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空っぽ砦の蝶① 夏樹さんとの邂逅


 夏樹さんとの出会いは去年の6月の終わり。既に夏の気配が、うだる暑さとなって感じられる夜のことだった。

 その日、住処である八番街へと帰ってきた私は、部屋でごろごろ暑さと格闘していた。本当ならそのまま1日が終わるところだったのだけれど、夜もいい加減更けた頃、突如ベランダで飲もうと思い立ってしまった。
 引き戸を思い切り開けると、寝ぼけた蝉が驚いて、一声鳴いて飛んでいった。

 週末、しかも次の日はバイトが休みという、どこか浮ついた気持ちになる夜のことだ。こういう時は何か特別な事をしたくなる。階下の天井がせり出しているおかげで、3階にあるうちのベランダはとても広く、天気の良い日は古いパラソルなんかを出して過ごすこともあった。正面にある〝寅〟は基本的に人の気配が無いものだから、誰に見咎められることも無く、私は自由気ままにベランダで好き勝手させてもらっていた。

〝寅〟の外見は奇妙で、モザイクか、パッチワークを髣髴とさせる見た目をしていた。古びて土くれみたいな外壁なのだけれど、部屋ごとに薄っすらと色が違うのだ。ピンクだったり緑だったり、昔はさぞカラフルだったことだろう。
 古いベランダには、日に焼けた物干しだとか、いつの時代の物か分からない二槽式のおんぼろの洗濯機だとかが置きっぱなしになっていた。それらの背後では一様に空虚を内包した窓がぽっかりと開いて此方を向いていて、まるで洋画で見た共同墓地に置かれた髑髏の眼窩。暮らし始めた頃は怖かったけれど、慣れた今となっては、どこか遠くの国を夢想する材料にしかならない。
 
 室内から苦労して引っ張り出した安楽椅子の背に凭れ、ビールのプルタブを開けて振り仰ぐと、上の階がごちゃごちゃと空を狭めていて、その間から見える月がやけに大きく見える。杵をかついだウサギまで観測できるほど。

 最初の一缶を早々に飲み干して、そういえばこのベランダには柵がないな、となんとなく思う。洗濯物を干すときなんかは全然気にしていなかったけれど、酔っぱらって落ちるような真似はしたくない。すべては生きていてこそだ。

 二缶目のプルタブに指を掛けたときだった。
 カラリ、と乾いた音がした。思わず動きを止めた。音は建物の谷間に妙に響いて落ちていく。手に持った少し温くなった缶を思わず握りしめる。音の発生源を突き止めるのは至極簡単だった。丁度同じ高さの向かいの〝寅〟で、白い影がゆらゆらと動いていたからだ。その影は薄くて、日常から乖離した存在に思えた。私はついにこの日本版カタコンベを彷徨う幽霊の幻を見てしまったのではないかと、軽く酔っぱらった頭で考えた。正面の建物で、人の姿を見たことはほとんどない。少なくとも、私がここに引っ越してきてから、1年間は無人の筈だった。

 じっと動けずにいると、その影は月明かりの照らす位置までゆらゆらと動いてきた。
 
 改めて見れば、白っぽいワンピースの部屋着を着た女性だった。私と同じように月を見上げ、それから、ちかちかと小さな火を灯す。やがてささやかな煙が揺蕩ったけれど、すぐに月光に淡く溶けて崩れてしまう。気怠げにくたりと手摺に寄りかかり、長い髪を微風に翻す女性の姿。ほとんど動くことは無くて、時折口元に煙草を持って行っては煙を吐くだけ。
 
 その様子は酷く無気力に見えた。私と彼女が共有する、建物に囲まれた歪んだロの字型の空間。そこに満ちた夜の、透明な濃い藍の中。時折動く、白くて長い彼女のむき出しの腕だけが、別の生き物のように背景の建物に映えていた。何時の間にか缶に口をつけるのも忘れて見入ってしまった。空の部屋が並ぶ遺跡の中で唯一の存在。まるで瀕死の絶滅危惧種の動物みたいに頼りなく見えた。

