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読書メモ:山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮社)

注目ポイントメモ

セックスだぜ、おい、ぼくが注意されてるのは。あのセックスなんだぜ。

 この本を殊に愛する人は多いように感じる。それはやはり、主人公時田秀美が格好いいからだろう。 時田秀美は父親がいない。これはこの本で重要ではないが重要なことだ。恋多き母と恋多き祖父と住み、ショット・バーで働く年上の桃子さんとお付き合いする秀美は、幼い頃から父がいないことを基準にものを言われてきた。それが、それを含めた様々なことをクールに見る秀美をつくったのだろう。彼にとって父がいないことは重要ではない。しかし彼の中核を為す重要なことではあるのだ。
 そして、この物語にとってセックスもまた、大切な要素だ。しかし、セックスは象徴でしかないようにも思う。秘匿されているが、本質的で、しかし知らないふりをすることが大人とされるようなもの。その代表例はもちろん性的な事例であろう。しかし、上記のセリフの「セックス」は、代替する言葉が多数ある気がしている。「〇〇だぜ、おい、ぼくが注意されてるのは。あの〇〇なんだぜ」。そう言うことすら忘れて当たり前にしてしまっていることは、なんだろうか。


でも、おまえ、女にもてないだろ

 脇山氏は試験結果やクラス委員長という役職をアイデンティティにしている子だ。勉強ができないのにちゃらちゃらと人気者である秀美のことが気に食わない。そんな彼が「大学行かないとろくな人間になれないぜ」と言ったのに対し、秀美が言った言葉だ。 これは効くだろう。痛烈だ。別に女にモテるモテないは人生の全てではない。基準はいくらでもある。しかし、自分が頼っていた舞台とは違う舞台に相手が立っていることをまざまざと見せつけられることは、同じ舞台で負けるより時に悔しい。 自分が持っていないもの(それは時には持ち得るのにもはや高校生にもなると持ち得ないとしか思えないものであるかもしれない)を持って、そして特に自分より自由にしていると見える人間に対して抱く嫉妬・妬きもち・羨望・敬意、それらは全て消化不良になりやすく、胃を傷つける。
 ある舞台を大切にすることは重要だ。優秀な成績を維持する脇山氏の努力は相当なものだろう。一方で、ある舞台を絶対視すること/ある舞台で慢心することは…、脇山氏の顛末を見れば結果は明らかであろう。


いい顔になりなさいと諭す人間が少な過ぎるのだ。

 つまらないと一蹴されて、否定されたために崩れる脇山氏を見て。「ろくな人間にならない」と人を否定するという、傲慢な考えを当然のように教える人間がいる。否定は面白い。否定は面白いがいい顔は生まないのだ。最果タヒの『君の言い訳は最高の芸術』にも出てくるが、楽しみのための悪口は、美味しい。それは忘れてはならない。
 秀美も脇山氏を貶めてやる子供じみたところがあるが、脇山氏よりも勝ち負けの世界線で生きていない。一軸の世界線に生きる人は、ろくな人なのだろうか?


「不幸を気取っているからよ、ハムレットじゃあるまいし」 それは正しい。幸福に育ってきた者は、なぜ不幸を気取りたがるのだろうか。

 僕は不幸思考は得意である。気取っているつもりは皆無だが、本当にこうだ。言葉をたくさん得て、自分の位置を掴んでいるはずの者ほど不幸に感じ、不幸を口に出す。世界を規定する言葉を得たからなのだろうか?ラカンは言葉が全てに先行すると言う。つまり、不幸を言語化できて初めて不幸は立ち現れるのかもしれない。でも、違う気もする。 秀美は言う、「虚無なんていう贅沢品で遊べるような環境に、ぼくは身を置いて来なかったのだ。」 不幸は時に、贅沢品だ。秀美の母の言う通り、不幸はお腹をいっぱいにはしない。


「女の子のナイトになれない奴が、いくら知識を身につけてむだなことである。」

 女の子のナイトになるべきか否かは置いておこう。(どんな形でも誰かのナイトになるというのは大切なことかもしれない。別にナイトは戦うだけが仕事ではないのだ。)知識は嗜好品であるが、嗜好品に終わらせるには勿体ない物だ。知識は無形だ。貴方が知識を持っていることはそれを使用して初めて証明される。自己満足で人生を生きるなら表に出さなくても良いだろう。 ただおそらく、人間は自己完結の自己満足では生きられない。他者の承認なしに生きるのは難しいのだ。


心の不安は、肉体なんぞにかまってはいられないのだ。

 その通りである。不安症だと、本当に不安事以外のことが何もできないものだ。食欲も減退するし、肉体の敗北である。心身一元。御愁傷様人間。


ぼくは、自分の心に無骨に散らばっていた浪漫の芽をいつも桃子さんの言葉や仕草で育ててもらっていたのだ。

 人を育てるのは人である、と思う。対話の中で、関係性の中で人は成長するような気がする。孤軍奮闘、自学も大切だが、教師・同級生・先輩・後輩という「想定範囲外」のもののおかげなのだろうか、また学校では何か別のものが僕の感覚を育てていた。(それは大抵痛みを伴ったが。)
 それはさておき、僕も少年少女の浪漫が育てられる大人になりたいと思った。浪漫を育てるには何が必要だろうか?


