壱番街

第7話:『壱番街サーベイヤー』22

 「――っ」

 両の足が大地を離れる。絶望的な浮揚感。

 回避不能の颯真の拳を、真凛は身体を浮かせて受け止めることで対処した。これ以外の方法はなかった。小手先で捌ける拳ではなく、四肢を踏ん張って受ければ膨大な剄が内蔵に突き抜け、その時点で勝負は決していたのだ。

 必至の展開。そしてこれは詰みである。

 身体が宙にあるということは、いかに四肢に力を込めても反動を得られず姿勢をただすことが出来ないと言うこと。ただ物理法則のままに後方に流され、上昇し、下降する――その落下点に、すでに颯真が滑り込んでいた。渾身の一打を見舞った硬直状態からなお下肢に剄を注ぎ込んで前進する歩法の神髄。そして、

「吩!」

 息は継げない。筋肉で臓腑を締め上げ血流を加速。残存剄のすべてを焼杓し、颯真が舞った。

 四征拳六十五手の二、『廻風打雷(かぜめぐりていかずちをうつ)』。

 宙に舞い上がりながら次々と致命の連撃を繰り出すその威力は四征拳の中でも最大級を誇る。とはいえ所詮は初歩の手、隙が大きい演武用の|花紹(みせわざ)。実戦で当たることなどほとんどない――たとえば、相手が宙空にいて身動きが出来ないような状況でもない限り。

 『竜尾』、『竜爪』、『竜顎』、『懲雷』。

 旋を巻いて暴風と化した『朝天吼』から放たれる、弾腿、鉤手、手刀、斧刃脚。何れも必中必殺。肉と肉がぶつかり合う音では断じてない爆裂音が四つ響き、七瀬真凛は跳ね上げられ、捻じ曲げられ、そして大地に打ちつけられた。

「真凛さん!」
「――マジかよ」

 我知らず声が漏れた。真凛が一方的に敗れ、地面に倒れ伏している。起きあがる気配すらない。異常な沈黙。戦端が開かれてから一分も経過していない。

 それは、居合じみた立ち会いだった。颯真は最初から全身全霊を研ぎ澄ませ、一撃で仕留める肚だったのだ。

 おれは己の迂闊を呪った。

「…………ッ!カァッ!ハッ!」

 だが当の颯真も、真凛に近寄って止めを刺すには至らなかった。百の力を出す躯体を、自己暗示と呼吸法によって百五十の出力で駆動した代償。

 わずか数秒の動作でありながら、深海へ素潜りを敢行したダイバーのように、停止かけた心肺を再稼働するのが精一杯の状態だった。今の一撃と引き替えに、奴のインナーマッスルや四肢の筋肉は内出血でズタズタのはずだ。

「…………これが……我が研鑽の到達地。四征拳が六句の領域よ」

 崩れ落ちようとする膝に手をつき、颯真が体を起こす。真凛は完全に動かない。あとは震脚で頭を踏み抜けば、それで終わりだ。呼吸を整え、一歩、二歩と距離を詰める。

「動かないで」

 おれは反射的に真凛に駆け寄ろうとしたファリスを制する。

「ありゃ獣だ。今のアイツに近づけば、君が女性だろうがキーパーソンだろうが、かまわず首を叩き折られかねない』
「でも、あのような恐ろしい敵が相手では……!」
「なに、これでもウチらも一応、向こうから見れば『恐ろしい敵』に該当するはずだし、それに……』

 おれは観察を終え、半歩引いた。無意識に握り込んでいた手に気づき、指を屈伸させる。

「勝負はこれからだしね」


「……立つか……」

 颯真が目を剥く。そこには、颯真以上に無残な有様ながら、立ち上がり颯真を見据える真凛の姿があった。

「心への一撃はもとより……、肺脾肝腎……すべてに勁が|徹(とお)ったはずだ。なぜ立てる?」

 その問に込められていたのは、必勝の布陣を破られたことへの深刻な疑問か、己の想定を上回ってみせた好敵手への讃辞か。相対する真凛の方はといえば、息がある自分が信じられないといった体で己の両掌をまじまじと

「……昨日までだったら……詰んでたかな」

 などとのたまった。

「……うん。確かに。昨日のアレだよ。空中で、重心をつくるコツ……」

 腕を重たげに掲げ、構える。おそらくその骨肉と臓腑には、大型トラックに衝突された時と同等のダメージが蓄積されているはずだ。

「……おっけ、だいたいわかった。次はもっとうまく行ける……!」
「化生め……!」

 おそらく真凛は、昨夜の『南山大王』との戦いで見せたカウンターの一撃で、中空に浮いた状態で軸を作り回転し衝撃を逃がすコツを身に着け、それを以って颯真の連撃の衝撃を幾許か相殺したのだろう。

