2022年9月公開新作映画感想まとめ

この子は邪悪

 登場人物や舞台設定などがコンパクトにまとまっており見やすい一本。オチは冷静に考えるとかなり突飛なのだが、そこに至るまでの作劇の積み重ねと作品の雰囲気作りが丁寧なので、破綻した印象はなく、すんなりと受け入れることができる。特に主人公の父親を演じる玉木宏の怪しげで色気のある演技が、本作の陰鬱で閉塞的な雰囲気の醸成に多大な貢献をしている。この役が玉木宏でなかったら、この作品の面白さは一、二段落ちていたであろう。


 残念だった点としては、物語の謎を追う南沙良演じる主人公の花が、話の流れからして絶対に身の危険にさらされないことが確定しているため、ホラー映画的なスリルが決定的に足りない点。この部分は、もう一人の主人公である大西流星演じる純が担っているものの、この作品の中核の事件においては中心人物ではないため、クライマックスまではこの役割を担えていない。また、サスペンス風の入りで始まりながらも最後は完全なるオカルトで幕を下ろす作品であるために、クライマックスで若干肩透かしな印象になってしまう感も否めない。このオチであれば、序盤からもう少しオカルト味を出しても良かったかもしれない。


夏へのトンネル、さよならの出口

 中に入ると願ったものが得られる代わりに、外の世界よりも何千倍も早いスピードで時間が流れてしまう”ウラシマトンネル”を偶然に見つけてしまった少年少女の姿を描くアニメ作品。”ウラシマトンネル”というSF的かつファンタジー色の強い入口から、大切な人を失って空いた心の穴を埋めるのは、やはり大切な人との繋がりであるという非常に普遍的な物語に帰着していく暖かい一本に仕上がっている。登場人物がかなり絞られており、物語の大半は主人公の塔野カオルと花城あんずの二人だけで進行していくが、その分、二人の距離が徐々に縮まっていく様が丁寧に描かれている。二人の距離が縮まるにつれて、最初はミステリアスな雰囲気を纏っていたあんずが、実は若者らしい悩みを持つ年相応の少女であることが明らかになっていき、一方で、カオルの暮らす家庭環境の苛烈さもこれと並行して明かされていく。これにより、観客の感情移入の対象が途中でカオルからあんずに切り替わっていくのだが、これが作品の展開とリンクしており、巧みなストーリーテリングになってる。この手のアニメ作品としては珍しく主人公の男女が二人とも低体温なキャラクターなのだが、これが作品の雰囲気を地に足のついたものにしており、この点も良い。


 本作は舞台が2000年代初頭であるため、主人公たちはガラケーを使っており、iモードらしきサービスを使用している。本筋からずれるが、本作ではこのガラケーが非常に優秀な小道具として機能している。主人公たちがガラケーを使っているという描写だけで時代設定がだいたい分かるという点は当然として、トグル入力がゆえにまどろっこしい文字入力、メールセンターに接続してメール受信するひと手間、受信ボックスにメールがたまったり、それを消したりする際の感情の揺れ、とその一つ一つが少年少女の不器用な恋愛の一喜一憂やもどかしさとこのうえなくマッチしている。ガラケーがすでに二昔前のレトロなデバイスになっていることに若干愕然とするものの、ガラケーが当時以上に作品のスパイスとして機能するポテンシャルを秘めていることに気付かされた作品でもあった。


 ラストの展開については、冷静になると色々とツッコみたい気持ちもわかないではないものの、この作品に関して言えば、そういったことを言うのは野暮というものである。少年少女たちの成長を描くSF青春アニメは毎年夏に1本は観たくなるものだが、本作はこういったジャンルの作品としては非常に落ち着いた作風で一風変わっており、それゆえに鑑賞後にビターなのに爽やかな独特な感情が残る作品となっている。一見の価値ありだ。