 私の視線に気付いたのか、白い影は手摺から上半身を起こす。ばちりと視線が合った気がした。ざっと10メートル以上は離れた位置だったのに、瞳がはっきりと私を捉えている事が分かった。お化けに見つめられている訳じゃないのに、思わぬ出会いにどきどきと脈が速く打つのを意識した。

 やがて白い影がひらひらと腕を振り、はっとして慌てて手を振り返す。笑っているのだと気がついて、少し気まずくなった。でも私のことなどお構いなしで、煙草を吸い終わった彼女はさっさと暗い建物の中に戻って行ってしまった。
 
 その夜から、ベランダに出ると会う事もあり、手を振ったり会釈したりを繰り返した。部屋の電気が点かなかったのはこの出会った日の夜だけ。やがて彼女の住処は寅棟で唯一灯りがともる場所になった。月夜の幻かと思った女性。時折聞こえるようになったピアノの音と共に、寅棟に越してきた女性の存在は本に埋もれた私の生活に少しの変化をもたらした。


 ある日、商店街のスーパーでばったりと本人に出会った。

「あら?」
 
 お惣菜のコーナーでポテトサラダを手に取った時だった。不意に近くで声が聞こえた。振り向くと、眼鏡にスーツの女のひとがいた。私は困惑した顔をしていたと思う。彼女の姿に全く覚えが無かったから。でも、女性は興味津々と言った様子で私を眺めている。その視線にいたたまれなくなって、ポテトサラダを持った手を慌てて買い物かごに突っ込んだ。

「えっと、どちら様、ですか?」
「初めまして、小野夏樹です。ほら、あなたの家のお向かいに住んでる」
「ああ! ベランダのお姉さん──」

 分からなかった。目の前のハイヒールを履いた強そうな人物と、いつも見かける、手摺に柔らかな縫いぐるみか何かのようにくたっと引っかかっているひとが結びつかなかった。
 驚いたのは眼鏡の奥の彼女の瞳の色。左目はヘーゼル色をしていた。ただ、もう一方の目は幾らか暗く、茶色に近い。ベランダで視線が合った時に妙に印象に残ったのはこの色の違いのせいだったのかもしれない。

「それにしても、本当にいたのねぇ」
 
 夏樹さんは、何が面白いのか不躾に私の頭のてっぺんから足の先までじろじろ見てくる。私は、自分が変な格好をしていないかどうか不安になった。いつも通りのワンピース。レースをあしらった紺色の生地で、首の後ろは編み上げのデザイン。悪くはないと思うけれど、あまり見られると落ち着かない。
 そういえばお向かいさんとは言っても今まで話した事もない他人なのだ。つい半歩くらい後ずさりをしてしまう。

「……」
 
 彼女は何かを言いかけて言葉をひっこめた。
 ほんの一瞬寂しそうな顔をしたけれど、それをすぐに笑顔で上書きする。瞬きをしたら見逃すくらいの短い瞬間だった。

「いやねえ、そんなに怖がらないで。驚いただけなのよ。近くで見ると改めて可愛いなあってね?」

 私は彼女から目を離すことはしないまま、そっと会釈をした。それにしても、可愛いなんてあまり言われたことが無いからくすぐったい。高校解体と同時に髪は肩までばっさり短く切ってしまったし、そばかすの浮いた顔は昔からコンプレックスだった。

「阿左美、十羽です」
 
 名乗ると、夏樹さんは嬉しそうに微笑んだ。そうして、とわ……十羽、と何回か声に出して繰り返してから、頷いた。笑顔に少しだけ申し訳ない気持ちになる。この人は、私と似たような境遇にあって八番街で暮らしているのかもしれない。それなら人恋しくなるのも分かる気がする。ひょっとして私は、大分失礼な態度を取ってしまったのではないだろうか?
 不安が首を擡げたけれど、夏樹さんは、ぐるぐる考えている私をよそに、ずっとにこにこしていた。そして私の入れたポテトサラダのパックを指さしてからゆるりと首を傾げたのだ。