 血のにじむような研鑽で得た技をその場の勘で凌がれた颯真の憤怒は想像するにあまりある。センスなどという都合の良い言葉で片付けるには残酷すぎる現実だった。

「……良いだろう。ならば次は」

 全身にダメージを負った真凛と内功を使い果たした颯真。どちらも調息は済ませた。足りないものを嘆くのは死んでからいくらでもできる。手持ちの札で最善を尽くすだけのこと。決着をつけるべく激発をーー。

「陽司!」

 だが真凛が視線を向けて叫んだのは、おれの方だった。

「――っ!」

 その一言。それでおれは真凛が何に気づき、自分が何に気づけなかったのかを理解した。後ろを振り返りざま、咄嗟にジャケットの内ポケットから『アル話ルド君』スタンガンモードを抜き放とうとするが、手首にしたたかな衝撃を受け、あっさりと取り落とす。

「亘理さん!」
「……いや、まんまと引っかかりましたよ」

 おれは手刀を叩き込んだ相手……背後に回り込んで、皇女を拘束した美玲さんを見やった。さっきまで間違いなく颯真の向こう側にいたはず、などという認識はこの『双睛』には通じない。

「瞳術の類には気をつけていたつもりだったんですがね」
『ええ、警戒している貴方に繊細な幻覚が通じるとは思っていません。坊ちゃま達に意識を向けて視線から外れた隙に、距離感だけを騙させていただきました。タネはシンプルな方が引っ掛けやすい。先日高速道路上でとある人に身をもって味わわされましたので』
「そりゃ恐縮……!」

 相手の視野を利用して意識を誘導するのは、スポーツでも戦術でも基本である。おれの周辺視野の隅に己の姿を認識させつつ、距離だけを詰めたというあたりか。

『では再見。無駄な抵抗は怪我を増やすだけですよ。貴方が生身で私を制圧できると思う程、愚かではないでしょう?』

 何らかの体術なのだろう、己の片腕を皇女の片腕に絡めるだけで、完全に動きを封じている。残りの手足は完全にフリーで、おれがつかみかかっても一蹴されるのがオチだった。

「……ええ。確かにこりゃ打つ手なしでしたよ」

 おれは息を落とす。

「昨日までは、ね」
「はい!」
『なっ!?』

 驚愕の声を上げたのは美玲さん。先程まで観念した人形のようにぐったりとしていたはずのファリスが突如自由な方の腕を跳ね上げて突き出したのだ。

 並外れた美玲さんの動体視力なら捕らえられただろう。皇女がポケットから抜き出したのはーーおれが渡しておいた、予備の『アル話ルド君』、スタンガンモード。

『劉颯真の打撃の衝撃は』

 電撃の威力は想定済み。最大規模ならば『双睛』であろうとも暫時の無力化が可能だ。

『……くッ!』

 咄嗟の判断、拘束を解除して皇女を突き飛ばす。一度皇女と距離を取り、俺を打撃で無力化し、再度拘束する。妥当かつ有効な戦術だろう。

『亘理陽司の体内に』

 俺は踵に重心を移し、ふたたび体を反転する。俺の背中があった空間から躍り出て、

「せいっ!」

 疾走した七瀬真凛が『双睛』に迫る。その背後からは、真凛を決死の形相で追撃する劉颯真の姿。

「そこを退け!」
『留まらない!』

 おれは背後に向き直ると同時に漫画で読んだクロスアームブロックを固め、颯真の掌打を受けた。

「ぬっ!?」

 おれの足元から異音が響いた。

 おれが踏みしめていた地面が、割れたのだ。

 理科の実験室にある金属のカチカチ玉のアレめいた感覚。あるいは、剛速球をバットの真芯で打ち返した時、腕にはむしろ反動がほとんどない時のアレ。いくつかの要素が揃った時に、物理法則に反していないのにまるで魔法のように現れる怪現象。颯真から打ち込まれた勁が、きれいにおれの骨を伝わり、地面に100%抜けていく。

「亘理……陽司ぃ!」
「わりぃな!手の内バレてるのはお互い様さ!」

 相手の名前と攻撃方法を知っているからこそ可能な賭けだった。そして当然、二打目を無効化する方法はない。颯真が残った力で振るった一撃で吹き飛ばされ、おれは地面に転がった。時間稼ぎにはこれで十分。

