読書メモ:香西秀信『論より詭弁ーー反論理的思考のすすめ』(光文社)
個人的注目ポイントメモ
序章 論理的思考批判
そもそも論理学はレトリック(説得の技法)に内包されるもの
つまり、レトリック自体は論理なしでも(論理的でなくとも)成立する
「自分の尻尾が切られてしまい、同胞も同じになって欲しいがために『尻尾はない方が論理的に都合が良い』と主張する狐」の言を検討すべきか
第一章 言葉で何かを表現することは詭弁である
言葉で表現してしまった時点で事実とは異なってしまう
「事実」は並んでいない↔︎言葉は並んでいる
「あそこのピザは美味しいが、大きい」/「あそこのピザは美味しくて、大きい」/「あそこのピザは大きいが、美味しい」/「あそこのピザは大きくて、美味しい」
「事実」は連結していない↔︎言葉は連結している
なぜ、連結させたのか?
「あそこのピザは美味しくて、大きい」/「あそこのピザは美味しくて、斬新」
名付けのトリック(言葉の黒魔術)
「Aは保守的だ」/「Aは右寄りだ」/「Aは国のことを真剣に考えている」
事実ではなく、同じように世界を見せる(強制する)
問い方で有利に持っていく
「首相は核保有で人殺し国家となることを容認するのか」/「首相は核抑止力を持つことで自衛力を持つことを容認しないのか」
第二章 正しい根拠が多すぎてはいけない
根拠が多い方が説得力がある/正しいように見える
よく見ると、根拠同士が相反する
「ボランティアは倫理的に正しいことだからすべき」+「ボランティアをしていると就活に有利」??
心理的おかしさ
第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと
詭弁の定義の難しさ
自分に賛成の意見は称揚され、反対の意見は詭弁として扱われることで、不利に立たせようとする
cf. ミル『自由論』
第四章 人と論とは別ではない
「人に訴える議論」
論理的思考最大の急所
「Aという人物の議論に対して、その議論の妥当性を問うのではなく、Aの人物を否定することでその議論を葬り去ろうとする詭弁」(p.109)。
「悪罵」型
発言に対する批判ではなく、発言した者の人格等を攻めて否定する詭弁
例「教育評論かAの書いた教育論の本が評判だが、彼が教師だった頃の同僚の評判は最悪だった。そんなAの書いた教育論が良いはずがない」
「事情」型
発言と発言した者の行動との不一致や過去の発言との矛盾を指摘して否定する詭弁
例「医者Aは喫煙の害を説いているが、本人はヘビースモーカーである。そんな医者の言うことは聞けない」
「偏向」型
発言した者の立場が偏っている/公平ではないことを指摘して発言を否定する
例「評論家Aは太陽光発電を拡大すべきだと主張しているが、Aは夫が太陽光発電事業者だから、利益を狙ってそう発言しているのだ」
「お前も同じ」型
ある行為の批判に対して「お前も同じ行為をしているだろう」と指摘して、批判を否定する詭弁
例「『遅刻はいけない』と注意する教師に向かって、『先生も遅刻することがあるじゃないですか』と指摘し返す」
「源泉汚染」型
論者の立場はそもそも間違っているので、到底その人の意見は認められないと否定する詭弁
例「教授Aは自分の学部の利益しか頭にない男だ。そのような男の意見は審議に値しない」
(※全て詭弁とする場合と、一部を詭弁とする場合と多様。ダブりあり。)
一方で、筆者はこれらを詭弁とされることは、一般の感覚に沿わないのではと指摘する。(例えば、利益誘導を図っている人の意見を「別個だから」と言って検討して騙されたらたまったものではない)「人に訴える議論」は「本来発言のみが問題なのに、人の問題にすり替えている」から詭弁と言われるが、筆者は「すり替えて何が悪いのか」と問う。すり替えというと見え方が悪いが、「発話内容から発話行為に議論が移行した」と言えば最もである。
「歩き煙草は止めるべきだ」と歩き煙草をしている人Aが言った場合、論理的には「その通りです」と止めるのが理にかなった結果である。しかし、これは常識的にはおかしい。普通「あなたもしているじゃないですか」と言う。この時、我々はその発言でAの意見を否定しているのではなく、自分は咎めず相手を咎める不公平な姿勢を糾弾している。この場面では常識的には、発話内容の是非より発話行為の是非が優先して議論されるべきで、論点が移行することがなぜ悪いのか。なぜなら、発話行為の是非によって、その発話内容の立証責任の位置が変わるから(「あなたもしているじゃないですか」と言ったら、立証責任はAに突き返される)。「お前は同じ」型に限らず、この手の詭弁による論点移行は、立証責任をどちらに付すかにおいて重要である。そもそも、発話内容と発話者の行動は無関係(例:「事情」型)だろうか?禁煙を進めるヘビースモーカーはなぜ禁煙しないのか?「害がある」という発話は正しいかもしれないが「彼が禁煙しなくてもいい程度の害」なのではないか。結局、これらの「人に訴える議論」は論理的ではないが、レトリック的には妥当な戦法である。そうたろが何処かで言っていたけれど、人間は発話内容より「誰が言ったか」を重視する傾向にある。そして「誰が言ったか」はそもそも発話内容をも変えてしまう。元判事と快楽殺人犯が同じ「死刑廃止」の文言を読み上げても、片や死刑を逃れたいだけといった反対すべき論拠を聞き手に与える。誰が言ったかは何を言ったかの一部になる。
また、類似からの議論というレトリックと「お前も同じ」詭弁はかなり似ており、「お前も同じ」型を詭弁にしてしまうと「これが許されるならこれも許されるのでは?」という類似からの議論が封じられてしまう。結論、「人に訴える議論」は時に詭弁であり、時に妥当な意見となる。文脈で判断するしかない。悪用される可能性もある。以上。という虚しい結論になる。
第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない
先決問題要求の虚偽(petitio principii)
それ自身証明が必要な命題を前提(根拠)として組み立てられた議論
循環論法
「名付け」による先決問題要求の虚偽
「Aはヨーロッパ視察に行った」/「Aはヨーロッパ見物に行った」
多問の虚偽
「君は、奥さんをもう殴っていないか」
はいでもいいえでも、殴っていたことになる
「いや、過去も今も奥さんを殴っていません」と答えると、「証明しろ」と言う権利を相手に与えてしまう(立証責任)
そもそも、奥さんを殴っているとしたのは尋ねてきた側なのに
不当予断の問いと呼ばれる
あとがきにかえて――Sein を知らないドイツ語教師
感想雑記
非常に非常に面白い。こんなワクワクさせてくれる本があるんだと久しぶりに思った。ここに記されているのはレトリックの表層だとは思うが、さらにレトリックについて学んでみたいと思わせる時点で、非常に優秀な新書だろう。
個人的には「立証責任」という概念を学べたことは大きい。今までなんとなくモヤモヤしていた議論に対して、スッキリ理解できる補助線をもらった。また、「名付け」による先決問題要求の虚偽はそのスケールの大きな(?)詭弁にゾクゾクした。人間の活動、人間関係の磁場で「論理的である」ことはかなり複雑である。
筆者は2013年に55歳という若さで亡くなっている。あまりに惜しく、悲しい。
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