「それ、お夕飯? もし良かったらおかずをお裾分けしましょうか。メンチカツは好き?」
 
 メンチカツ。温かい食事に飢えた食べ盛りに、これほど効果のある言葉はあるだろうか? 彼女の買い物かごの中には、確かにメンチカツの材料らしきものが入っている。こくりと、つい喉が鳴った。

「……いいんですか?」
「勿論、ご近所のよしみってやつね。ご挨拶もかねて」

 夏樹さんは、その日言葉通り熱々のメンチカツを届けてくれた。見慣れたくたりとした格好に着替えてやってきて、途端に身近に感じる。恐る恐るベランダビアガーデンを提案すると、手を叩いて喜んでくれて、一度家に戻って更に沢山の作り置きのおかずを持ってきてくれた。廃墟の幽霊、若しくは絶滅危惧種の動物が、空間を飛び越えやってきた。秘密のパーティーが開かれたみたいで、胸がドキドキと跳ねて止まなかった。

 このスーパーでの出会いから、彼女はたまに家にやって来るようになった。来る数日前に律義にメモを私の住む〝丑〟の玄関ホールにある伝言板に書いてくれる。それに、私がそれに返事をする。
 お互いの都合が合えばおかずを持ってきてくれたり、お茶をしたりするし、駄目な時はメッセージだけ。奇妙な関係だったけれど、彼女と過ごす数時間は、私の中のちょっとした楽しみになった。

 約束のある日はバイトが終わるのが待ち遠しくなるくらいで、そわそわとした雰囲気をバイト先の店長に勘繰られたりもした。でも、店長には夏樹さんとのことは内緒だった。というか、どう話して良いか分からない関係だったのだ。友人ではないし、ただのご近所さんにしては距離がやや近い。加えて、互いの素性をよく知らないともなれば、下手したら心配されかねない。

 夏樹さんはどうやら外国の企業の会社員で、普段はかなりきちんとした格好をする人だった。ベランダビアガーデンから少しして、駅前でばったり帰宅途中の夏樹さんと出会って判明した。

 夕方で多少よれてしまっていたけれど、まるで映画の登場人物みたいな恰好をしていた。勿論ばっちりお化粧もしていて、歩き方だって堂々としていて、遊びにやってくる時の緩い感じはすっかりなりを潜めていた。夕陽の加減で瞳に光が当たったせいで、余計に色の違いが目立って見えた。

 話ながら見つめていたら、眼鏡を見ているのと勘違いしたようだ。初対面の人に驚かれないように掛けているのだと説明してくれた。「ほら、この目でしょう? 右目義眼なのよ。メガネをかけた方が目立たないから。勿論残った目の視力が悪くなったってこともあるんだけど……」そんなことをこともなげに言ってかったるそうに笑った。長いふわっとした髪を纏めて肩にかけていて、なんだかふさふさの尻尾をしたオッドアイの猫みたい。

 ところが、金曜日の夜から日曜日にかけてはまるで別人だった。ジャージだとか、ジーパンだとかで、私の部屋でひっくり返って雑誌を読むか、さもなくば自分の家のベランダの手摺にくったりと寄りかかって煙草を吸っている。
 姿が見えなくても徒にピアノを弾いているのが聞こえてくることもあった。それなりに上手いとは思うけれど、大体中途半端なところで終わってしまって、最後まで弾いているのを聞いたことが無い。年齢は多分、20代後半から30台前半だろう。大人というのは意外と大人ではないのかもしれないと思うくらい、行き当たりばったりで好き勝手に生活しているように見えた。

 夏樹さんがなんの仕事をしているのか、問うたことはない。
 夏樹さんも私がなぜ此処に住んでいるのか問うてきたことはなかった。互いの詮索は無用。八番街に暮らす人のルールみたいなものだった。