沈黙のパレード

 物理学者・湯川学を主人公とした推理ドラマシリーズ『ガリレオ』の劇場版第3作。歌手を志す女性が突如失踪し、3年後に遺体となって発見されたことをきっかけに、彼女の周囲の人間と殺人事件の犯人と目される男との間で起こる事件を描く。



これまでの劇場版『ガリレオ』二作はTVシリーズとは一線を画し、いわゆる日本のドラマ的なキャッチーさやポップさをかなり削ぎ落とした堅実で渋めな演出がなされているが、本作もこの流れを踏襲しており、ウェルメイドなミステリーに仕上がっている。原作がある作品とは言え、福山雅治、柴咲コウ、北村一輝というオリジナルキャストを配した9年ぶりの完全新作という非常に話題性の高い作品で、変に媚びた浮ついた演出を一切しなかったところが、”良く分かって”いて好印象だ。


 かなりの数の登場人物たちが絡み合う重層的で複雑なシナリオになっており、どんでん返しが何回も訪れるため、最後まで息をつく間もなく意表を突かれる作品となっている。非常に良く出来た後味の悪い話といった感じで、ストーリー的には比較的地味なのだが、1本のミステリー作品として上質な作品に仕上がっている。ただ一方、二転三転する慌ただしいストーリーがゆえに、殺人被害者遺族の空白感や憤りといった心情面については、シナリオ的にはそこまで掘り下げられていない印象。とは言え、この点については、ベテラン揃いの俳優陣が演技でしっかりと補ってくれている。特に、被害女性の父、並木祐太郎を演じる飯尾和樹と、祐太郎の親友の戸島を演じる田口浩正のラストの演技が、事件後に遺された人たちの虚しさとそれでも明日を生きていく力強さを短いシーンながら端的に表現しており、強く印象に残った。


雨を告げる漂流団地

 忍び込んだ取り壊し予定の通称「おばけ団地」が突如海を漂流しだしてしまったことから始まる少年少女たちの奮闘を描くアニメ作品。かなり突飛な設定でファンタジー色の強い物語でありながら、少年少女の心の交流と成長を繊細かつ丁寧に描いた作品。


 可愛らしいタッチに反して、慢性的な食糧不足に悩まされるかなりハードなサバイバルが展開され、さらには、中盤から終盤にかけては大海原に別の建物も出現することで、作品に冒険ものやアクションもの、さらにはディザスタームービー的な要素も投入される。そのため、全体として非常にエンターテインメント的な見せ場の多い作品となっている。ただ、この冒険活劇の面白さもさることながら、本作の一番の肝は主人公たちの丁寧で繊細な心情描写にある。


 本作の主要登場人物は、おばけ団地で漂流することになってしまった小学生たちと団地に住む謎の少年の7人だが、その中でも特に幼馴染の航祐と夏芽の2人が中心人物として描かれており、特に夏芽の心情の変化と成長が物語の中核を担っている。姉弟同然に育った二人だったが、航祐の祖父の死をきっかけに夏芽は祖父が生きていた頃の思い出に囚われるようになり、航祐も夏芽とわだかまりが生まれてしまった過去のあるアクシデントを克服できずにいる。この心が離れてしまった二人が、漂流生活の中で徐々にお互いを理解し、また心の距離を近づけいてく様が、アニメ映画的エンターテインメントのその裏で実に周到に積み上げられていく。そして、クライマックスで少年少女たちを襲う、ある大事件によって、この二人の関係に決定的な変化が訪れる。アクション映画的なカタルシスの解放と、ジュブナイル映画的なカタルシスの解放が、完璧にリンクする、このクライマックスは傑出の出来だ。これぞアニメ映画!大感動である。


