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長崎猫童話 夏 八月の黒い子猫

長崎猫童話 夏 八月の黒い子猫

 八月十五日夜。静かに満月が昇る夜。
 日が落ちて、やや涼しくなったとはいえ、生ぬるい空気はまだまだ夏のものでした。
 長崎は精霊流しの夜でした。国道の歩道側、普段はバスが通る辺りを、曳かれたり押されたりしながら、ゆっくり移動してゆく精霊船。つきそうひとびとが鳴らす、チャンコンチャンコン、という鉦の音と、どーいどーい、というかけ声が響きます。連なるように道を行く船たちには、提灯がいくつも飾られ、そのすべてに華やかに灯りが灯されています。
 歩道には、綺麗な船が来ないかとスマートフォンやカメラを手に待ち構える、内外の観光客や、地元のひとびとや。遠くからそれとなく船に付き添って歩くひとびともいます。
 船を流すひとびとは、時折行く手の道路に、爆竹を投げます。耳を聾するような爆竹の音が、豪雨のような響きで鳴り続けていました。
「しまった。耳栓を忘れた」
 漂う爆竹の煙の中、透は両耳を塞ぎながら、にぎわう人波の陰に隠れるようにしました。
 
 場所は昔でいう、県庁坂の辺り。いまは呼び名が変わったとか、変わる予定があるとか、さっき出がけに、泊まっているホテルのフロントのひとに聞いたような気がします。
 名前が変わるのも道理というか、坂のそばにあった長崎県庁は取り壊され、工事中の塀だけが殺風景に立っています。けれど、街の中心部の繁華街方面から、海に向かって下りるこの坂の辺りが、多くの精霊船が流されてゆく、地元のひとびとや観光客が集まる場所だということに変わりは無いようでした。
(街はずいぶん変わったみたいだけど、その辺は変わらないんだな。あの頃と同じだ)
 もう三十代も終わり近い彼にとっては、ずっと昔の出来事といってもいいはずの、高校時代の夏をふと思い出しました。不思議とつい最近の記憶のように思えました。ついこの間の夏、親友の竜一とふたり、この坂を小さな船を担いで下りていったような。
(クロコの船、なかなか綺麗にできたよな)
 透も竜一も美術の成績が良くて、ふたりとも漫画が描けました。手作りの精霊船のそこここに、ふたりで魚や猫缶や猫のおもちゃや、子猫が好きだったものを描いたのでした。

 長崎の精霊流しには爆竹がつきものです。西方浄土に帰って行く、初盆の仏様を乗せた船の、その道を清めるために、船に付き添って歩くひとびとが、たくさんの爆竹を道に投げるのです。破裂する爆竹の火花と、もくもくと上がる煙の中を、灯りを灯した精霊船が鉦の音とともに「流されて」ゆきます。
 手作りで作られる船は、大きいものも小さなものもあります。昔ながらの船のかたちのものも、多少アレンジされたかたちのものもあり、いくつもの提灯に灯りを灯して、街の中を旅してゆきます。お盆の間、家に帰ってきていた魂が、美しい船に乗せられて、海の彼方の西方浄土へと帰って行くのです。
 お盆の、帰省客や観光客で人口が増えてにぎわう夜の長崎を、明るい光を灯した船が進んでゆく様子は、不思議な晴れがましさと華やかさがあるものです。船たちは、街という海を行く大船団のようで。爆竹の華やかな音と光が、西方浄土への出航を祝って鳴らされる、そのためのものにも聞こえて。
 この行事が何のためのものなのか知らないひとが見れば、まさかお盆の行事と思わないかも知れない、と透は昔から思っていました。
「昔のさだまさしのヒット曲の、あの静かでしめやかな感じとはちょっと違うんだ」
 大学から東京で暮らすようになった透は、よくそんな話を友人たちにしたものです。
「何しろ、耳栓がいるくらい、爆竹の音がうるさいんだからね」
 都会でおとなになり、夢を叶えて漫画家になり、そのままがむしゃらに描いてきました。朝も昼も夜も描き続けてきて、幸運なことにヒット作に恵まれて、いまは新宿の便利な場所に立つマンションの高層階でひとり暮らしをしています。浮いた話がないのは我ながら寂しいところですが、それ以外はたぶん幸せな人生を生きているのだろうと思います。
 なんといっても、十代からの大切な夢を叶えたのですから。
「ずっと漫画だけ、描いてたなあ」
 浮世の時の流れとは切り離されたように。
 大切なことも時には忘れ、精霊流しの夜には耳栓がいるなんてことも忘れるくらいに。
「――まあちょっと寝ぼけてはいたけどね」
 つい数時間前までは東京にいたのです。急に思いついて長崎に帰ってきたので、からだはこの長崎の県庁坂にあっても、魂は新宿の自分のマンションの部屋で眠っているような気がしました。というよりも、いま長崎で精霊流しを見ているということそのものが、夢の中の出来事のような気がしていました。