 私達は平日、決められた時間に一斉に動き出す。始業時刻が大体一緒だから、一定の時間に民族大移動みたいにごそっと人の塊が北にある外国へと動く。まるで都市全体が大きな工場のようで、ベルトコンベアみたいな電車に乗って行ってはまた帰ってくる日々。  
 私は週3回、大学の講堂で行われる、高卒の資格を取る為の講義を受けていた。その講義と、商店街のバイトが社会との接点であり縛りだった。幸いそれを窮屈と思ったことはないのだけれど、退屈だとは思っていた。週末だけが縛りの無い自由な時間。遠くに行く事は叶わないけれど、好きに考え好きに行動することができる。
 まあ大体家に籠って本を読んで過ごしていた。本を読んでいる間はハックルベリー・フィンになってミシシッピ川を下ったり、時にはネモ船長のノーチラス号に乗務員として乗り込んで海底を旅したりできたから、外に出なくてもなんら問題はなかったのだ。
ただ夏樹さんが来るようになってから、その生活も少し変わったのだけれど。

 その日は海の日だった。
 激しい雨に八番街は襲われていて、まだ昼間だと言うのに部屋は薄暗かった。さぁさぁ、ざぁざぁと強弱を変えて絶え間なく聞こえてくる水の音。対照的に静かな部屋の中は幾分涼しく、ら洞窟のように居心地が良い。私は窓際の机の上に火を点けたランタンを置いた。ランタンは両親の持ち物で、実家の倉庫の中に眠っていた。滝のように流れる水がランタンの炎に照らされているのを暫し眺めてから、安楽椅子に身を沈めた。パラフィンオイルが微かに焼ける匂いが部屋に漂う中、本棚から選んだ銅色の大きな本のページを捲って、物語に入り込んでいく。
 
 ところが、プロローグが終わって数ページもしないうちに、玄関の重たい扉をノックする音が聞こえたのだ。
 最初は嵐の所為で折れた枝がドアに引っかかったのだと思った。

 しかし、二度、三度と明らかに意思を持ったノックが聞こえた。不審に思いつつ本を置いて玄関に向かう。ドアを隔てた向こう側に得体のしれないものの気配がした気がして、一瞬開けるのを躊躇してしまう。もう一度、ドン、と強く打たれたドア。はっとして、私はドアノブを握った。

 外には、びしょびしょに濡れた夏樹さんが、閉じた傘と紙袋を手に立っていた。開いたドアの向こうで雨と埃の匂いが急に濃くなる。濡れて重たそうなジーパンと、半袖からのぞく水滴だらけの二の腕。普段はふわふわの長い髪が房になって青白い頬に張り付いていた。酷い姿に驚いて息を飲む。夏樹さんの家からうちまで3分もしない距離なのだけれど、暴風雨の中で傘はあまり意味をなさなかったのだろうか。いや、それにしたって濡れすぎな気がする。

「……こんにちは。忙しかった?」
「いえ、忙しくは無いですけど、どうして」

 上手く言葉が出てこなかった。どうしてそんなに濡れてるんですか。どうしてこんな日に来たんですか。伝言板にメッセージは無かったのに、どうして、どうして。まるで疑問が喉に痞えてしまったみたいだった。

 私は、夏樹さんが提げていたタッパーを受け取りながら、玄関の三和土に彼女を引き入れた。ばたんと音がしてドアが閉まると、また外が遠くなる。閉じた傘に違和感を抱きながら、夏樹さんの足元に水溜まりが出来る様子を目で追って、そうして彼女がサンダルであることを知った。真っ白な足の甲と綺麗に塗られたペディキュアの上に水玉が幾つか乗っている。跳ねた土が、指を汚していた。

「雨が止むのを待ってからでも良かったのに」
「待っていてもどうせ止まないわ」

 受け取った荷物の中身はわらび餅だった。黒蜜らしきものも別の小さな入れ物に入れてある。私はそれをテーブルに置くと、夏樹さんを脱衣所に放り込む。タオルと一緒にTシャツとジャージを渡すときに、偶々触れた指先が、真夏とは思えないくらい冷えていた。

 わらび餅を冷蔵庫に仕舞い、薬缶を火にかけた。戸棚から紅茶の缶を取り出す指先が覚束ない。やがて薬缶の口がしゅんしゅんと蒸気を吐き出し続けていることに気が付き、自分が呆然としていたことを自覚する。よく考えなくても夏樹さんの恰好は異常だった。それにこんな風な来訪は初めてだ。今までおかずのやり取りをしたことや、流れで一緒にご飯を食べる事はあったけれど、それだって約束した上でのことだった。

