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「夜明けの鼓動」または、北御門くんののろいのビデオ ~レビューと昔話と+α

※本原稿は映画「REUNION」共同脚本の片山祥文氏によるものです。

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誤解を恐れずに言えば、創作活動とは呪術であり、作品とは呪いの文言である。

いやいや、もっと穏健に、昔話からはじめようか。それは、この作品の最初のバージョンが作られた時のことだ。

北の大地から、首都圏にあった私の下宿まで、「夜明けの鼓動」のVHSビデオが送られて来たのは、ある秋の日だった。

1991年のことだ。まもなく札幌で、ビデオフロンティアという映画祭が開かれることになっていて、知り合いの薦めで私も監督作を出品することになっていた。

羽田から千歳までの旅費を格安にするために、同年の春に卒業したばかりの大学にあった生協の売店におもむき、学生のふりをして航空券を買った。どういう仕組みかわからないが、帰省する学生むけの座席がとても安かったのだ(もっとも私は九州出身なので北海道は帰省先ですらない)。同行するもうひとりの監督の出身校にはそういう売店が無いという話だったので、彼のぶんもあわせて2人分買った。

バブル真っ盛り、勤め人なら、出張費だの福利厚生だので、会社から航空券やタクシー代はもちろん、現地での遊興費まで余裕で貰える時代だった。同じ時、私は北海道に行くだけのために、こんなセコいことをしていた。

ビデオが届いたのは、ちょうどその頃のことだった。どうやらこの「夜明けの鼓動」が、主催者側が自作した映画祭のメインプログラムらしい。

ほどなく、Y君から電話がかかってきた。Y君は映画祭の中心人物のひとりであり、「夜明けの鼓動」ではプロデューサー的な役割で北御門監督を支えた人で、私にビデオを送りつけたのも確か彼であった。さっそく「夜明~」の感想を言えというのである。

困った。

というのも、「夜明~」の第一印象は、あまり良いものではなかったからだ。

順繋ぎしかできないアナログビデオ(それは私や他の監督も同じだったが)の機材でありながら、非常に丁寧に作られているところは感心した。が、ストーリーも、セリフも、キャラクターも紋切り型で薄っぺらく、出演者の演技力のバラつきが悪目立ちするばかり。薄幸のヒロインは演者本人に自然な魅力があり、主役の男は演技面で孤軍奮闘するものの、作品全体を救うには至らない。終盤の説教臭いセリフの羅列は、良い子ぶっていて、こちらの心はちっとも動かされない。

しかし、それを言える段階ではない。なんといっても、この時点で、私は、Y君とも北御門君とも、ー面識もないのである。そもそもY君と会話らしい会話をするのはこれが初めてだったし、彼以外の関係者とは電話のやりとりさえまだである。忌憚ない意見を交わせる仲ではない。これから会って、友好的に映画祭に参加するにあたって、なにも今から軋轢を生まなくてもいいだろう。

なので、ここは、当たり障りのないことを言って煙に巻こうという、実に大人らしい対応(当時22~3歳)をしたのだが、Y君は「そんな感想しか言えないんですか」と納得してくれないのである。

そういえば、私の作品も、上映のために札幌に納品済みで、Y君も観ているはずだが、それについての言及は彼からは無かった。もう少し要領のいい人なら、社交辞令でも相手の作品に触れておいて、しかるのちに「夜明~」の感想をうかがうという流れに持っていくだろうが、Y君は素直で正直な性分なのだ。彼の興味は、もっぱら、「夜明~」に対する反応であって、それ以外には頓着しないという態度を隠そうともしなかった。

Y君によれば、「夜明~」は北御門君が、監督作としてかつてないほどに、深い人間ドラマに挑んだ作品であり、渾身の作であり、であるからにはそれを観た者の感想も相応のものであるべきだというわけだ。その深い人間ドラマとやらが、こちらには浅いと感じられたので、核心に触れずに話しているというのに。

だいたい

恋人が自分より成功したから別れたとか、

ミラーこすって殴りあいのケンカになったとか、

姉がキスしてるところをみてショックとか、

中2ならまだわかるが、20代の男の悩みとしては、説得力に欠けてないか? といって、彼らの小さな悩みを打ち消すような、大きな不幸を抱えたヒロインという道具立ても取って付けたようでいただけない。いい加減だった男が女と出会って目覚めるという全体の骨組みは悪くないとしても、パーツの一つ一つに、観る者の共感を呼べるかという検証をした形跡がない。