 海を渡る団地という非常にファンタジックな題材とアニメという表現技法の相性の良さは当然のことながら、少年少女たちがサバイバル生活の中で案外ギスギスしているにも関わらず、そこまで嫌な気持ちにならずに観れるのも、アニメという表現方法がゆえだ。また、本作においては、主人公たちが小学6年生という、大人への階段を登り始めているものの、まだ、恋愛感情はあまり生まれていないという絶妙な年齢設定であることにも物語上の大きな意味があり、この年齢の子どもたちの瑞々しい心の動きを違和感なく描くというのも実写ではなかなか難しいところだと思われる。このように、本作における様々な重要要素がことごとくアニメという表現技法にマッチしており、まさにアニメでやることに大きな意味がある作品であると言える。ペンギン・ハイウェイから4年、長編3作目にして、スタジオコロリドは早くも大傑作を生み出した。


アバター:ジェームズ・キャメロン3Dリマスター

 地球から遠く離れた惑星パンドラに希少鉱物を求め降り立った人類。パンドラの希少鉱物を採掘すべく、人類はパンドラの先住生物ナヴィと交渉を行うが難航する。そのため、人類はナヴィを模した人造生命体アバターを作製し、そこに人間の意識を転送してナヴィとの交渉人とする計画を立案する。アバターの操作員として選ばれた主人公ジェイクは、ナヴィとの交流を通じて、人類とナヴィとの激しい戦いに巻き込まれていく。


 本作のウリはなんと言っても圧倒的な映像表現。美しく広大な山々をバックに、ナヴィたちと縦横無尽に大空を飛び回るような鑑賞体験は実に爽快だ。この爽快感は3D映画なればこそであり、3Dと大画面という2条件が揃うか否かでかなり感想も変わってくるだろう。本作は3D作品であることが相当に意識されており、意図的にかなり遠方まで見通せるようなカット割りが多様されている。ナヴィたちが巨木を生活の拠点としていることも、巨木の周辺が急峻な山々に囲まれていることも、ナヴィたちが木々を伝って飛ぶように移動し、時には翼竜のような生物の背に乗って空を駆るのも、全てはこの映像の設計思想から想起された設定であろうことが伺われる。また、本作では惑星パンドラの原生生物や原生植物が多く登場するが、これらはファンタジー的な味付けをされながらも、地球の動植物からは大きく離れないようにデザインされている。これにより、本作は自然映像としての心地よさも有している。かと思えば、物語終盤では非常にSF的な巨大空母やパワーローダー的な無骨なロボットスーツが縦横無尽に大暴れする展開が用意されており、エンターテインメントの詰め込みに余念がない。


 このように映像体験の心地よさに重点を置いているためか、ストーリーは非常にシンプルだ。オーソドックスな「開拓者と先住民」の物語をベースに、描かれる登場人物もかなりステレオタイプである。なので、ストーリーに関してはそこまで言及することがないのだが、一点、本作が特異なのは、主人公のジェイクがナヴィの文化風習を学ぶ展開の尺がかなり長く、かつ、この文化風俗の描写や設定が思いの外精巧であること。ジェイクがナヴィの風俗を学ぶパート自体は、正直言って若干冗長で退屈なのだが、終盤でここで描かれるナヴィの特異な風俗がかなり重要になってくるうえに、「多民族の文化風俗にリスペクトを持ち、理解に努めようとした主人公たち vs 多民族への文化風俗へのリスペクトがなく、自分勝手に蹂躙しようとする人類」という後半の構造に説得力を持たせるための描写なので、ここが長くなるのは仕方がないところ。ここを拙速に済ませてしまうと、いよいよ、お気楽異世界転生になってしまう。ただでさえ、先住民族とのコンタクトにおいて大きな障壁となる身体的特徴をアバターという設定で飛び越えてしまったり、よそ者である主人公が終盤であっさりとナヴィの英雄的ポジションに収まってしまったりと、都合の良い展開が多いのだから。