 今朝方、連載の原稿を完成させたあと、アシスタントたちを帰し、Twitterにもう三日寝てない、でも終わった、寝るぞ、なんて独り言を呟いて、仕事机で寝落ちしました。
 すると、久しぶりに、高校時代の親友、竜一の夢をみました。ひょっこりと部屋に訪ねてきた彼は、やたらと上機嫌で透に語りかけてくるのです。懐かしい長崎訛りの言葉で。あの頃と変わらない、朗らかな声で。大柄なからだのせいか、よく響く、豊かなあの声で。
 そういえば、竜一は歌がうまかったよな、と、透は夢の中で懐かしく思いだしました。
 猫の声と、鈴の音もするな、と思ったら、竜一は太い腕に黒い子猫を抱いていました。子猫は、竜一の腕の中で前足を突っ張って、床に下ろして欲しいと鳴いていて、つまりは部屋中を自分の足で駆け回ったり、棚に飛び上がったりしたいと訴えているのでした。
 竜一の家の猫、クロコでした。あの猫はずっと前に死んだような気がしていたのですが、思い違いだったかな、と透は思いました。
 だって、あの金色の目と赤いリボンと、首で鳴る金色の鈴は、間違いなくクロコです。
(でも、クロコは、春に死んで――)
(精霊船、作ったよな、竜一とふたりで)
 でも、クロコはいま、目の前にいます。
 いいや、と思いました。こんなに楽しい気のせいや記憶違いならば、大歓迎です。
 高校時代の終わりに、浜の町の路地――長崎の繁華街の暗がりで透が拾った子猫。そのときから腎臓が悪い、小さな痩せた猫でした。
 透の母はひどい猫アレルギーで、透の家では飼うことができず、竜一が引き取ったのですが、クロコは透の猫でもある、ふたりともそう思っていました。だから餌代もふたりで負担したし、病院だって最期の日まで――。
(あれは、記憶違いだったのかな……)

 記憶が当てにならないのは、最近働き過ぎだからだろうかと思いました。疲れが溜まってきているのは、自分でわかっています。
 そのせいなのでしょうか。漫画を描いていても楽しくはなく、ただ締めきりに間に合わせることのその繰り返しで、描き続ける漫画家になってしまった自分を感じていました。
 透の描く漫画は、昔ながらの少年漫画。剣と魔法のファンタジーの世界を舞台に、友情と努力と勝利をうたいあげる漫画です。新人だった頃からの人気の連載で、もう何年描き続けているでしょう? アニメ化も映画化もされて、人気は衰えるところを知らず、ファンレターだって、読み切れないほど届きます。
 けれど、透自身はいつの頃からか、自分の描くものが読者にとってほんとうに面白いのかどうか、わからなくなっていました。一話一話、心を込めて書いてはいますが、同じような危機や展開、冒険と戦いの繰り返しを、週に一度、もう何年も描き続けているのです。
(これ、面白いのかな、ほんとうに――?)

 透は昔、幸せな子どもでした。自分でもそう思っていました。家庭でも学校でも楽しいことばかりで、両親にかわいがられ、友人も多く、いつも笑っている小学生でした。でも時に、泣きたくなることも、学校に行きたくなくなることも、死にたくなることだってあって――そんなとき、漫画の世界に心遊ばせることで、息をついてきたのです。
 その頃好きだった漫画は、いまの透が描いているような、剣と魔法の冒険物語でした。
 そこには心躍る冒険があり、熱い友情や、好敵手との駆け引き、淡い恋がありました。目が眩むような試練の繰り返しと謎解きの果てに、深遠な世界の真実がありました。
 頁を開くとき、透は勇者、ヒーローでした。孤独な気分になっているときでも、漫画の中には大好きな友人たちがいました。彼らはそこでいつだって、透を待っていてくれました。
 魂が帰る場所があったから、透はどんなときも大丈夫で、元気な小学生でいられたような気がします。透はだから、自分もそういう作品を描く漫画家を目指しました。
(何より大事な、叶えたい夢だったんだ)
 夢は叶いました。それから走り続けました。気がつくと、透は疲れ果てていたのでした。