自分の確固たる価値観を持つのは難しい。(中略)そこに他人の言葉が与えられることで、彼らは、ある種の道標を与えられる安心を得るのだ。

 朝帰りや家族内の殺人を取り上げ、寝たに違いないだのこれは酷いだのとコメンテーターが喋るワイドショウを見て秀美が思うこと。 このあと秀美は避妊具を廊下で落として学年主任に怒られるのだが、この際、学年主任は不純異性交遊が原因で勉強ができないのではないかと、兎に角彼の中の価値観を揺らがせないように、秀美を叱る。 僕らは他人の承認なしには生き難い。だけれど、価値観1つや2つは、目の前の他者で確認しなくてもいいと思う。目の前の他者とすべきなのは、承認前提の会話ではなく、本来創造の会話であるべきなのかも。 とはいえ、日常会話は承認の会話でも仕方ない。と言って、自己弁護しておこう。


すべては、そのことから始まるが、それは、事実であって定義ではないのだ。事実は、本当は、何も呼び起こしたりしない。そこに、丸印、ばつ印を付けるのは間違っていると、僕は思うのだ。

 父がいないことから、いいことをすれば父がいないのにすごい、悪いことをすれば父がいないから、と言われる秀美。彼は第三者の「父親がいないから、」という定義とその押し付けを憎んでいた。彼はその逆説を証明することで彼の正論を作り上げた。それは「他人が語れる存在にはならないという決意だ」。 僕らにとって言語化できない、説明できないものは基本怖い。「なんかよくわからないもの」を自然科学や社会科学で解き明かして、それでもわからない部分はいまだ怪談のようなもので補われている。 現前するものは言語化できる、それはつまり僕らの知っている既知概念内に収まるものであって欲しいという願望。それは時に誰かを枠に入れて窒息死させてしまうのだろう。 「分ける」は「分かる」。しかし「分かる」の為に「分け」ていいわけではない。難しい塩梅である。


体がさせていることは沢山ある。気取った人々は、いつも、頭の中の思考回路云々に話を持って行こうとするけれど、体がなければ、何も出来やしないのだ。

 脳だけで生きているわけではない。 「時差ぼけ回復」という編は多量の示唆を含んでいる気がするのだが、今回は「人間は本来1日25時間で生きる生物」という登場人物の語る前提がーー勿論本当かは留保されているがーー気になりすぎてあまり入れなかった。 でもぽかぽかとするのどかな電車の中、自死した友人を思う秀美に「ここで、寝てりゃ良かったのに」と言わせるのは、凄い。山田詠美氏は凄い。


ぼくは、衝動が肉体を動かすのと、作為が肉体を使うことの間にある差というものに非常に敏感な自分に、その時、気付いた。

 「媚びているじゃないか、こいつ。」目の前で唇を小さく噛む「美少女」を見て秀美は思う。 この文章は格好いい。この「賢者の皮むき」という編では「自然」と「人為」について繊細な記述がなされている。学校にいる美少女たちは皆、そのように生まれた、あたかも自然な「美少女」のように振舞っているが、それは見せない努力や自然に見せた媚びなどの行為と表裏一体であるということ。秀美はそれに気付いており、またそれを認めた上でその努力を認めてあげる方が良いように思っているが、周りはそうではなく、自然な「美少女」であると盲信している。「純情な少女は、そこに価値があると仕込まれているから純情でいられるのだ。」 少女性、というのは昔から甘美な主題であるが、少女性にはもれなく「自然」、少なくとも人為は混ざらぬ何か純然たるもの、というイメージがつくように思える。 といったって、そこそこの年齢の少女が自然なわけがないのだ。彼女らは第二次性徴による大きな身体変化を経て、人一倍他者の視線に敏感になる。 彼女らは、見えているよ。 因みにそういうことを考えるので、僕にとっての少女性はそのどう抗っても勝てない彼女らの絶対的勝者感(と僕の絶対的敗者感)と共にある。 そして秀美は思う、人の視線を受け止めるアンテナが視線を受けると人間は媚という毒を結晶させてしまう、その抜き方を考えねばならない、と。媚と毒。甘美である。


「もちろん、どんな文豪も、射精の瞬間には、そんなこと忘れているでしょうけどね」

 精神が身体を疎外することもあれば、逆もまた然りである。 僕らが悩む大半のことは、秀美の思う通り、射精の瞬間には忘れちゃうことかもしれない。性的快感は大ごとなのだ。
 …しかし、人間がそんなんだから、社会は変わっていかないんだろうなぁとも思うのである。


