見出し画像

オレンジ・フィルム・ガーデン

こんな夢をみた。

私はがらんと大きくてさびれた誰もいない夜の図書館にいる。
本棚は全て木製で私は梯子を登って一番上の棚にある本を取る。
その本は大きくて分厚くて、青いかっちりした表紙で、モゾモゾ動いていた。
本は自ら、読んでほしいページを開いてくれる。
その本は短編集で、本が自ら開いたのは「Dasein(ダーザイン)」というタイトルの短編で、著者は太宰という人だった。
内容は、自分で首を切って地面に掘られた大きな穴に自分の首を落とした人の話だった。とても不気味で、私はその夢の中で、「幻想怪奇小説だなあ」という感想を抱いた。
「堕罪」とも関係しているのかもしれないとも思った。

できすぎた夢だ。いつもこうした夢をみている人物でありたいが、大抵はしょうもなく、元交際相手が出てくる都合が良い夢などで、こんな衒学的で瀟洒な夢を見ることはそうそうない。
最近あまりに本を読んでないから、本が概念として夢に出てきたんだと思う。
ところで、太宰治というペンネームは本当にDasein(ダーザイン/ドイツ語で、現存在・ここにいるという意味)から取ったという説もあるそうだ。
また、太宰治は、人と神の区別がつかず、全ての人を自分を裁いてくる存在だと思い、恵まれた境遇に生まれた自分の「罪」に生涯怯え続け、それゆえ人から許されようと人を笑わせる「道化」を装っていたそうなので、「堕罪」のほうも本当に関係するかもしれない。
だからどうということもないのだが。

夢は好きだ。
夢の話をしていきたい。
哲学塾・山括弧塾では、話す機会がある度に夢についての話をする人がいて、その人と夢の話をすると、世界が揺らぐ感じがしてとても良い。

山括弧塾で、永井均さんを交えて、こんな話をしたことがあった。
輪廻転生を認めた場合、死んだときに、それまで体験した全ての人生を並列して俯瞰することができると考えると、人生は夢と似ている。
夢からさめた瞬間に、夢は夢だったということになる。他の夢と同列になる。
はやく、この夢からもさめたいものです。

最近は夢もパッとしなくて、起きたらそれ以上に苦しくて、萩原朔太郎のこの言葉を思い出す。

「幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、惡しき星の下に生れた人は、夢の中でさへも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの斷片であり、記憶の連續をもたないこと、その故にまた虚妄であるといふことは、せめてもの恩寵として神に感謝すべきことであるかも知れない。」萩原朔太郎

すごいことをいうものだ。
カントは夢には悟性がないという。それゆえに無秩序でめちゃくちゃだと。
でも、夢をみてるときは全てをそういうものとして受け入れているし、
この〈現実〉もまた、目覚めてしまったら「めちゃくちゃだ」ということになるのかもしれず、私はそれが待ち遠しい。

けれど夢の中で好きな人に会える日々が何十年も続いたら、それは幸せかもしれないな。

#コラム #夢



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?