 透は夢の中で漫画を描いていました。急いでこの原稿を書き上げなくては〆切りに間に合わない、と必死で机に向かっていました。猫を抱いた親友はその椅子の背中の辺りに立ち、何やら楽しげに話しかけてくるのでした。
 それが夢の中でも、ごめん、今日は帰ってくれ、と、いってしまいそうな状況なのに、透は親友と子猫がそこにいてくれることが嬉しくて、文句なんて一言もいいませんでした。
 久しぶりに会った彼は、雰囲気は昔のままなのに、おとなびていて、太めで丸いお腹に、経営しているCDショップの名前が入ったエプロンがよく似合っていました。十代の頃と同じ、古風なフレームの眼鏡の奥で、明るい優しそうな瞳が笑っていました。
 そうそう、竜一は親のあとを継いだんだよな、と、紙にペンを走らせながら、透は懐かしく思いだしていました。若くして、三代続く古い店の店主になったのです。代替わりをきっかけに店内を多少改装したのだと聞いて、お花贈るよ、いつか店に行く、とメールで約束したきりになっていたけれど。いや、あのとき、お祝いのお花だけはかろうじて送ったんだったかな、と、透は思い返しました。
 渋谷の洒落た花屋で花かごを作って貰って、色紙を添えて送ったのです。クロコの似顔絵を、招き猫の代わりになるようにと描きました。竜一はとても喜んでくれて、色紙と花かごを飾った店内の写真を撮って、送ってくれました。丁寧な手書きの手紙も添えて。
 エプロン姿の親友は花かごを店のテーブルに飾り、色紙を額装して壁に飾って、得意そうな幸せそうな表情で、立っていました。背景に並ぶ白木の棚には、CDがぎっしりと詰まっていて、綺麗な店だなと思ったのです。
 中島川の近くにあった、小さな古いCDショップ。透や竜一が子どもの頃は、レコードショップという名前だった懐かしいあの店。
 竜一の祖父の代から続いていたというそのお店には外国のスピーカーから流れる良い音の音楽が、いつも空気のように店の中に満ちていて。アイドル歌謡も洋楽も、ジャズのスタンダードも映画音楽だって、あの店で学んで、お小遣いで揃えたのでした。毎日母親からお昼のパン代にもらうお金を貯めて、おなかを減らして一枚のCDを買ったこともあります。あの頃の十代にとって、一枚一枚買い集めたCDがどれほど高価なもので、大切な宝物だったか、いまも透は覚えています。
 そう、親友はあの店の主になったのです。
 竜一とは高校で出会って以来、漫画好き同士気があって、一緒に漫画を描いてきていたので、当然のように一緒に上京するのだと思っていました。いままで一緒に漫画や小説を読んだり、テレビゲームをしたり、映画を見に行ったりしてきたように、東京で同じ時間を過ごすのだと思っていました。一緒に東京で大学生になり、漫画家を目指すのだ、と。
「透は東京で、漫画家を目指しなよ。おまえ、才能あるもの。俺、ずっと応援してるからさ」
 竜一は、優しい笑顔でいいました。
「俺、音楽とうちの店が何より好きなんだ。この店は俺が継がないと、閉めなきゃいけなくなるし。そしたら街のみんながCD買うところがなくなって困るじゃない。そんなの、街の文化の存続の危機だよ」
 夏の終わり、学校帰りに、中島川のせせらぎの音を聴きながら、親友のそんな決意を聞いたとき、透には夏の制服を着た竜一が、大切な砦を守る騎士のように思えたのでした。
 その言葉が胸に痛く、彼がまぶしく見えたのは、透自身は自分が継ぐべきだったかも知れない店を捨てていこうとしていたからでした。透の家も祖父の代から続く、街の小さな本屋さんだったからです。
 でも透の両親は、こんな小さな店は継がなくていい、おまえは都会に行きなさい、と背中を押してくれていました。漫画家を目指すことも、応援してくれていました。
 透は別に自分の家の仕事が嫌いではなく、むしろ好きでした。――ただ、本好きなだけに、都会の大きな書店への憧れがありました。
 テレビにたまに映る、都会の大規模な書店に一度でいいから行ってみたい、と思っていたのです。背の高いビルが上から下まで全部ひとつの書店のお店だとか、深夜まで開いている、洒落た繁華街の書店だとか、なんて素敵なんだろうと思っていました。自分の実家の書店とは規模が蟻と象くらい違うし、お洒落さも月とすっぽんです。長崎のいちばん大きい書店だって、きっと太刀打ちできません。
 上京したら、都会のあんなに大きなお店の常連になって、大学の帰りにかっこよく寄ったりしようと夢見ました。そしていつか、透は漫画家になり、描いた漫画は単行本になり、その大きなお店に並ぶのです。
 自分が長崎を出て、跡を継がなければ、実家の書店がどうなるかなんてことは、その素敵な妄想の前には無力でした。そもそもまともに考えようとはしていなかったのです。
 だけど、竜一は違っていました。
 親友が自分よりずっと大人の、違う世界にいるひとに思えました。

(もうずいぶん、遠い昔の話なんだよなあ。ついこの間のことのように思えるのに)
 故郷にはいつでも帰れる、竜一はあの店でいつまでも待っていてくれる。そう信じて自分の仕事にかまけているうちに、気がつくと、なんと長い時間が経ったのだろうと。
 だからいま再会できて良かったと思いました。たくさんお詫びをして、それから――。
「竜一、ちょっと待っててよ。あと少しで描き終わるから。あと少しで、ほんとうに」
 相談したいことがあったんだ。昔みたいに。
「この頃、ちょっと疲れちゃっててさ。あの、甘えかな。仕事がつまらなくなってきてて」
 振り返りもしないままにそう話して、でも、背中で親友が昔と同じ柔らかな笑顔でうなずいてくれているのがわかっていました。
 彼はいつも笑顔でした。竜一が怒っているところを、見たことがないような気がします。
 彼の腕の中の子猫の声と、遊びたいともがくたびに鳴る澄んだ鈴の音が、仕事机に向かう透の耳に、ずっと聞こえていました。

