純粋さには欠けるものでしょう。
その数息観は瞑想の導入でしかありません、慈悲やそういったものを大いに味わって観想する為の準備段階です。即ち呼吸制御で現在の身体に意識を持っていって過現未を想う雑念を押さえ込むのです。

しかしその数息観すら雑念にこそなります。呼吸の事ばかり考えていてはやはり直感は鍛えられないと思います。補助輪のようなものである程度慣れてきたらそこまで大切なものではありません。マインドフルネスとしては雑念をある程度止める事で理性の下で五感を大いに味わうその段階に来れば目的としてはここまでで達成でしょう。そうして主観的な幸福を感じてゆくと。

宗教的な瞑想はこの様な流れとはその目的が違います。あくまでも我々の心の本質は全世界的な(主客が溶け合う)ものであるという前提で、それと共に祈り込む、即ち瞑想するのです。
あなたとあなた以外ではあなた以外の方がこの世界では多くを占めます。よって宗教では利他を強調するのです。その様な心の下では無限に幸せなのでありますし、心理学的に言えばそうなるように自己暗示を行ってゆくと言えましょうか。

神仏と共に悍ましいほどの幸福を味わうのです。私の私淑する思想家(戦前期)が云うには、催眠(ここでは暗示の意)を自己に向けたならばそれは一種の瞑想の端緒となりうる、様です。

自分の苦しみは他に気持ちが向けば、即ち神仏を祈ればその苦しさが主観的に少し軽減されます。あなたを含めたこの世界全てを無限の時の中で救い続けてくださるのがみ仏様のご誓願であり、あくまでもそれに沿い従う、その様な思考を前提にそこから主観的な感情を編み出し大いに味わうのです。思考から感情を生み出すことが、その過程が秘教的にとても重要です。随意に感情を操るにはこの思考と感情の関係を体験して、そうして意識の光で照らす、即ち意識下に持ってくる事が肝要の様です。

そうして正しい感情の昂り(宗教的高揚)を扶(たす)ける為に良い姿勢、即ち丹田を意識した正しい姿勢で行い、戒律が許すのであれば正しい真言を唱えて正しい印を結び仏様のご請願と自分自身が溶け合ってゆくその深い暗示を強める道具とするのです。

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