 やがて、温まって出てきた夏樹さん。眼鏡を外していたので、はっきりとその顔を見る事ができた。どういった仕組みなのかは分からないけれど、本物そっくりの義眼はきちんと収まったままで、まるで私のことが見えているみたいに見えた。

「帰るの、雨が止んでからにしてくださいね」
「止むのを待っていても今日は無駄だと思うけど?」

 再度同じことを言う夏樹さんは、首からタオルを掛けたまま、外の雨を見つめていた。頬に赤みは差していたけれど、初めてベランダで彼女を見た時みたいにどこか「薄い」感じがした。存在が希薄で、どことなく幽霊みたいで頼りない。

「今日は一日雨だって。もう少ししたら帰るから」
「なんでうちに来たんですか」
「なんで……ってわらび餅作りすぎちゃったから」
「ええ?」

 多分嘘だ。歳の離れた人の考えている事はイマイチ分からないけれど、茶色の義眼と同じくらい、ヘーゼルの左目も作り物のように何の感情も映していなかった。

「夏樹さん?」
 
思わず名を呼ぶと、我に返ったように私の方へ振り返った。そこにはいつもの彼女がいた。ほっとした半面、飲み込んでしまった違和感を消化することはできなくて、鳩尾のあたりが重たくなった。

 二つの安楽椅子と、テーブルの上に用意した紅茶。最後の一滴まできちんと淹れてから夏樹さんに渡す。安楽椅子を軋ませてカップを受け取った彼女は、嘘みたいに落ち着いていた。お風呂まで頂いちゃって助かるわぁ、なんて言いながらカップを大事そうに抱えている。
 何かあったんだろうなって思ったけれど、私は何も問う事はしなかった。

 結局雨は止まなかった。
 胸騒ぎがして、夕方を過ぎても夏樹さんに帰りを促せなかった。銅色の本を机に置いたまま他愛のない話をして、冷蔵庫にあった適当なもので夕飯を作り、デザートにわらび餅を頂いた。
 夜も更けた頃、私はランタンをもう二つ増やして、古いプレーヤーでカセットテープを掛けた。部屋の電気を点けても良かったのだけれど、この方が嵐の夜「らしい」気がした。最初に灯した炎が机の上で眩しさを増していた。開け放したカーテンの外では硝子の上を相変わらず水が流れていて、炎をきらきらと乱反射させる。

「十羽は、ここにはどのくらいいるの?」
「ええと、暮らしだしたのは一年前ですね。高校解体と同時に来ました。昔祖父がここに住んでいて、その部屋を継いだ形です」
「じゃあ、あんまり日は経ってないのね」
「でも小学校の頃から、ここにはよく来てましたよ。二人いた同級生とは家が遠くて、普段遊び相手もいなかったので、本が友達でした」

 安楽椅子を揺らす。質問に答えながら、あれと思った。今まで一切身の上話的な事を彼女の口から問われたことが無かった。私と夏樹さんを隔てる一線。その一線は越えられないものだと思っていたのだけれど。線が歪んだ気がした。

「ご実家は遠いの?」
「いいえ、30分もしない距離です。1ヶ月に2度、帰って掃除をしていますけど。……ひょっとして夏樹さんも、私が八番街にいるのを変に思いますか」
「なんで? 誰かに変って言われたの?」
「ええ、変わってるって、商店街の人達に」

 髪を指先で弄って答えた。変わっていると言っていたのは主にバイト関係の人達だ。特に店長は私がここで暮すことに良い顔をしない。とても良い人なのだけれど、そしてこれは主に自分の所為なのだけれど、心を開ける気はしなかった。髪は指先をするりと抜けていく。真っすぐで母親によく似ていると言われた黒い髪。

 ここに住んでいると高確率で問われる。「何故わざわざそんな所に住んでいるのか」。多分、世間一般的な認識では、この八番街は治安と縁起の悪い場所。付近の通りの四つ角や、住居の塀なんかにお札や小さな鳥居が散見されるのも偶然ではないのかもしれない。それどころか、この地域一帯に特に空き家が多いのも八番街が原因だと言われている。