 朝日が射し込む仕事部屋で目が覚めたとき、それがあまりにリアルな夢だったので、透はすぐに顔を上げ、部屋にいるはずの竜一の姿を探しました。黒い子猫の姿も――。
 ひとと猫の名前を呼んで、立ち上がろうとして、そのまま椅子に座り込み、笑いました。
「そうか、夢か。夢だよなあ」
 竜一がいまここにいるはずがないのです。 十年も昔に、長崎で死んだのですから。
 毎日遅くまで店にいた竜一は、ある夜急な病で倒れ、そのまま亡くなりました。彼が祖父や父を亡くしたのと同じ、心筋梗塞でした。
 通夜や告別式に駆けつけることはできませんでした。仕事の〆切り直前でしたし、当時の透には、長崎行きの当日の飛行機のチケットは高すぎて、買うことを躊躇しました。
 同じ理由で初盆にも行けませんでした。人望が厚く、みんなに慕われていた竜一のこと、多くの友人たちや近所のひとびとの手で、立派な精霊船が作られ、流されましたが、透はそれに加われませんでした。八月十五日の夜は、ただ東京で、原稿にペン入れをしながら、長崎の精霊流しのニュースを見ていました。
「――東京に来ないまま、長崎で暮らしていれば、俺も精霊船、流しに行けたんだよな」
 ずっと東京に憧れていました。多少の苦労があったり、置いてきた街が恋しくなることはありましたけれど、自分で決めた道だから、後悔はすまいと思ってきました。でも、そのとき初めて、そんなことを考えたのでした。
 東京の大学生にならず、漫画家にならずに、長崎で学生生活を送り、長崎の会社や役所に就職して、ゆくゆくは親の店を継いで、地元で暮らしてゆく――漫画は仕事をしながら、たまに投稿したり、同人誌で自分のペースで書き続けたりして。そのうち気があう女の子がいれば付き合って、結婚して家庭を持って――そんな未来もあったんだよなあ、と。
 透の実家の小さな書店は、最近、店を畳みました。本は年々売れなくなってきていて、一方で万引きは増え、もう続けていても辛いばかりだから、と決めたのだと両親はいいました。小さな店のこと、街から消えてもたいして惜しまれもしないだろうと両親は思っていたそうなのですが、実際には、なぜ閉店するのだ、まさかこの店が無くなるなんて、と、町内のいろんなひとびとに泣いて惜しまれて、自分もレジでもらい泣きしたのだと――そう、母が電話で、涙声でいいました。
『お客様たち、これからどこに本を買いに行けば良いのか、っていうのよ。――コンビニじゃ、小説の本は売ってないし、コミックも売れ筋しかないし。どうしたらいいの、って』

(俺があの店を継いでいたら、店はいまも続いていて、街に本屋が残ったのかなあ)
『うちの店が無くなるなんて、文化の存続の危機だよ』
 そういった、高校時代の竜一の朗らかな声が、いまも耳の底に残っているようでした。
 その竜一のCDショップも、もう街にはありません。しばらくの間は、竜一の母が店を守ろうと頑張ったそうなのですが、やがて諦めて閉めたらしい、と母から聞きました。
 あの店に並んでいた美しい白木の棚も、それにぎっしりと詰まっていたCDの数々も、彼が祖父から受け継いだ外国の古いスピーカーも、その後どうなったのでしょう。透が店のために描いた、クロコの招き猫の色紙も。
「――もしかして、俺が長崎にいたら、竜一が死なない未来もあり得たのかなあ」
 透や竜一が十代だった頃、CDはとても売れて、店はいつもにぎわっていました。その後、音楽はダウンロードで買ったり、ストリーミングで聴く時代になり、いまや全国的にCDショップは消えていく時代になりました。
 竜一が倒れたのも、訪れつつあった時代の変化がストレスになっていた、そのこともきっと一因で――だからもしかして、透がずっと長崎にいて、互いに愚痴を聞きあったり、励まし合ったりできていれば、あるいは――。
 そうでなくとも、竜一の体調が悪そうなときは、早めに気づいてあげられたのかも。
 ふと思いだしました。高校時代、店のレジの手伝いをしていたときに、近所の小さな子どもが、コミックを買いに来た、そのときの笑顔でした。目を輝かせて、握りしめたお小遣いを渡して、一冊の新刊のコミックを、宝物のように抱きしめて、帰っていったのです。
「俺がもし、うちの店を継いでいたら」
 あの本屋は今もあって、あんなきらきらした目を見ることができていたのかな、と。
 体温であたためられた硬貨のぬくもりを、てのひらが覚えているような気がしました。

 気がつくと、今日は八月十五日でした。
「そうか。お盆か。竜一もクロコも、それで会いに来てくれたのかな」
 ひとりきりのマンションの部屋で、時計の音を聴いているうちに、次の〆切りまで、まだ時間がある、と気づきました。そして今夜は、長崎の精霊流しの夜じゃないか、と。
 じゃあ、夏休みってことで、超久しぶりに田舎に帰っても良いんじゃないのかな、と。
 思った途端に、旅行の準備を始めていました。着替えをリュックに詰め込んで背中に背負うと、タクシーで羽田に向かっていました。
 出がけにコーヒーテーブルの上に置いていた手紙と葉書をつかんで夏物の上着のポケットに突っ込んだのは、いつもの癖でした。
 担当編集者がたまに転送してくれる、読者からのファンレターです。時間が無くて、もう返事は書けなくなっていましたが、せめて大切に読むことはしようと決めていました。
 部屋にいると集中して読めないので、外に出かけるときに持参して、出先のカフェや公園のベンチで読むようにしていたのです。
(ホテルや飛行機の中で読もうかな)
 ちょうどいいや。そう思いつきました。