LAMB/ラム

 飼っていた羊が産み落とした半人半獣の子供を、自分たちの子として育て始める羊飼いの夫婦の奇妙な生活を描いた作品。


 禁忌に触れてしまった人間たちの顛末を民話的なストーリーで描いており、テーマやメインの物語は悪くない。しかし、約1時間半の尺に対して、どうにも内容が薄く、オチまで含めてこちらの想像を超える展開も起こらないために、あまり盛り上がることなく終わってしまっている印象だ。話運びに関しても、羊から生まれた子供”アダ”の首から下が人の体をしていることや、主人公の夫婦がかつて子供を亡くしていることなど、物語上の重要な情報があまり意味もなく長く伏せられたまま話が進行していくために、主人公たちの心情の機微が無闇に掴みづらくなっていて良くない。また、演出面で言うと、半人半獣の子”アダ”しかり、主人公夫婦に飼われている羊たちしかり、出てくる動物たちがなんとなく画面に可愛らしく映ってしまっているのも、作品の雰囲気を削いでいるように思えてならない。特にアダは可愛らしさと生理的な気持ち悪さが同居していないと作品の雰囲気が締まらないはずなのだが、CG合成が自然すぎるがゆえに逆に違和感が減少して可愛らしさが勝ってしまっており、もったいない。


 一方で、主人公たちの住むアイスランド山間部の寒々しい空気感や、主人公夫婦の間に漂う空虚さを象徴するような白夜の光景などの風景描写は実に良いし、主人公たちの羊飼いとしての日々の仕事の風景の切り取り方も優れている。このように作品の雰囲気作りという点では、見るべき点は多い作品であると言える。また、本作は、上述のとおり、出てくる動物やクリーチャーたちの雰囲気が、ホラー映画にも関わらず一様に妙に可愛いのであるが、それは逆に言えば、動物の魅力を引き出すのが上手いということでもあろうと思われる。非常に逆説的になってしまうのだが、正直、本作がホラーでなければ良かったのにと思ってしまう。


マイ・ブロークン・マリコ

 親友のイカガワマリコの訃報を聞いたOLのシイノトモヨが、彼女を虐待していた父親からマリコの遺骨を強奪し、生前彼女が行きたがっていた浜辺の街を目指して旅に出る姿が描かれる。本作は親友のマリコの遺骨を抱えたシイノが旅をする姿を通して、シイノのマリコへの愛情、憤り、後悔といった一筋縄ではない様々な感情が丹念に描かれる。登場人物もシイノとマリコ以外のキャラクターの登場は必要最低限に絞られており、シイノの感情の動きだけにフォーカスを当てている。


 本作の優れている点は、マリコという人間を非常に重層的に表現し、単純な悲劇のヒロインとして描かなかった点である。マリコは実の父親から激しい虐待を受けて育つという悲劇的な側面と、ろくでもない男とばかり交際し、身を滅ぼしていく破滅的な側面を併せ持った人物として描かれる。これに対し、シイノはマリコを被虐する者たちに怒りをむき出しにしてマリコを守るが、破滅的な方向へばかり身を置こうとしてしまうマリコへも憤りを顕にする。本作の丁寧な演出の積み重ねにより、どんなに愛する人間でもどうしても理解が到達できない部分が存在する悲しさや無力さ、ポジティブなだけではない憤りや怒りすらも内包しうる愛情の複雑さが色濃く浮かび上がり、シイノやマリコが血肉の通った人間として立ち上がってくる。本作における旅は、暴漢に襲われる少女を見かけたマリコが、少女にマリコの姿を重ね、とっさにマリコの遺骨で暴漢を殴り飛ばすことで終焉を迎える。私は、マリコの抱えていた自分の理解の及ばない闇を汲んでやれなかった自分に絶望したシイノが、それでも彼女を助けたいという心がまだ自分の中に強く残っていたことをこの行為によって再認識し、それによりシイノの心に一つの区切りがついたのであろうと解釈している。


