nekomata_el_gato

nekomata_el_gato

マガジン

  • キューバの今

    キューバの今をお伝えします。内容はキューバから発信されているものです。

  • 冥土への土産に読んだ本リスト

  • 金曜日忘備録(福島原発事故を忘れないために)

  • 蝸牛の歩み

  • ポクポク一人旅(キューバ)

最近の記事

歴史におけるホセ・マルティの日録

9月26日 1882年ー新聞「ナシオン」の主幹がマルティに、彼の最初の時事評論が評判となり多くの新聞に取り上げられたと知らせてきた。しかし一方では、それが事実であったとしても、アメリカ合衆国に抵抗することを明らかにするキャンペーンが始まったという明白な事実を含むマルティの評論に含まれるラディカルな結論の部分は削除しなければならなかったことも伝えられた。

    • 歴史におけるホセ・マルティの日録

      9月26日 1892年ードミニカ共和国。キューバ移民とプエルトリコ移民の前で講演する。彼らは「グアリオネスク・ハトウェー」クラブにマルティを迎えた。夜の10時過ぎ、マルティの宿泊所を変更して「ホテル・べジェヴィエ」に向かう。

      • 歴史におけるホセ・マルティの日録

        9月25日 1882年ーホンジュラスからフロール・クロベット将軍が連絡をよこした。内容はテグシガルテにいる急進的なキューバ人たちの多くはマルティの見解に同意して居ることが確認できるというものであった。そして、彼らはキューバに向かう人物についての情報をマルティに強く求めていた。本の編集と販売を行っているD・アンプレトン会社は、J・H・マハフィーの古代ギリシャ語の翻訳に対してマルティに100ドルを支払った。

        • 歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月25日 1888年ーニューヨーク。マルティとラファエル・デ・カストロ・パロミーノ、マヌエル・パラへ、フェリックス・フェンテスは近づいた10月10日を祝うより良い形式を討議するために、3日前に召集された会議に参加した。 1892年ードミニカ共和国。フォアン・マソ・パラから「ハツエイ秘密クラブ」の幹部役員に紹介された。そのクラブのトップ、ロセンダ・リベラは歓迎の言葉を述べた。

        歴史におけるホセ・マルティの日録

        マガジン

        • キューバの今
          18本
        • 冥土への土産に読んだ本リスト
          23本
        • 金曜日忘備録(福島原発事故を忘れないために)
          15本
        • 蝸牛の歩み
          40本
        • ポクポク一人旅(キューバ)
          73本
        • 猫又のバラバラ書評「おかめ八目」
          68本

        記事

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月24日 1879年ーサンタンデールの市長の受け入れの意向を受けて、2度目の国外追放でスペインへ移動するためのパスポートを交付された。 1892年ー夕方、プリンシペェ港へ入港し、「フランス・ホテル」に宿泊した。ドミニカ両耳によって迎えられた。彼はマルティの健康を回復するためにすぐに行くように、キューバ人居住区の存在を教えてくれた。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月24日 1893年ーニューヨークの「独立のための会議」の集会に出席。10月10日の記念行事を提案し、その記念式典を運営する委員会に選任される。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月22日 1881年ーベネズエラの新聞「国に意見」の正式な後継者から彼の書く記事の一つが掲載できないと伝えられた。その理由は、ローマ法王に関して書かれた「教皇権至上主義者の楽しみについての2、3の問題」という記事に立て続けに書かれた内容が読者の興味を満足させないばかりか、信仰を教える権利を犯しているという理由であった。 1894年ーアントニオ・マセオ将軍に10月の中頃に行動を起こすために準備すべきことを連絡した。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月22日 1871年ーマルティとカルロス・サウバージェは、「ラ・プレンサ(新聞)」に以前から掲載していた討論を終了することについての記事を発表した。新聞を運動の手段として選択することは、主張の不備と裁判沙汰になるという不利益を帯びて居るから。とわいえ「真実を愛し、いつの日か正義が実現されることを主張し続け、繰り返し続ける」ことに変わりはない。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月21日 1878年ーキューバにおいて弁護士として働くために、彼の肩書きを紹介するのに不可欠な正確な家の届出をした。 1892年ー午後五時に、バラオナから2めいの指導者に会うために配置の首都に向けて出発した。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月20日 1889年ー国際アメリカ会議において、アルゼンチンとウルグアイの代理を都詰めることを引き受けた。会議参加者はパリ市の蒸気船でニューヨーク港に着いた。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月20日 1892年ー午後遅く、ドミニカ共和国のパラオナの町について、ほせ・ドローレス・マトス提督の家へ泊まった。ハバナから持参した手紙を彼に渡した。キューバ人医師フランシスコ・ゴンザレス・コラルテを訪問した。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月19日 1893年ーすでに送られている「キューバへーすでに三つの戦略に基づいて、進めているー状況を説明する任務と同時に武器の配分の組織化」についてサラフィン・サンチェスと会談。(書簡集 Ⅲ :413)

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月19日 1892年ードミニカ共和国の外務大臣から、コロンブスの遺体を見るための正式な許可を、好意的に受け入れられて、得られた。この結果、多くのドミニカ人が教会に赴くという効果をもたらした。夜、「パリ友好教会」で行われたレセプションで講演。真夜中近く、バラオナに向けて帆船レピドで出発した。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月18日 1891年ーマドリードにおけるキューバを代表する人物としてワシントンのスペイン大使館の報告書に記載された。キューバの代理人としてスペインの半島の各所に出向いて、ニューヨーク・ヘラルドの記事に取り上げられたこともあるクラブ「独立」の傑出したメンバーの一人として記された。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          9月18日 1893年ー8月、マルティがキューバについて直後にキューバの状況について書いたレポートについて、マキシモ・ゴメス将軍と見解の相違を調整した。将軍は島の内陸部の住民や移民のリーダーたちにとって正式な革命のためのシナリオを理解することは困難であり、実現のための手続きを示す必要があることをマルティに伝えた。マルティはこれを了解し、即座にそれに取り掛かった。

          歴史におけるホセ・マルティの日録

          歴史におけるホセ・マルティの日誌

          9月17日 1893年ー正午、ニューヨークに着いた。そのあしでかじょ・ウェッソを訪問した。その後、地域組織の会議に参加shた。ニューヨーク在住のキューバ人の再組織化の必要性と、革命への熱狂を密かに持ち続けることの困難さを分析する討議に参加した。

          歴史におけるホセ・マルティの日誌