 お盆の羽田空港はごった返していて、けれど、長崎行きの飛行機のチケットを奇跡的に買うことができました。カウンターのひとも、良かったですね、と微笑んでくれました。
 奇跡的といえば、宿泊先のホテルも、ずいぶん高くはなっていましたけれど、ネット経由で押さえることができました。いざというときはネットカフェにでも行くか、と思っていたので、その幸運に驚いたものでした。
 長崎に呼ばれてるみたいだな、と、透は思いました。竜一の笑顔を思い出しながら。
『そうだよ、たまには帰って来いよ』
 空港の雑踏の中で、ふと、そんな懐かしい声が聞こえたような気がしました。
 笑みを含んだ、長崎訛りの優しい声が。
『おまえ、ずっと働いて、疲れてたんだろう? お盆くらいこっちで休んで帰ればいいさ』
 ああ、そうか。そうだね。
 空港のロビーのソファに腰掛けて、人の波を眺めながら、透はうつむき、笑いました。
「ずっと働いてきたさ。――だからもう、長崎行きの飛行機がどんなに高くても、一瞬も迷わないで、帰れるんだよ」

 張り切って久しぶりの空の旅を楽しもうと思っていたのに、気がつくとまた寝落ちしていました。長崎空港に着陸して、空港から長崎市内までのリムジンバスの車内でも、席に着いた途端に、座席で眠っていました。
 駅ビルの隣にあるホテルにチェックインして、部屋に入ってすぐ、ベッドに行き倒れるように倒れ込み、溶けるように眠って、そして目が覚めると部屋の中はほんのりと夕暮れ時の光が満ちていて、慌てて起きたのです。
「ああ、精霊流しが始まっちまう」
 まだ寝たりない頭で、気もそぞろな感じで、ホテルの部屋を飛び出したのでした。
 ホテルの玄関から外に出るとき、恐らく、透の顔色は悪く、ひどく疲れているのが目に見えたのでしょう。フロントのひとが話しかけてくれ、気遣ってくれました。
「精霊流しの夜、楽しまれてくださいね。長崎で良い時間をお過ごしになれますように」
 
「――長崎で良い時間を、か」
 県庁坂の雑踏の中で、流されてゆく船たちを見送り、爆竹の火薬の匂いのする空気を呼吸しているうちに、自分はなぜここにいるんだろうと、ふと、寂しくなりました。
 今更長崎に帰ってきても、竜一の船が出たときの、あの年の夏の、精霊流しの夜に戻れるわけでもないのです。
 彼の死を止められるわけでもありません。
 実家の本屋を継げるわけでもないのです。
 店を閉めたあと、急に老け込んだ両親は、離れて暮らしている姉の家の近所に引っ越して、孫の世話をしたりしながら暮らしています。実家の建物は店ごと手放しました。
「今更、俺はここで何をしてるんだろうなあ」
 県庁坂を下りていく船は、その先にある海を目指すように見えます。でも実際には、海のそばに、船たちの旅の終着点の、いわば精霊船の墓場のような場所があって、そこで船は壊されるのです。観光客のひとびとはあるいは知らないことかも知れません。だけど、地元の人間たちは船を送っていけば、その最期まで見守ることになるのでした。
 ずっと昔には精霊船は、ほんとうに海に流していたのだと聞いたことがあります。あれは祖父に聞いたのだったか、それとも祖母? 伯父か伯母? みんな鬼籍に入ってしまい、つまり、この街は透の故郷ではあっても、帰る家もなく、待つひともいませんでした。

 透もこの街で育った人間として、幾度となく、船とともに八月十五日の街を歩き、船の最期の時に付き合ってきました。
「クロコのときは、ほんとうに悲しかったな」
 竜一とふたりで作り上げた、小さな美しい船に手を合わせて、そこに残してきたとき、もう一度子猫の死を看取ったような気がしました。もう一度、お別れをするような。
 黒い子猫は、その短い生涯の最後の頃は、がりがりに痩せていました。それでも子猫は愛らしいままで、竜一と透が大好きで、抱いて欲しい、膝で寝たい、と、細い前足でしがみつき、のどを鳴らして甘えるのでした。
 犬猫のための健康保険は、まだ存在していなかったか、普及していなかったか。それくらい昔の話です。腎臓を病んだ子猫の医療費は恐ろしいほどの金額になりました。
 かかりつけの動物病院の、若い獣医師は、高校生ふたりが、貯金を崩したり、アルバイトをしたりしながら医療費を捻出するのを、いつも応援してくれていました。
 けれど、ある春の夜、すっかり弱ってしまった子猫を連れて、病院を訪れた透と竜一に、診察室の獣医師は、静かな声でいったのです。
「この子は、これ以上はもう、だめだと思う」
「だめって、どういうことですか?」
 震える声で、透は訊きました。
「クロコは助からないってことですか?」
「もう、この病院ではできることはないんだ」
 どこかで、そろそろその一言を聞くことになるのだろうとわかってはいました。どこかで、諦めてもいました。でもそれが今日、その日になるなんて、思いませんでした。
 冷静な声で、でもしゃがれたような声で、竜一が訊ねる声が聞こえました。
「他の病院なら、できることがあるのでしょうか? 助ける方法があるんでしょうか?」
「――この子の腎臓は、もうすっかりだめになっているんだ。人間だったら、人工透析をするしかないところだろうね。でも、猫の人工透析なんて、できるところがあるとしても、数が限られてるだろう。東京の、大学病院や大きな病院くらいになるんじゃないかな」
 透は立ち上がって、叫びました。
「ぼく、行きます。クロコを連れて。明日学校休んで、飛行機に乗って行きます」
「ぼくも――」
 竜一が隣で自分も立ち上がろうとして、言葉を飲み込みました。
 獣医師が透にいいました。
「もうこの辺で諦めた方がいいと思うんだ。飛行機のチケットは高校生にはとても高い」
「お金なら、なんとかします」
 透は即答しました。まだ蓄えはいくらかありました。バイトだって増やしていいのです。いざというときは、両親に頭を下げようとも思っていました。かわいいクロコを助けるためなら、何でもできると思いました。
「もし猫の人工透析ができる病院があるとしても、透析には大変なお金がかかるだろう。入院費だって必要になる。そして人工透析には壊れた腎臓を治すことまではできないから、この子猫を生かしていくためには、定期的に何回も透析をしないといけなくなるよ」
「ぼく、何回でも、東京に行きます」
「そのたびに、飛行機代と治療費がかかるんだよ。そうしてそれだけしても、何回、東京に行っても、この子の腎臓は、治らないんだ」
 優しい声で、獣医師がふたりにいいました。
「この子も、きみたちもよく頑張った。きみたちに拾われなかったら、きっとこの子は今日まで生きていることができなかったろう」
 透は診察台でぐったりとうずくまっているクロコをみつめました。体温が下がってひんやりしたからだをそっと撫でると、子猫は震えながら顔を上げて、小さな声で鳴きました。
 竜一が獣医師に、静かに訊ねました。
「ぼくたちがクロコのためにできることは、もう何もないんですね」
「家に連れて帰って、好きな場所に寝せてあげなさい。寂しくないようにそばにいてあげるんだよ。ずっと。優しくなでてあげなさい」
 クロコをタオルにくるみ、キャリーに入れて、診察室を出るとき、
「ありがとうございました」
 透と竜一が頭を下げると、獣医師はふたりに向かって、深く頭を下げました。
「ごめんね。助けてあげることができなくて」
 声が、泣いていました。
「助けてあげたかったよ」