「夏樹さんはどうしてここに……?」
「私は、この間まで会社の傍に住んでバリバリ働いてたんだけど、なんか突然疲れちゃったのよね。バーンアウトってやつかしら。職場と自宅が近い所為もあるかなってこっちに越してきたの。ほら、海外の魔窟っぽくて素敵じゃない? 忙しい日常から離れるのに丁度いいかなって」
「ここ、変わってますもんね。非日常を体験できるって宣伝打てば、もっと住人増えそうなのに、商売っ気の無い」
「宣伝なんてしたら、私の秘密基地に人が増えちゃうじゃない」

 親近感のあるなつっこい顔につい警戒心が和らいでしまう。

 八番街は稀に、あることに使われる。それこそがご近所に忌避される理由の一つ。引っ越しをする前に、不動産屋さんが説明しないわけはない。承知した上で尚この人はここで暮らそうと決めたのだ。ふわふわの見た目に騙されそうになるけれど、変わった人であることは事実だった。それなのに、距離感と表情についほだされてしまう。
 
 夏樹さんの髪は柔らかさを取り戻していた。それにずぶ濡れだった時より顔色が良く、少し眠そうだ。

「で、どうして今日うちに来たんですか? 」
「んー……そうねぇ。人恋しくなったのかもしれないし、他に理由があったのかもしれないけど……忘れちゃった」

 本題に踏み込んだのに、のらくらとはっきりと理由は言わない。

「はいはい、そうですか」

 だから私もそれ以上は踏み込まなかった。プレーヤーがカセットの裏と表を入れ替える音がした。再び流れるクラシック曲が間を程よく埋めてくれる。

「あ」
 
うつらうつらとし始めた彼女が小さく声を発した。

「これ、知ってる」
「有名ですよ。テンペスト」

 私の好きな曲だった。雨に閉じ込められた空間にぴったりだった。

「ああ、ベートーベンだっけ。うちにあったかな」
 
 楽譜があったら良いな、と内心願う。生で聴けたら素敵だろう。〝丑〟と〝寅〟が造りだしたロの字の谷に落ちていくピアノの音。夏樹さんが弾いている時、私は密かに窓を開けていた。スピーカーから流れるものと違って空間に響く音達は、ちゃんと触れることができるものだった。それはまるで落ちる花弁に手を伸ばすのに似ている。ほとんど重さを感じないのだけれど、確かに肌に感触が残る。

 ピアノ曲はやがて終わり、サティの優しい調べが部屋に満ちた。曲の終わり付近で夏樹さんが目を閉じ始めたので、未開封の歯ブラシを押し付けて、洗面所に押し込む。しゃこしゃこと磨く音を聞きながら、私は台所の棚からブランデーを取り、紅茶に足した。瓶とカップのふちを当ててしまって、かちゃりと音がした。その音が流れるクラッシックに微かな不協和音として混じった。

 夏樹さんが「それ」を目的にやってきた可能性。
 「それ」が目的の人はいままでお年寄りの人が多かったから、すぐには繋がらなかった。ひょっとすると夏樹さんも暗に私に「それ」が目的でここに住んでいるのかと尋ねてきた可能性がある。でも生憎私は、「それ」目当てで此処に暮らしてはいない。実家よりも程よい狭さの部屋と、祖父の本こそがここに暮らす理由だった。祖父は、この部屋とぶち抜いた隣の部屋を買い取っていたから、八番街が撤去されない限り、私はここで半永久的に本と共に暮らしていけるだろう。ここでの生活はささやかだけれど魅力的で、手放すつもりは無い。

 夏樹さんだって「それ」なんか必要なさそうに見える。でも、そう思う反面、彼女の義眼や今日みたいな様子を見ると否定もしきれない。誰にだって人には見えない悩みを抱えているものだ。夏樹さんがいつもと違った様子を見せたとしてもそれはなんらおかしなことではない。お気楽に暮らす私にだって、空っぽの実家がある。あれはしんと押し黙って私をいつまでも待っている。