「ファリスさんから……離れろっ!」

 ファリスと美玲さんとの間に割り込んだ真凛が貫手を放つ。こちらも満身創痍ながら、技の冴えはまだ健在。それをがっき、と受け止め、

『なるほど、『竜殺し』、坊ちゃまが執心する理由も納得です』

 霍美玲は真凛を品定めするかのように見つめる。至近距離で交差する両者。

「………………、いいでショウ、よくわかりましタ」 
「………?」

 怪訝そうな表情の真凛。数秒の均衡状態の後、美玲さんは一歩退き、構えを解いた。

「アナタたちにチカラ技を用いても、ファリス皇女を奪い取ることは不可能ということデスネ。……坊ちゃまも納得していただけましたカ?」
「……確かにな」

 ダメージはないはずだが、全身の勁を使い果たしたのだろう、滝のような汗を浮かべながら颯真が喘いだ。

「七瀬。お前の底力は見せてもらった。時間が経つほどに手がつけられなくなるということもな」
「さっきの技は危なかったよ。ライフル弾より避けられる道筋が見えなかった」
「あれが俺の現時点の力だ。四征拳の七、八、九句はこれを応用し千変万化させる」
「そんなこと言っちゃっていいのかな?」
「構わん。一撃で仕留めるつもりでアレを放った。耐え切られた以上、虚像を盛ってもしかたがない」

 先程の苛烈な戦意はどこへやら、颯真は何か不分明な表情でなにか口の中で呟いたあと、

「帰るぞ、美玲」

 と告げてさっさと立ち去ってしまった。

「……こりゃどういう風の吹き回しですかね?」
「さテ?いずれにせよ、決着はもうスコシ先ということでしょう。それでは亘理サン、七瀬サン、皇女殿下、またの機会に」

 艶やかな笑みを一つ投げると、美玲さんも悠々と去っていった。

「……なんだったんだろ、あれ」

 いきなり襲いかかってきてあっという間に立ち去ったMBSの二人を見送り、おれ達はしばし呆然としていた。こちらから追撃をかけるには真凛のダメージは深刻だったし、あのまま戦闘が継続していればこちらが勝てた自信はあまりなかったのだが。

「引き続きおれ達に『箱』を探させようって腹づもりかな」

 だとすれば、ここで襲ってくる事自体が戦略的に非合理的ではあるが。

「って、ファリスさん、怪我はありませんか?」
「痛って!」

 おれを突き飛ばしてファリスに駆け寄る真凛。

「いいえ、私は全然、痛みもありませんでした。それよりも七瀬さん、あんなに凄まじい攻撃を受けて……」
「あ、うん、ダイジョブです。勁の攻撃だから今はめちゃくちゃ内臓キツイけど、呼吸で調律すればいずれ収まるから。骨とか肉が砕けてないぶん問題なしで」

 鼻を擦る真凛。と、ファリスはその手を両掌で包み込んだ。

「へっ!?」

 颯真との死闘で赤く腫れ上がった腕に軽く指を触れる。

「真凛さん、守ってくださって本当にありがとうございます。でも……どうか無理はしないでくださいね」
「い、いやいや!これくらいしょっちゅうやってますから!へっちゃらでございますから!」
「なんか語尾怪しくなってるぞお前」
「と、とにかく。大丈夫ですよ、次に颯真たちが来てもちゃんと追い返しますから」

 皇女の手を握り返してひたすら頷き返す真凛。その様は、姫と忠誠を誓う少年騎士のようで、悔しいが様になっていた。おれが同じことをやったらたぶん絵面的にいろいろアウトだったろう。

「……そうだ、ファリス、真凛。さっきはすまなかった」

 美玲さんの特技とはいえ、真凛と颯真の戦いに意識を向けているうちに気配を見失ったのは純然たるおれのミスだった。

「いえ、そんな」

 恐縮する皇女とは別に、ここぞとばかりに調子づく真凛。

「そうだそうだ、こっちは体張っているんだから、他のことはそっちで見てもらわないと!ふだんさんざん偉そうなこといってるんだから」
「真凛さん……」

 おれをしばし睨みつけたあと、ぷっと吹き出した。

「まあしょうがないじゃない。あのひとの気配の騙し方、ニンジャか詐欺師かって感じだったからね。ファリスさんも無事だったんだし、結果オーライじゃない?」
「お、おう」

 おれは間抜けな返事をして、ふと思い至った。これはアレか、ミスを気にしないよう、笑い飛ばしてみせたということだろうか。そういえばさっきの戦闘の際も、美玲さんの行動に気づいたのは真凛の方だった。

「どしたの?」
「……いや」

 気の回らない迂闊な後輩をサポートする、というおれのポジションも、もしかしたらそう長くはないのかも知れない。

「さて、とんだ邪魔が入ったが」

 おれは改めて視線の先、目的地たる旧倉庫を見やった。

「いよいよ、『箱』とご対面と行くか」

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