 動物病院からの帰り道、中島川沿いの公園のベンチに、ふたりで座り込みました。
 竜一の膝の上に載せたキャリーの中で、タオルにくるまったクロコは、のどを鳴らし、小さな声で甘えるように鳴きました。
「……まだ生きてるのになあ」
 竜一が、クロコの頭を撫でてやりながら、かすれた声でいいました。
 透もクロコを撫でました。子猫は透の指をあたたかな舌で舐めてくれました。
「諦めなきゃ、いけないんだな……」
 竜一のうつむいた顔から、クロコのキャリーの上に涙の粒が落ちるのが見えました。
 透は、夜空を見上げて、いいました。
「俺さ、初めて、お金が欲しいって思ったよ。お金持ちになりたいって、心の底からさ」
 半ば笑いながら、透は夜空を見上げ続けました。そうしないと溢れだした涙が止まらなくなりそうだったからでした。
 月の無い空に小さな星が灯っていました。
「田舎の高校生って、何にもできないんだな。もし俺がいまおとなで、お金持ちなら――たとえば超売れっ子の漫画家だったりしたら、飛行機でクロコを連れて東京に行ってさ、大学病院で人工透析受けさせて――どんなに高くても、何回でも受けさせて。そうやって少しでも長生きするうちに、猫の腎不全を治療できる薬ができるかも知れないじゃないか。
 俺、お金が欲しいよ。クロコを長生きさせるための、お金がたくさん欲しかったよ」
「――大丈夫だよ」
 竜一が、笑みを含んだ声で、いいました。
「透は才能があるから、将来、きっと超売れっ子の漫画家になれる。お金持ちになれるよ。東京行きの飛行機なんて、毎日だって乗れるくらいのお金持ちにさ。プライベートジェットくらい買えるようになるかもしれないな」
「ああそうさ、俺には才能があるさ」
 透は泣き笑いの声で答えました。
 夜空が涙で滲みました。
「きっと一流の漫画家になってやる。お金持ちにだってなってやるさ。プライベートジェットだって買ってやる――でも、そのときは、クロコはもう、きっともう、いないんだな」

 それから何日も経たずに、クロコは死にました。その日、長崎市内は桜が満開で、透と竜一は、小さな箱にクロコの亡骸を入れて、桜の花が綺麗だよ、と箱に向かって話しかけながら、ペット霊園に向かったのでした。
 桜の花びらは、はらはらと青い空に散って、クロコの眠る箱の上にも舞い降りてきて、
「クロコ、生きてたら、夢中になって花びらにじゃれついただろうなあ」
 透と竜一は、そんなことを話しながら、涙を拭きながら、春の道を歩いたのでした。
 その年のお盆に、クロコの精霊船を作りました。ふたりでお金を出し合って、ホームセンターで材料を買い揃え、竜一の家の庭で大切に作り上げました。もう子猫を撫でてやることも、ご飯をあげることも、遊んであげることもできなかったので、心を込めて、最高にかわいくて、素敵な船を作りました。
 そして、八月十五日の夜、長崎港のそばの、精霊船とお別れするあの場所で、クロコの船とさよならをしたのでした。
 係りのおとなたちに船を預けて、頭を下げたとき、透は目の端で、小さな黒猫が駆け抜ける幻を見たような気がしました。赤いリボンを首に結んだ黒い子猫は、金色の鈴を鳴らして楽しげに夜の港を走り、黒い波の上を駆けて、海の遠くへ消えてゆきました。