まあ、人間の精神年齢にはバラつきがあるし、私も12歳くらいから成長してない気がするので、偉そうなことは言えないが、「姉が男とキスしてるところを偶然見かけたせいで、自分のデート相手をほったらかしにして取り乱す20代の男」なんているだろうか?・・・100歩譲っているとしよう。だがそれは

「みんなが共感する主人公」

ではなく、

「ただの面白い奴」

ではないか。

その面白い奴が、自分より不幸なヒロインから感化される(≒夜明けを迎える…ココが本作のキモだがうまく昇華できていない)のなら、シリアスなドラマでスべるよりは、まだコメディの方がまとまりそうな気がする。

Y君と話しながら、そんなことを考えていた。考えていただけで、口に出せようはずがない。

だが、私も少しイライラしてきたので、「要するにつまんねーんだよ」と言いそうになったが、もちろん言わなかった。忖度というだけでなく、なにより、それは私の本音とは乖離しているからだ。悪い点ばかりが目についたにもかかわらず、私は「夜明~」を「嫌いではない」と自覚していた。それは、すぐには言語化できない何かを感じていたからだ。

不満そうなY君をなんとかかわした後、私はもう一度、「夜明~」を観ていた。"嫌いではない理由"がどこにあるのか、それを言語化するためだ。

そして、なんとなくわかってきた。

この作品には、怨念が込められている。

いやいや、オカルト話ではない。あくまでこの作品は、人畜無害な青春ドラマだ。良くも悪くも、ほとんどが人心を乱さない部品で組み立てられている。にもかかわらず、作品全体に、作者(監督)の形にならない情念のようなものが、出口を求めて渦巻いている。まさしく怨念だ。そして、私はそれが好きなのだ。

あとでわかったことだが、監督の北御門君は、本作「夜明~」でヒロインの兄のナイフ少年を演じている。なかなかの二枚目だ。今回あらためて観なおすと、ナイフでリンゴの皮をむき、皮の方をカッコつけて食べるという、よく考えるとヘンな芝居をしている。まあ、笑う観客はいないだろう。

さて、わかりやすく例えると、私が感じた監督の怨念とは、あのナイフ少年が本作でみせる表情、何か言いたげだが言葉にならず、恨みがましくこちらを見ているあの感じに近い。あの感じは、彼の登場シーンだけでなく、映画のファーストシーンからあり、ラストまで噴き出すことなく渦巻いていたと私は思っている。

札幌で実際に会ったナイフ少年、北御門監督は、ナイスガイだった。最初からフレンドリーに接してくれたし、私のことも知ってくれていた(雑誌の片隅に載ったことがあるので)。うむ…、彼の方が営業向きだ(笑)。だが、監督しながらプロデュースは激務だ。

やはりプロデューサー役はY君でなければ。

私と、Y君、北御門君は、同年齢で同学年だった。1968年生まれ。彼らは北海道大学で5年目を迎えていた。5年生、医学部か?いやそんな風には見えない。私も、一年くらい前までは留年するつもりでいた。急に予定が変わって、とっくに締め切りが過ぎていた卒論の計画書を担当教授に頼み込んで通してもらったり、全然出席していなかった授業の先生に頼み込んで追試を受けさせてもらったりして、なんとか4年で卒業するために慌ただしく奔走したという経緯がある。なので、卒業はできたが就職活動などはしていない。漠とした不安を抱えて途方に暮れていた。彼らも、人生の岐路を目前に、焦りや不安、自分と似た考えや事情があったのだろうと思った。

ここで、しばらく脱線させてください。今これを読んでくださっているあなたが、どんな世代のどんなかたなのか、私には知るよしもないからです。私たちの世代と、作品が生まれた背景を説明させて欲しいのです。

1968年は、当時の大学生たちが、国家を敵にまわして大暴れしていた年だった。もちろん私達がそれを覚えているわけがない。なにせ、母の胎内にいたか、生まれたばかりだったかで、闘争に加わるにはちょっと早かったからだ。だが、この時期のことが、私達の世代に大きな枷を作ることになる。

フランス革命は1789年と習う。しかし、小説だか映画だかミュージカルだかで「レ・ミゼラブル」に触れた人ならわかるだろう。あれは1789年から26~44年後の世界を描いた作品だが、相変わらずフランスでは革命が続いている。フランス人はバカなのか? いや、違う。この間、シーソーゲームのような揺り戻しがあり、あの国は革命前の世界に戻ったり再び革命後の世界になったりを繰り返していたのだ。