「セックスだぜ、おい、ぼくが注意されてるのは。あのセックスなんだぜ。」

 学年主任は不純異性交遊、要はセックスなんかに現を抜かすから、成績がよくないのではないかと言う。馬鹿馬鹿しくなってきた秀美が思うのがこれ。「セックスだぜ、おい、ぼくが注意されてるのは。あのセックスなんだぜ。
 日本において、セックスは、なんとなく、おおっぴらに話すものではなさそうだ。少なくとも親と話しはしないし、友人とも「恋人とセックスしたい。」と言い合わないだろう。恋人といて一番楽しい時間は?という問いに「セックス」と答える日本人がいかほどいるだろうか。(フランスでは上位に入っていたはず。)
 秀美はセックスしたいということはそこに含まれる全ての事柄を欲しがっているのだ、最も親密になれる空間を欲しがっているのだ、と解する。
 未来は脆い。秀美は思う。「将来のため、と大人たちは言う。しかし、将来とは確実に握り締められる宝であり得るのか。手にしたら消えて行く煙のようなものではないのか。」(祖父は「煙をつかむのに手間をかけて何が悪い。秀美、そういうことをダンディズムと呼ぶんだぞ。」と言う。)未来の不確実性への不安を前に、言葉は意味を為さない。言葉は掻き付け、鼓膜を震わす、一回性を有した不可逆なものだ。つまり、言葉は過去を表し、現在を表す。それは未来に続く原点ではあるけれど、未来を確定させるものでは決してない。勿論、未来と言葉が断絶しているわけではないけれど、日常生活においては、やはり言葉は無力な気がする。 未来は怖い。思い通りにならないということは人間を恐怖させる。人間が自然を分解し、理解しようとしてきたのも、自然という脅威を制御下に置きたい欲求からだった。
 そんな中で人が安心を感じるのが、人肌であり、人の体温であるという事実は、当たり前な気がする。自分の掌の下に、愛しい人の生をたたえた肉体があるということ。少しでも傷つければ皮膚が破れ、血が出てしまう。そんな危うい脆いものが自分の手のすぐ下にあるということ。それだけ許してもらえているということ。こんなに脆いからこそ大切にしたいと感じること。生きていてくれて嬉しいということ。そして何より、今ここに貴方がいて、この先もいるのだという予感、それは原始的だが、その手触り・温度などの物理的なものおよびその物理的行為自体に宿っている気がする。ぎゅうっと抱きしめると安心するというのも、そんな感じでは? これ以上の表現は野暮故に略するし、セックスを神聖視するつもりもない。 ただ、大好きな人とセックスすることが好き、というのはそんなにも恥じらうべきことなのだろうか。
 しかし面白いのは、セックスを思い出して恥ずかしくなっている秀美に祖父は「うむ、あれは確かに愚行であるぞ。」と言うのである。ダンディズムを理解する祖父と、秀美(と僕)の間には、まだ見えぬ差がありそうである。愚行、否、原始的なものに頼らずとも、煙を追うことをできる余裕。それをダンディズム、大人と言うのかもしれない。


「私は、秀美を、素敵な男性に育てたい。大人の女の立場から言わせてもらうと、社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男って、ちっとも魅力ないわ。そそられないわ。」

 この作品において、秀美は非常に魅力的だ。でもそれ以上に僕は、秀美の母である時田仁子を魅力的だと感じる。
 彼女の言はまだ続くのだが、ここに全てを載せることはしない。ただ言えるのは、彼女は強い。彼女はその価値観をうちに力強く持っている。みんなが正しいとは思いつつもできないよなぁと放棄している価値観を、ちゃんと腰に巻きつけ進んでいる。価値観を他者によって確認しなければいけないような僕らとは違うのだ。彼女に育てられた秀美は幸運だ。
 秀美の魅力もここに表れている。彼は引っかかったことを流してしまわない。また、自分は自分であるという意志を持っている。これはなかなかできないことだ。
 仁子くらいの歳になったとき、自分も「不幸はお腹をいっぱいにしないよ!」と笑い飛ばせれる人間に、なれるといいな。

感想雑記

 これを読もうと思ったのは、大学の試験期間中だった。僕が必死に勉強する横で、否、必死に集中しようとするのだが遅々として進まない試験勉強をする横で面白そうに語学勉強をする奴がいた(語学の試験は終わっているのにも関わらず!)。その時に(もう少し色々要因はあるのだが、)痛切に思ったのだ、「ぼくは勉強ができない」。僕は違うと喚いていても、どうやら皆と同じように受験勉強の森にリュックを忘れてきちゃったようだぞ、と。
 僕の言葉はまだ軽い。軽すぎて放つのを躊躇うことが多々ある。何か立ち止まらなければ、このまま僕は隣の奴と喋れなくなってしまうような気がした。「ぼくは勉強ができない」せいで。
 この本の「勉強ができない」とは違ったが、でも僕の求めていたものは沢山ここにあった。山田詠美は凄いと思う。僕らがわざと地面に置いて、木の葉で隠して置いたものを丁寧に見つけて綺麗にして、文に仕込んで食べさせてくれる。
 秀美(仁子)を抱えて、新しい森を開拓していこうと思う。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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