 そんな思い出にふけりながら歩いているうちに、気がつくと、新地中華街のそばの、銅座川の辺りに来ていました。闇をたたえたような暗い水が静かに満ちて、揺れていました。
 大通りから外れたその辺りは、やや薄暗く、ひとどおりがときどき途絶えます。
 ふと、足下で鈴の音がしました。
 懐かしい、小さな生き物の気配も。
 心臓がどきどきと鳴りました。そっと足下を見下ろすと、そこに、黒い子猫がいました。
 首に赤いリボンを結んだ、金色の目の子猫が。透を見上げて、懐かしい声で鳴きました。
「――クロコ?」
 声が乾きました。
 それはたしかに、昔に亡くしたあの子猫でした。もう痩せてはいなくて、毛並みもつやつやで、元気だった頃の姿に戻っていても。
 猫は優しい表情で目を細め、ふと身を翻すと、暗い路地の方へ駆けてゆこうとしました。
「クロコ、待って。クロコ」
 考えるより先に、足が動いていました。
 夢なら覚めないでくれ、と思いました。

 きっと、寝不足と疲れているせいで見えた幻なのだろうと、頭ではわかっていました。
 二十年以上も前に亡くした子猫が、いま生きて、夜の街を走るなんてことがあるわけないと、そんなこと、わかっていました。
 もしそんな不思議が起きるとするなら、あの猫はお化けです。でも、お化けでも妖怪でも良いと思いました。透はクロコにもう一度会いたかったのですから。
 
 新地の辺りの路地は、そんなに広くはないはずでした。長崎の街があちこち再開発され、綺麗になって、だいぶ変わったように見えていても、走っても走っても知っている場所に行き着かないほどに、広がっているのはおかしいと、息を切らせながら、透は思いました。
 それにさっきからまるで人通りがありません。誰にも会わず、商店街には灯りもなく。街は闇に沈んだように暗く、静かでした。
 夏の夜の生暖かい空気の中を、自分の早い呼吸の音だけ聴いて走っているうちに、耳鳴りがしてきました。頭がぼんやりとします。
(日頃の運動不足が、たたってるよなあ)
 それでも小さな黒い影と、鈴の音を追いかけて、走り続け、通りを抜けたとき――
 そこはなぜか、懐かしい中島川沿いのあの公園でした。頭上には満月が煌々と光っていて、あの悲しかった日、動物病院の帰りに座ったベンチに、CDショップのエプロンをかけた大柄な人影が座っていました。
 その膝の上に、黒い子猫は駆け上がり、一声鳴くと、透を振り返ったのでした。
 透は、ぜいぜいと息をしながら、がくがくする膝で、ベンチに歩み寄りました。
「――やあ」
 懐かしい姿に、片手をあげて、泣き笑いのような表情で、声をかけました。
「やあ竜一、その、元気だったかい?」
 口にしてから、俺は一体何を訊いてるんだ、と自分で突っ込みをいれましたが、ベンチに座る親友は、楽しそうに笑ってくれました。
『透は、相変わらず、面白いなあ』
「そっかな」
『ああ』
「あのさ。竜一、おまえお化けなの?」
 率直に訊ねると、竜一は深くうなずいて、
『うん。まあどうやら、そうみたいだ』
「お盆だから戻ってきたのか?」
『たぶんね』
 月の光の下の友人は、亡くなった年のまま、透より十歳も若い姿のままでした。そのことが無性に悲しくて、透はうつむきました。
 膝の上の黒い子猫を撫でながら、竜一は昔と同じ、優しい声で透に訊ねました。
『久しぶりに会えて話せて、俺はすごく嬉しいけど、おまえは俺のこと、怖くないのか?』
 透はふふん、と笑いました。
「俺は漫画家だぞ。お化けと遭遇するのが怖いなんてとんでもない。美味しい経験だぞ?」
 胸を張りました。「いい取材になるだけさ。実話っぽい怪奇漫画って、人気があるだろう」
『それでこそ透だ』
 手を打って、竜一は笑いました。
 そして、明るい月を見上げました。
『おまえに伝えたいことがあったんだ。それが未練でお化けになれたのかな、と思ってる』
「そっか。未練があってくれて良かったよ」
 ふたりの顔を交互に見回しながら、黒い子猫が、にゃあと鳴きました。
『クロコもおまえに会いたかったんだってさ』
「おお、そりゃあすごい嬉しいな」
 クロコは得意そうに鼻をつんと上に向けました。喉が鳴っている音が聞こえました。
 透は自分もベンチに腰掛けました。子猫を撫でようとしましたが、目の前にいるのに、どうしても手をふれることができませんでした。ああ、この猫は、たぶん竜一も、ほんとうにはここにいないんだなあ、と悟ると、胸に棘が刺したように痛くなりました。
「なあ竜一、未練っていうか、俺に伝えたいこと、って何だ?」
 うん、と竜一はひとつうなずきました。
『俺さ、おまえの漫画が好きだったんだ。
 おまえが東京に行って、向こうで進学して、プロになっていった、そのどんなときも、おまえの描く漫画が好きで、応援してたんだ』
「ああ、わかってる。ありがとう」
 透は微笑み、うなずきました。
 たまに貰っていたメールや手紙にぎっしり描かれていた熱い言葉で、わかっていました。
『透の漫画に、いつも、励まされてた。読むときは心が子どもに返ってわくわくしてた。
 店が大変なときも、この先どうなるんだろうと不安になったときも、おまえの漫画を読んでいたら、いつだって元気が出たんだよ。
 不思議な話でさ。長崎と東京と、透といる場所は離れていても、心はいつも旅の仲間で、いつも一緒に敵に向かい合い、戦ってるみたいな、そんな気分だった。一緒にはてしない冒険の旅を続けているみたいなね』
「――そうなのか」
 竜一は笑ってうなずき、言葉を続けました。
『あとね。これいうと照れるんだけどさ、俺の親友はこんなにすごい漫画家なんだから、それにふさわしい人間でありたいって思ってたんだ。死んじゃったから告白するけども』
「そっか」
 そんなの、俺も照れるよ、愛の告白かよ、なんて軽く返したかったのに、言葉がのどのあたりで詰まって、何もいえませんでした。
『ありがとう』竜一はその言葉をもう一度繰り返すと、にっこりと笑いました。
『これからもずっと、俺はおまえの旅の仲間だ。会えなくて、見えなくたってそうなんだ。そしてね、おまえが漫画を描き続けていてくれる限り、俺たちの旅は終わらないんだ』
「かっこいいこというじゃないか」
『俺だって、漫画描いてたからな。かっこいい台詞のひとつやふたつ、いまも思いつくさ』
 竜一がふふんと笑うと、黒い子猫が抗議するような声で鳴きました。
『いまのちょっと訂正。旅の仲間はおまえと俺だけじゃない。クロコもなんだそうだ』
「そうか。そうだよな」
 透は子猫の頭を撫でました。ほんとうにはふれることはできないけれど、夜の優しい空気を撫でるように、そっと撫でてやりました。