最終的にフランスが今の恒久的な共和制を獲得したのは20世紀中頃のことだ。つまり、革命勃発から、150年後のことである。革命、世の中をガラリと変えることだが、本当に世の中を変えようと思ったら、150年の月日が必要なのだ。え?社会主義革命はもっと迅速だったって?早く達成したぶん、ポシャるのも早かったろ?"本当に変えた"ことにはならないよ。みなまで言わせるな。

さて、1968年当時の日本の学生たちがもう少し利口で、この事を看破していたら、目先の勝ち負けよりも、50年後、100年後に自分達の言葉をどう伝えるか、いかに多勢の後継者を育てて存続させるかの方が、ずっと大切だと気付いたはずである。なんといっても、世の中を変えるには一つや二つの世代ではカバーしきれない時間がかかるのだから。

しかしながら、いつの世も、学生とは愚かな生き物なのだ。彼らは暴れるだけ暴れて、満足したのかしなかったのかは知らないが、やりっぱなしのまま、あるとき何処かへ消えていった。実に無責任だ。むろん、後進を育てることなどはなかった。

なので、私達の世代は、幸いにして、彼らの思想の影響を受けていない。誤解の無いように強調しておきたいが、私は彼らの思想を支持するつもりはなく、闘争に加わりたかったわけでもなく、彼らのことを憂いたり、責めたりしたいわけでもない。単に問題点を炙り出したいだけだ。

いっぽうで、イデオロギー対決で勝利するには、後進の育成こそが最も重要であるということを、ちゃんと理解している人々もいた。暴れる学生達とは反対の考えを持つ人々である。そして、消えていった学生達の換わりに、彼らが後進の育成を牛耳ったのだ。わかりやすくいうと、「もう二度と、お上に盾突くようなけしからん学生を作ってはいけない」という使命感に燃えた、保守的な人々だ。その考えが世間の支持を集め、世の中全体の風潮になるまで、そう時間はかからなかった。

やりっぱなし学生は、安田講堂が陥落したことで敗北したのではない。その後の50年間で敗北したのだ。

そして、まさに私が指摘したい点はここからなのだが、「お上に盾突かない若者を育てようキャンペーン」の直撃を、あの学生たちがやらかした後の反動を、もろに喰らったのが、私達の世代なんである。

キャンペーンというと組織だったもののようにきこえるが、実際にはもっとぼんやりした感じで、ある種の雰囲気が醸成され、みんななんとなくそっちへ流されていく感じ。だから、首謀者が誰かわからないだけでなく、意識的に加わった人々はもちろん、いろいろなレベルで、多くの善良な人々が、無意識のうちにこの流れに荷担した。

幼稚園の先生(彼女はクリスチャンであった)は、ある日泣きながらこう言った。「みなさんはとてもお利口なので、将来大学まで行く人も多いでしょう。大学ではみなさんに悪い考えを吹き込もうとする人がいます。その考えを聞いてしまうと、神様を信じなくなり、お友達同士で傷つけあうようになります。そんな人には絶対にならないで下さい(暴れる学生達は、思想上、宗教を否定した。また、学生らしく意見の小さな差異が受け入れられなかったので、学生同士でもやりあっていた)。」先生心の底からの訴えである。当時5歳だった私が、級友たちと一緒に「そんな人にはならないから安心して」と胸を張ったのは言うまでもない(笑)。

テレビでは、仮面ライダーが世界の平和を守っていた。彼はショッカーの拠点のことをアジトと呼んだ。私を含め、利口な少年少女たちは、その文脈からアジトとは悪人が集まるところと理解した。元々は暴れる学生達など活動家の拠点のことである。

小学校では、ゴッコ遊びのために組織したグループについて、教師から尋問される羽目になった。交通安全指導かなにかで皆に配られたバッジが、階級章に似ていたので、それで軍隊ゴッコ的なことをしようとしただけなのだが、教師の目には怪しい組織に見えたらしく、「目的は何か」「主張は何か」「どんな活動をするのか」等とわけのわからない質問を浴びせられ、あげく解散を命じられた。たしか私は日本という国に生まれたはずだが、私達に結社の自由は無かった。