 さて、本作は平庫ワカの同名漫画を原作とし、この原作を可能な限り忠実に実写化した作品となっているのだが、これについては上手くいった点もあれば、あまり上手くいかなかった点もあったように思う。上手くいっていないと感じる点は、マリコの独白を原作に忠実にしすぎたせいで、シイノの台詞が説明的すぎる点がまず一つ。表現技法として、映画と小説の間くらいに位置する漫画の場合、主人公の独白やモノローグが多用されてもそれほどの違和感はないのだが、これをそのまま映画に持ってきてしまうと、冗長で自然さが失われてしまう。本作はほぼシイノの自問自答で構成されているため、この点はもう少し映画用にうまく換骨奪胎すべき点であったと考える。また、シイノは怒鳴るシーンや威嚇するシーンの多いキャラなのだが、主演の永野芽郁はここで求められるドスの利いたヤンキー芝居はあまり出来ていなかったように感じる。マリコとの二人の緊迫感のある静かなシーンは非常に良かっただけに、この点は残念なポイントだ。


 一方で、クライマックスの一面に黄金色のススキが広がるシーンの神秘的な雰囲気は、原作を超えた空気感を作り出せていた。暴漢に襲われる少女に在りし日のマリコの姿が重なる幻想的なシーンを、この少し現実離れした映像が実によく盛り上げており、シイノが暴漢を殴り倒す一連のシークエンスのスピード感と緊迫感の演出も実に乗っていた。また、本作では漫画を映画に翻案するうえで、全体の流れを自然にするためのいくつかシーンが映画オリジナルで付け加えられているのだが、このオリジナルシーンもどれも意図通りの機能を見せている。特に最終盤のシイノとマリコがビルの屋上で線香花火をするシーンは、原作漫画では意外と描かれていないシイノのマリコとの平和な楽しい思い出をうまく補足している良いシーンである。


秘密の森の、その向こう

 8歳の少女・ネリーが母の生家の裏の森に入っていくと、そこには自分と同じ年の頃の母・マリオンがいた。


 森を通って現在の母の生家と約20年前の母の生家をネリーと子供のマリオンが行ったり来たりするという本作。冷静に考えると相当SF的な作品なのだが、作品自体にはそういったSF的な臭いはなく、暖かく穏やかなものとなっている。本作では、ネリーと幼少期のマリオンを双子の姉妹のジョセフィーヌ・サンスとガブリエル・サンスの2人が演じているのだが、この2人の演技が実によい。作品のほとんどはこの2人が遊ぶシーンで構成されているが、この2人の演技トーンが適度に抑えられており、いわゆる子役らしい演技というものは本作ではなされていない。そのおかげで、小学校低学年くらいのおとなしい女の子たちが遊んでいる空気感の非常にリアルで、全編を通して実に微笑ましいものとなっている。遊ぶシーン以外でも、例えば、ネリーがマリオンに連れられて、昔の母の生家にやってきたときのシーンは個人的に印象深い。自分がタイムスリップしているということを悟っているにも関わらず、ネリーのリアクションは異様に薄く、ここでもローテンションの演技トーンが保たれている。これが逆にリアリティを高めており、「子供って困惑すると、こんな感じで反応薄くなるよなぁ」とクスッと来てしまう。とにかく全編を通して、子供を子供らしく映し出すのが非常に上手く、また、その演出プランの要望に主演の子役2人が実に的確に応えているため、本作はこの相乗効果で稀有な牧歌的な空気感の醸成に成功している。


 本作の主題は娘が幼少期の母や若き日の祖母と出会うことで、自身のルーツを知るというところにある。ただ、このルーツというのも、何か家庭に隠された大きな謎を解き明かすといったような大仰なものではなく、「お母さんも自分と同じくらいの年の頃にはこんな不安を抱えていたんだ」であるとか、「おばあちゃんって、元気な頃はこんな人だったんだ」といった些細なものである。ただ、本作ではこういった些細な気付きが、娘が母に抱えていた不安を溶かし、ラストで離れていた娘と母の心の距離を少しだけ近づけてくれる。このミニマムな作劇が実に暖かく寓話的で、胸をほんのり暖かくしてくれる。

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