 それからしばらくの間、竜一とあれこれと会話をし、冗談をいって笑ったりして。
 気がつくと、透ひとりがベンチにいました。
 満月はもう真上に登っていて、透はただ、ひとりきりで、明るい月を見上げました。
「――いまのが夢でも、幻でも」
 あるいはほんとうの出来事でも。
 自分は今夜、精霊流しの夜に、長崎で良い時間を過ごしたのだと思いました。

 無意識のうちにジャケットのポケットに入れた手に、何やら紙が触れて、あれ、これなんだったっけ、と引っ張り出してみると、ファンレターの手紙と、そして葉書でした。
 月明かりの下で、無意識のうちに文字を拾おうとすると、言葉が飛び込んできました。
『どんなに辛くて、さみしいときも、先生の漫画を読んでいると、元気と勇気が出ます。
 ここに仲間がいると思うから』
 そうか、と、透は呟き、微笑みました。
「そうか。ありがとう。先生頑張るよ」
 月の光の中で、伸びをするように両腕を伸ばしながら、ベンチから立ち上がりました。
 数歩歩いたところで、茂みから小さな鳴き声が聞こえるのに気づきました。
 茶トラの子猫でした。ひょいと飛び出してきて、透を見上げて、大きな声で鳴きました。
 胸の辺りの白い毛が夜目にも汚れていて、家が無いようでしたが、元気そうでした。
 透はかがみ込み、子猫を抱き上げました。
 目と目を合わせて、訊きました。
「なあ、猫ちゃん。俺と一緒に来るかい?
 東京の猫になるかい?」
 子猫は嬉しそうに、にゃあ、と答えました。
「よし。じゃあ、一緒に行こう」
 月の光の下を、ゆっくりと歩きました。
 歩きながら、誓うようにいいました。
「なあ猫ちゃん。もしいつか――もしいつか、不幸にしてきみが病気になっても、いつだってすぐに、病院に連れていくと約束するよ。日本一どころか、世界一の治療だって受けさせてやる。ブラックジャックだって呼んでみせるさ。絶対に、死なせたりしないんだ。
 だって俺は、一流の漫画家なんだからね」
 お金持ちになったんだよ。プライベートジェットはまだ買ってないけどね。
 そう思うと笑えて、だけど泣けました。
 子猫が細い首を伸ばして、ざらざらする熱い舌で、涙を舐めてくれました。
「ありがとう、大丈夫だよ」
 さてどうやってこの子猫を東京に連れて帰ろうか、とりあえず今夜はどうしよう。
 そんなことを考えながら、透は中島川沿いの遊歩道を、宿泊先のホテルがある長崎駅の方へと歩いて行きました。月の光の下、川のせせらぎの音を聴きながら。
 中通りと浜の町を抜けて、時間的に、いまはもう空いているだろう県庁坂を下りて。
(海沿いの道を駅に向けて歩いて行くか)
 夏の夜に、子猫を抱いて、いろんな思いに浸りながら歩いて帰るには、ちょうど良い距離だと思いました。月の光に照らされた綺麗な海を見ながら歩くのは楽しそうです。山の上の、稲佐山の電波塔も見えるでしょう。
「猫ちゃん、おなかすいてないか? コンビニで猫缶でも買って帰ろうか?」
 子猫に話しかけながら歩く透の姿を、満月が見守るように優しく照らしていました。

(おわり) 

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。