普通の公立の小中学校で、日の丸を掲げ、君が代を歌うのは、少なくとも地方では当たり前のことであった。それに反対する先生がいるなど知ったのは、18歳の時、上京してからである。

しかし、これらは、まだそれほど大きな枷とは思わない。だって、鬼畜米英と教えられて育った世代ですら、大人になれば、海外相手にフレンドリーにビジネスできるのだから。

実は"キャンペーン"にはもっと悪質な面があった。

ルールや認識は上書きできるが、ものの考え方、思考のクセは、いちど型を作られると、変えにくいものなのだ。「お上に盾突かない若者」とは、換言すれば、「天下国家のことを考えない若者」である。それは「問題意識を持たない若者」や「深く考えてはいけないと自制する若者」を作ることで実現する。この思考形成に最も熱心だったのは、言うまでもない、マスコミだ。

ちょうど私達の成長期に重なる頃、メディアでは、

真面目なことを口にするのを

「ダサい」

とされ、

真剣に考えると

「暗い」

とされ、

こだわりを持つと

「ビョーキ」

とされた。

誰もそう言われるはイヤなので、問題意識や深い洞察を頭から追い出すことに努力した。

浅薄さを、むしろ美徳とされ、それが浸透すると、「青年の主張」は特殊体験発表会のようになり、身体に障害がない者は高い評価はもらえなくなった。要するに逆差別だが、評価の対象となりうる「暗い話」は、身体など、個人的な問題に限られるというわけだ。

私がかよった早稲田大学は、よくマスコミが来るところだった。テレビや雑誌の取材で、私やサークルの同僚が質問に真面目に答えると、「そういうのは暗いからダメです」と言われ、もっと浅薄でバカな回答をするよう指示された。

カメラを向けながら、「ちょっと、暗いんで、もっと、はしゃいでもらえますか?明るい感じで」と指示され、私達は、明るくはしゃぐってどんな感じだ?とヒソヒソやりながら、せいぜい要求に応じると、その写真が「今の大学教育はどうなっているのか?何も考えていないサルのような学生たち」などというキャプションとともに雑誌に掲載された。ネットはまだ無い時代、私達に名誉回復の機会はなかった。

学生・若者というのは、実は、いつの時代も、その時の世の中の要求に合わせようと努力するものだ。その意味ではかつての暴れる学生達も、彼らの時代の風潮に合わせようとしただけなのかもしれない。とにかく、私達の世代が要求されたロールは、明るく、バカで、浅薄な学生像だった。

あるとき、テレビで、日大芸術学部の映画科の先生が、彼の指導する学生の作った映画を紹介しながら「(この作品は)テーマとか主張とか、そんな暗いものが一切ないんですよ。明るくて、何もない、そこが気持ちイイんだよね~」と絶賛していた。それは、人畜無害で、内容の浅い青春ドラマだった。思考が浅薄になれば、社会や政治に対する考えだけでなく、文学的要素や人間表現そのものも浅くなる。それこそが、私達の世代にとって深刻な枷であった。しかし、そういうものが、私達のお手本とされ、誰かが疑問に感じることもなかった。

では、そろそろ1991年に、「夜明けの鼓動」の話に戻ろう。

札幌ではY君が滞在先を提供してくれた。他にも、多くのかたのお世話になった。あらためて、お礼を申し上げたい。

Y君によると、北御門監督は、「夜明~」の撮影中ずっとピリピリしていたという。Y君はそれを憂慮していたが、私はむしろ良い傾向だと思った。ピリピリしているのは、作品に何らかの感情を込めたいからであり、また、内容に集中できている証拠でもあった。現場は楽しくないだろうが、より作家性が投影されやすい。逆に、監督が周囲に気を遣うケースもある。チームワークとしては理想的なことだが、作品に集中すべき時に気を遣わせるスタッフ・キャストに問題があるか、または、監督が善い人ゴッコに逃避して、作品そのものへの踏み込みが甘いことが考えられる。

ピリピリ芸術家か、ニコニコ進行係か、どちらの監督が良いかは一概には言えない。映画は結果=作品のみで評価されるので、どんな作り方をしようが、作品が良ければいっこうに構わないからだ。だが、あえて言えば、完成前の段階で、より期待が持てるのは前者である。あとでわかったことだが、前者が「夜明~」(1991)の北御門くん。後者が「Reunion」(2021)の北御門くんだ(笑)。