 隣の部屋との仕切りであるスライド式の本棚を開けて、来客用の布団を用意した。請われて私も隣に自分の布団を敷いた。ランタンの灯りを全て消してしまうと、急に嵐の海に放り込まれたような気持になる。ざんざん勢いを増す音の中で、夏樹さんが寝ぼけた声で言う。

「十羽は、一人で寂しくないの?」
「別に。もう慣れました」

 答えると、不満そうな呻き声が聞こえた。そんな声を出されても、慣れるしかないのだから仕方がない。止まない雨の音の中で、ごそごそと動く気配を察知した。しばらくして、タオルケットの下で左手を掴まれる。

「……お姉さんが寂しがり屋の十羽ちゃんの手を握っていてあげよう」
「寂しくないですって」
「つまんないこと言わないの」

 手の温かさに眠気が助長され、思考が曖昧になっていく。夏樹さんを帰さなかったのは心配だったから。それは確か。でも、ひょっとしたらティースプーン一杯程度、寂しいというエゴが含まれていたのかもしれない。それを認めてしまったら、ここでの生活が苦しくなってしまいそうだった。だからできない。

 私は意識を無意識の闇の中に投げ入れる直前に、自分の気持ちに蓋をした。



 七月の終わり。夏が本番を迎える頃。夏樹さんは一度、きっかり一週間姿を消した。

 海の日に約束も無くやってきてから、彼女との距離が縮んだように勝手に思っていたので、予想外の不在に少なからず動揺してしまった。
 
 彼女の消えた日、バイトは日中だけで、家に帰り着いた時はまだ日が高かった。重たい玄関のドアを開けた途端、部屋に溜めこまれた熱気が身体を包んだ。耐えかねてドアを欠けたブロックで固定する。そうしてカーテンとベランダの引き戸を開け放って風の通り道を作った。驚いて、外の壁に止まっていた蝉が鋭く一声鳴いて飛んでいった。

 目の前に飛び込んできたのは何時ものモザイクみたいな景色──のはずだった。でもこの時、強烈な陽を浴びてからっからに乾燥して聳え立つ向かいの建物は、遺跡というよりも、廃墟に見えた。古びた蝉の抜け殻みたいに伽藍洞。じっと見つめても只管空虚ばかりが目についた。

 急に、焦りに似た何かが身体の内側からせり上がってきて、私を動かした。陽に焼けて熱くなったサンダルをつっかけてベランダに出たけれど、誰も顔を出さない。

「夏樹さん?」
 
 いないことは分かっていた。彼女は社会人だから、まだ帰ってくるには早い時間だった。それでも虫の知らせというものだろうか。この瞬間の彼女の不在が取り返しのつかないものであるような気がして、動揺で足元がぐにゃぐにゃになったような気さえした。

「なつきさん……」

 声に出して彼女の名前を呼ぶと、建物の谷間に音となって落ちていく。

「な・つ・き・さーん!」

 もう少し大きな声を放った。〝寅〟の壁にぶつかり、下の階で微かに物音がしたけれど、返事は無かった。まるで彼女の存在が目の前の建物に塗りこめられてしまったように感じた。刺すような日差しがじわじわと肌を焼いていくのも構わず、私は呆然と立ち尽くした。首筋や背中を汗が流れていく。気が付けば蝉が一斉に鳴いていた。建物全体を取り囲むようにわんと空間を震わせる。大合唱にひるんで、私は後退って床にへたり込んだ。

 油断していたのだ。この場所に夏樹さんはぴったりだったから、こんな早くにいなくなるなんて思いもしなかった。最後に交わした挨拶が何時だったかも思い出せない。私の悪い癖がまた出てしまった。何も見なかったことにすると言うその癖は処世術であると同時に自分の首を絞める。ああ何時も失ってしまう。このどん底のような八番街で、「それ」はいつだって身近にあったはずなのに。

 この時の恐怖に近い感情は一週間後にあっさりと払拭された。テンペストが夕闇に響いて、夏樹さんの帰還を知らせた。肌に音を感じてほっとしたけれど、今思えば彼女がいなかったあの期間は、前兆のようなものだったのだ。

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