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魂たちのものがたり~地球に生まれて~其のⅢ

(~外伝~ 明日香の土地に)

時は、西暦538年、日本という国は欽明天皇が立っていた頃のことである。
この年、百済の聖明王の使いで使者が訪れ、経典や仏具、金銅の釈迦如来像やなどを献上した。この国に仏教が伝わることとなってきっかけである。
天皇は、初めて相まみえる仏像というものの扱いに、少々困っていた。敬い礼拝すべきかを臣下たちに問うたところ、大臣である蘇我稲目は、大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきであると主張した。それに対し、大連・物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の神が怒り神罰が下るであろうという理由から,仏教に反対し、排除すべきであると唱えたのだ。

天皇は、仏像の処遇に困り果て、試しに拝んでみるよう献上物を蘇我稲目に授けた。
稲目は、小墾(おはり)田(だ)の自宅に仏像を安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とすることにした。これが日本最初に設立された寺(向原寺)である。稲目は、朝に夕にこの仏像を拝んだ。仏像の前に座ると、心が落ち着く。彼は、次第に、この国に仏教を広める決意を固めていった。

その頃、医療が発展していないこの時代、国内では度々、疫病が流行った。天然痘である。流行り病の原因は、日本古来からの神の祟りであり、仏教を敬ったせいであると、物部氏は批判し、そうして、蘇我稲目が逝去すると,天皇の許可を得て、稲目の寺を焼き払ってしまったのだ。この時、家は焼けたにも関わらず、なぜか仏像は燃えなかったので、物部氏は、この仏像注1を難波の堀江に投げ込んでしまった。それでも,疫病はなくならず天災は続いた。
稲目には、馬子という息子がいた。馬子は父に違わず、仏教の教えを広めんと心に決め、そのために様々な画策を練っていた。この馬子こそ、三国のうち、実の国より降りてきた応凌である。彼は、一番先にこの地球に生まれることを宣言し、それが実現されたのだ。

さらに時をかけた西暦585年,この時期、再び、疫病が流行し、川原には、累々たる屍が積み上げられていた。物部尾輿の子である物部守屋は、この流行り病は、神の怒りであり、そもそも仏教を祀っていることが原因であると、敏達天皇に訴えた。天皇もこれに同意したため,物部守屋は、仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし,この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまい、続く、用明天皇も病死してしまった。天皇の後継者を巡り,蘇我氏と物部氏の対立は深まっていく。やがて武力衝突へと発展し、587年,蘇我馬子らは、物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。これを丁未の変という。こうして,大和王権における蘇我氏の権力が確立した。この戦いには神童と呼ばれて久しい14歳の廐(うまや)戸(との)皇子(みこ)(聖徳太子)が参戦している。この折、厩戸皇子は、形成の不利を打開するために自ら四天王像を彫り、もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済すると誓願され、勝利の後、その誓いを果たすために四天王寺を建立する。
さて、この厩戸皇子こそが、実は日美の神の化身であった。厩戸皇子が自らの存在を思い出すまでには、まだ数年の時が必要である。当然、蘇我馬子である応凌も自らがなんたるかを想い出してはいなかった。

蘇我馬子は、仏教を基盤とした国造りを、廐戸皇子とともに行っていこうとしていた。
それほどに、厩戸皇子の才は、群を抜いており、皇子の力を得ることは、大和王権に従う豪族たちを束ねるために、必要だったのだ。

馬子は、仏教を広めるために、西暦588年に飛鳥寺を建て,ここを拠点とした。
592年,蘇我馬子は、自身の部下である東漢(やまとのあやの)駒(こま)に、崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたり,敏達天皇の妃であった炊屋(かしきや)姫(ひめ)を推古天皇とした。この推古天皇は、賢者源水の妹背となった蓮華媛である。
推古天皇の甥の厩戸皇子が摂政となり,政治を行い、ここに,推古天皇,厩戸皇子,蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立したのだった。

注1 難波の堀江に投げ捨てられた仏像は、半世紀後に、信州の本田善光が見つけ、長野善光寺の絶対秘仏として現在も存在するといわれております。

(明日香村に遺る当時の寺社 part 1 )
・飛鳥寺:(奈良県高石群明日香村)現在の飛鳥寺は本堂が残されているのみだが, 当時は,東西210m,南北320m,塔の高さ40m,3つの金堂を持つ大寺院だった。
寺には、蘇我氏の時代に作られた一丈六尺 約4.85mの飛鳥大仏(作 鞍作(くらつくりの)止利(とり))がある。
・橘寺・伝聖徳太子生誕地(奈良県高市郡明日香村)


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