映画祭終了後の打ち上げパーティーに招待された。スタッフの多くは北大生で、楽しい話ができた。とにかく、私は北御門君らが同年齢で同学年というところに感動していた。私がいた大学は、浪人してから入るのが当たり前のようなところがあり、同学年の友人たちは現役入学の私より年上の者が大半であった。1、2年の浪人だけでなく、社会人からの出戻りなどで30歳前後の同級生も珍しくなかった。それに対して、東大や千葉大とコラボした時も思ったが、北大も現役率が高く、そうでなくても+1年くらいで、全体的に若々しい。ヤサグレた浪人経験者が多数派を占める(当時の)早稲田とは随分雰囲気が違う。

だから、自分の世代について意識したのは久しぶりだった。北御門君とも、ゆっくり話ができた。そこで、彼の怨念の一部を聴いた。どうやら、地元のマスコミから、それまでの作品を揶揄されたことが、「夜明~」を作る原動力となったらしい。なるほど、こんなもんじゃねぇぞ的な気持ちがあったわけだ。もちろん、それは、映画に投影されている怨念の一部に過ぎないだろう。それだけの理由で"5年生"になるわけないし。

人畜無害な青春ドラマという道具立てでありながら、怨念の存在を感じさせる「夜明~」。

お前の怒りを感じるぞ、だが、利用できておらぬ。

せっかく、衝動があるのに、それが上手く作品に表現できていない。監督の情熱と、素材や手法にギャップがあるからだ。本当に相応しいのが何か気付かない場合もあるが、彼の場合は意識的に忌避してしまったように見える。

言ってみれば、抗争相手に殴り込みをかけたヤクザが、ドスは大袈裟だからと、ピコピコ・ハンマーを手に暴れるようなものだ。「俺には今、修羅の声が聞こえている」と独白しながらピコピコさせても、恐ろしくもカッコよくもないし、それでは敵の胸にも、観客のハートにも刺さらない。極端に喩えると「夜明~」はどうもそんな感じだ。

それは、"キャンペーン"の影響下で育った。私達の世代全体の問題でもある。

どの世代であれ、学生は不安と苛立ちの塊だ。だが、私達の世代は、その内心を顕在化させつつ、エネルギーとして上手に利用することを封じられてきた。政治に関してはもちろん、芸術的表現に昇華させるという道に対してすら、アレルギーを感じるほど、嫌悪感を植え付けられている。思考を毒されているわけだ。

私は、世代の違う同級生たちから学ぶことで、ある程度それを修正することができたが、北御門君にはその機会すら無かったのだ。

「夜明~」が上滑りで、真の感動を呼ばない原因はそのあたりにある。監督本人をはじめ、多くのスタッフ・キャストが力を合わせ、非常に手間のかかることを、丁寧にやっている。それだけに惜しい。

監督の、形にならなかった怨念が、わかりやすく理屈を超えて感じられるのは映像だろう。カメラワークは少々気障で、技術的に特に変わったことをやっているわけではないが、それでも、スケッチのような風景が、とびっきり美しく見えるのは、北御門君が最も情念を込めやすい表現方法だったからだと思う。

1991年、世界は大きく変わろうとしていた。北御門監督も、もうすぐ、殻を破るに違いない。帰りの飛行機の中で、私はぼんやりと、そんなことを考えていた。

…その時は、そう思った。

しかし、彼は彼であった。

彼の作品で、あれほどの怨念を感じさせたのは、後にも先にも「夜明~」一本のみだった。

文責:片山祥文

追記----

それから、30年経って、「夜明けの鼓動」のリニューアル版が公開された。全体的な評価は前と変わらない。最大の魅力である怨念は生き続けていた。これに、ホッとしている。

しかし、改善点も無いに等しい。喩えるなら、化粧品などで小ジワの一本や二本が消えたとして、本人は嬉しいだろうが、客観的に見れば大勢に影響はないのと同じ。

芝居が特にうまくいってないところを削っているのだが、それで格段に良くなったわけでもない。あえて言えば、むしろ失ったものがある。転換期を迎えた男たちという群像ドラマ的な視点が弱くなった。強引なケンカのシーンは酷い出来だったのでカットしたのもわかるが、あれこそ、当時の北御門監督が、怨念を込めようと足掻いているのが、よく感じられる場面だったという意味では惜しいことだ。一部デジタル処理されたカットの挿入と、フリーBGMの追加があると思うが、まったくの蛇足だ。

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